春がきていた

未分類
03 /06 2013
まいったな
二度寝して目が覚めたら 冬が帰ってしまっていた

窓から見える外はまぶしいほど輝いていて
窓を開けると清新な光の束が
青い青い天から地上に降り注いでいた

庭に出るのを待ちかねていた黒い雄犬が
光の強さにびっくりして
「これはなぁに?」と振り返った

あぁあ、春が来たよ

この春はきっと子供
自分の出番がうれしくって
きらきらはしゃいでいるんだろう

この春は きれいすぎて 純粋過ぎて
私は 目も開けられないから こうして下ばかり見ている



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イラスト素材 Night on the Planet http://landetvous.com/nightontheplanet/
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おぼえておこう

未分類
03 /02 2013
わたしだって可愛いころがあったんだ
すべすべでほかほかの肌に
ぱつんとそろえたまっすぐな髪
わらうと口の横にちょこんとへっこむえくぼ

かわいいね かわいいな と見つめられて
さぁおいで こっちだよ と抱っこされて
高い高い声で うれしさしかないこころで
うんとうんとわらったっけ

わたしがあんなに可愛かったころを知る人は
いまはもうお墓のなかだけれど

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わたしだって可愛いころがあったんだ
つやつやしたきれいな肌に
光を受けてかがやく髪
わらうと口の横にちょこんとへっこむえくぼ

だいすきだよ あいしてるよ とささやかれて
いっしょになろう 結婚しよう と求められて
上目づかいにうつむきながら
こっくり うん とうなづいたっけ

わたしがあんなに可愛かったころを知る人は
いまはもうわたしの顔すらわからないけれど

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わたしがあんなに可愛かったころを知る人は
だあれもいなくなったけれど

わたしはあなたをおぼえておこう
お墓のなかでねむるあなたを
すべてをわすれていくあなたを
わたしはずっとおぼえておこう
ずうっと ずうっと おぼえておこう


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イラスト素材 mariya http://serenity.whitesnow.jp/mariya

親は先に逝くものだから

未分類
11 /19 2011
同世代の人のブログを読んで、ときどきお目にかかる親の記事。
しかも大半の人たちは「親とは決して仲が良くない」らしい。

かといって、面と向かってケンカするわけでもなく
心の底でむかついたり、あきらめたり、呆れたりしながら
老いた親とそこそこ、あたりさわりなく
距離を置きつつ付き合っているというのが主流のようである。

私もそうだったから、よくわかる。

老いたりといえども、まだ心も体もある程度正常な親に対して
子はなかなか強気に出ては行かれないものだ。
どんなに腹が立とうとも。

私が父に怒声を投げつけたのは、父が死ぬ10日ほど前ではなかっただろうか。
父はもうトイレでズボンを脱げないくらいに弱っていて
私が脱がそうとしたら恥ずかしいという。
大きな声で母を呼ぶのだが
母は日頃の父の世話のせいで腰を痛めて動けなくなっていた。

それでも母を呼びつける父に、私は切れて怒鳴った。
「パパが何でもかんでもママにやらせるから、ママはもう動けないんだよっ!」

父は怒鳴り返してきたが
かつて子どもたちを震え上がらせたその威力は、もう父には存在しなかった。
結局そのときは訪問看護婦さんに来てもらい始末をつけたわけだが
その翌日あたりに父は発作を起こして入院し、そのまま帰宅しなかった。

私は後悔しているか?
否である。
してもしょうがない後悔などしない。

入院中の父はこんなことを言った。
「ママに済まなかったと謝ってくれ、俺と一緒になったばかりに済まなかった」

最後まで見舞いに行かなかった母に伝えたが
父のおかげでうつ病になり、認知症も出始めていた母は
「へ~、そんなこと言ってたの」と一蹴した。
父の言葉が心底からの謝罪だったかどうかなど、もう母には関係無かった。

父はそれまで多くの過ちを犯し、母や家族を危機的状況に追い詰めてきたが
そのたびに父は深い反省の言葉を口にした。
母は許し続けたが、父は同じ過ちを繰り返してきたのだ。

その父の最後の詫びに、母は耳を貸さなかった。
もう面倒はかけないでほしい、私を自由にさせて欲しいと、母はただひたすらに父の死を願った。

そして父が死んだ。

姉も、母も、私も、泣かなかった。
葬式はしなかった。

母は父の骨が邪魔で、田舎の寺に送りつけてしまうか
ゴミに出してしまいたいとの意向だったが
認知症となった母にそこまでの行動力がなくなったのは幸いだった。

父の部屋のものを、私はすべて処分した。
父の蔵書はもちろん、カメラのコレクションもゴミに出した。
父のうそだらけの日記も、父の書いた記事の載った本も父のものは全部捨てた。

きれいに片づいて、何もなくなった部屋を見て
母が久しぶりに笑ったのを覚えている。

半年ほどして、姉が父の遺骨を都内の寺にお願いする手はずをつけてきた。
新聞によく広告の出ている共同の墓である。
田舎には父の家の墓があり、父は長男なのでそこは無縁墓になるだろう。

母は正常なころから父の家の墓にだけは入りたくないと言っていたが
そこは完全に安心していい。

正直に言う。
墓なんかどうだっていい。
墓を大切にする人たちを否定する気はないが
私には一族伝来の墓を守ろうとか言う気持ちはかけらもない。

母が死んだら父と同じ共同墓に入れるか
それとも私の通う教会の墓に入れてもらうかどちらかになるだろう。
もちろん母が私より長生きしたらわからないが。

親はたいがいの場合、子供より早く死ぬ。
親が死んだ時、泣けるなら多分、子供はその親を慕っていたのだろう。
生前どれほど憎いと感じていたとしても。

親のために涙するとき、子供の涙はきっとものすごく美しく尊い。

私にも父のために大泣きした記憶が一度だけあるが、
そのときの私の感情は、私に正常な記憶力がある限り忘れられはしないだろう。
またいつか書けるといいと思っている。




ポケットからこぼれ落ちた種

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11 /05 2011
6歳くらいの女の子と、その妹が商店街を手をつないで歩いていた。
時間は午後7時前。
妹と見える子の手にはミルキーの袋が握られていて
姉の方の手にはお豆腐が袋に入れられていた。

商店街の人混みのなか1匹の犬がふらふら向かってくるのが見えた。
野良犬か、どこかから逃げた犬か。
お使いに出されていた女の子たちは、ぎょっとした顔つきになったと思うと
姉の方が手を離して車道に飛び出した。
姉は上手く通りを渡り、反対側の歩道に走り抜けた。
そして妹に「早く早く」と向こうから呼んだ。

妹はミルキーの袋を握ったまま戸惑っていたが
近づいてくる犬を見てから、思い切って車道に飛び出した。

そうしてはねられた。

妹の意識はそこからしばらく消えている。
気が付いたら、救急車の中にいた。
救急車の中は、回るライトで真っ赤に見える。

妹は目を覚まし、うとうとし、また意識をなくし病院に着いたときに起こされて、
それからまた意識をなくした。


姉は目の前で妹が車にはねられるのを見た。

妹をはねた車からおじさんが慌てて降りてきて
妹を抱き上げてすぐそこにある出来たばかりの病院に駆け込んでいくとき
姉も必死になって付いて行った。

若い先生は妹の手がまだ握っているミルキーの袋を離し、
姉に手渡そうとしたが
姉の方は気が狂ったように叫び、暴れていた。
いま目の前で起きている現実をまだ6歳の姉は理解できずにいた。

母が来た。
父が来た。

父は最初にこう言った。
「なんだこれは!」
姉はそのとき初めて、妹のポケットからたくさんのヒマワリの種が
こぼれ落ちているのに気がついた。
妹はきっとヒマワリの種を昼に集めてポケットに詰め込んでいたのだ、と姉は思った。


ラインはっぱ


と、いう話をおとといの文化の日に私の姉が話してくれた。
私はそれは違うよと訂正しなかった。

あれは秋の終りの事故だった。
私はその日、トッポジージョの絵のプリントされたズボンをはいていた。
トッポジージョの絵のあるポケットに私が沢山詰めたのは
ヒマワリの種ではない。
だいいち5歳ではヒマワリの種まで背は届かない。
私が摘んでポケットに入れたのはコスモスの種だ。

姉は今もそのときのことをまざまざと思いだせるという。
ほとんどトラウマになっているそうだ。
トラウマになって、再三繰り返し思い出してしまっているうちに
私のポケットからたくさんこぼれ落ちたのが
絵にならないコスモスの種より、ヒマワリの種に代わってしまったようだ。

ヒマワリの種の取れる頃だったら、私は多分足の骨くらいはやられていただろう。
冬に近い頃だったから、私のトッポジージョのズボンは厚手だった。
だから私の足は折れなかった。

それにしても、ヒマワリの種をポケットからこぼれさせながら
小さな女の子がそのまま動かなくならなくてよかった。

娘にそれを話したら「ヒマワリの種がいつかどんぐりになったかもしれない」
と言った。
うん、どんぐりもなかなか絵になりそうである。


    


父のこと母のこと

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10 /25 2011
父と母の話をしよう。

父は親に愛されずに育った、という。
しかし捨てられたわけでもなく、学校にも行かせてもらい
食事も食べさせてもらい、幼いころから奉公に出されたわけでもない。
私が聞いた限りでは親に殴られ、愛犬を知らぬうちに軍に献上され
寮制の学校に入れられ迎えにも来てもらえなかったのだそうだ。
しかも親は父が入った学校が優秀だったために自慢して回ったらしい。

「親に愛されなかった」から、と母は父の理不尽を全てそのせいに帰した。

父が給料を家に入れないでよその女に入れ上げたのも
父が私と母を田舎の家に預けて1カ月も帰らせず女と我が家で暮らしていたのも
父が裏口入学をさせるという犯罪の片棒を担いで親族に迷惑をかけたのも
父が危ない金融機関から金を借りて借金取りが毎晩ドアを蹴りつづけたのも
父が団地の自治会の役員になってお金を使いこんだのも
父が私の高校の役員になってお金を使い込んだのも
割ったビール瓶を向けて殺してやると姉に迫ったのも
母の顔を変形するほど殴り蹴り家から出られなくさせたのも
嘘を平気でついたのも
誇大妄想狂だったのも

どれもが全部「親に愛されなかったから」だなんて私は断じて思わない。

だったら私とて、そんな親に育てられたから性格が歪んだのだと
いろいろ言うことができるはずだ。

父が老いて母にすがりつくようになると
父の毒気にあてられて、母が頭と心の調子をおかしくした。
父が倒れて病院に運ばれるときも
母はそれを断固拒絶して「このまま殺せ」と叫んだくらいである。
父が病院に運ばれて、すぐに死ぬかと思いきやまだまだ死なないと知ると
「なんで死なないんだ」
「殺してくれと病院に頼む」
「早く死んでしまえ」
「いい加減に行け」などと凄まじい罵詈雑言を吐きだすようになった。
私は母を病院に行かせなかったが、
そうなると母は電話を日に20回もかけてきては
「いつまで生きるつもりだ」「私が殺しに行く」「地獄に堕ちろ」と
えんえん繰り返し、ののしるのであった。

父が死ぬことを母があまりに強く願うし、
正直生きていられてもまた迷惑をかけられるだけだと思ったので
私も父が死ぬのを待っていたと言ってよい。
ようやく父が死んだが、葬式はしなかった。
親族にも伝えなかった。
父の骨は半年余り田舎の墓にも入らなかった。
母は父の骨をごみに捨てようとしたが、それをしたら捕まるぞと私が教えた。
母の父への憎悪は母を食いつくし、母を内側から完全に壊した。
母の口からはその後3年間ほど、父の悪口しか出なくなった。

そういう両親に私は育てられた。
若いころの父は怒鳴る人で殴る人で恫喝し、子供を震え上がらせては満足する人であった。
我が家にはいつも金がなく、私は習い事をしたこともないし
塾に行かせてもらったこともない。
高卒当時は家に金がないから姉妹ともに二部に行ったが、
私の入学金は親でなく姉が出してくれた。
だが姉のおかげで行けた大学の二部も病気で中退せねばならなくなった。
長期入院は18歳から25歳までの間に合計で数年間にわたった。
あの当時は私の病気に金がかからなかったので入院が出来たのだが
父は2度見舞いに来ただけであった。

その後私は自分の貯金を使いはたして大学に入り
特待生になって卒業した。
父にも母にも金は出してもらってはいない。

どうであろうと二人は私の父で私の母だ。
父の血が自分に流れているのを呪ったこともあったが
病気を負って生涯戦うことになったおかげで
自分の親や血の問題など、24時間抱える肉体の苦痛に比較すれば
頭から払いのけるのが簡単であるのを知った。

いま、私を産んで育てた両親に言えることがあるとすれば
「産んでくれてありがとう」と言うきれいな言葉ではなく
「殺さないでくれてありがとう」だろう。

おなかの中で芽生えた命をあっさり殺せる現在
私なんか簡単に殺すことができた。
しかし両親は私を世に産み、食べ物を与え、衣服を与え、住むところを与え
命を永らえさせ続けてくれた。

私が今ここにいるのは父と母が、私を殺さずにいてくれたおかげである。
そうして私はいま、笑ったり、しゃべったりしている。
光を浴びて、風の香りをかぎ、花や緑を見つめることができる。

世は汚れ、人も優しいだけではない。
けれども世界はまだ美しい。
私には神様がいる。