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kindleの電子書籍リーダー、初めて役に立った。
「ハウルの動く城」昨晩観ていてさ
ああ、原作読みたいな、読もうかな、と思ったわけよ。

そしたら700円もしないで買えるとわかってさ
すぐダウンロード購入したんだわ。

読み始めてまもなく、「わっ、これおもしろいわ!」となった。
元気のいいばあさんの話が、面白くないわけないんだよね、
ずうずうしくて、賢くて、皮肉屋で、いいよ~ばあさんのソフィ。
宮崎駿がばあさん好きなのちょっと理解できるかもね。

原作の邦題はね「ハウルの動く城 1 魔法使いハウルと火の悪魔」。
宮崎駿のハウルをかなり前にはじめて見たときにさ
若いソフィの声まで倍賞千恵子だから
どうも老けてる感じが強くてねぇ
「お兄ちゃん、お帰り」とか
柴又のだんご屋の奥から顔出してきそうに思えて仕方なかったんだけど

昨晩観て、あの声だから厚顔で少々図々しい元気なソフィばあさんも
大年寄りになった荒地の魔女の介護をする中年くらいのソフィも
しっくりと演じられたんだなぁってよく理解できたよ。
でもま、キムタクの声が若いから
恋に燃えるソフィになるとどうしても無理は感じられたんだけどね。

イギリスの児童文学というと、
この20年ほどではハリポタシリーズで、
私も一応全巻ハードブックで持っていて、売るに売れずに困っているんだけども
(そのうち孫が読んでくれるといいけどさ)
あれより、こっちのハウルのほうが私的には好みだな。

イギリスのものってときどき子供を子供として扱わずに
ものすごいいじめ方で追い込んだり戦わせたりするだけでなくさ
「ナニー文化」というか、
厳しくしつけてナンボという上流的価値感あるじゃない?
あれがね~、個人的に合わないみたいなんだ私。
ハリーポッターにもそれがあって、そこがちょっとね・・・・

なにしろメリーポピンズ初めて読んだときには
「メリーポピンズはニコリともしないでいつも命令口調でしゃべってて
冷静でつんとしてるのに、なんで子供たちはこんなに懐くんだ」
と疑問しか残らなかったよ。
あれがディズニーで映画化されるとさ、
なんなの、メリーポピンズとにかく綺麗で明るい優しいナニーになっててさ
ほぼ別人だよね~

あっ、これはちょっと書いておきたいんだけど
アマゾンのkindleで本をダウンロードするとね
これまでその本を読んだ人が引いた線(ハイライト)というか
「ここに注意!」みたいなラインが入っていたりするんだよ、
薄いグレーの線でさ「○人がハイライト」したとかってさ。

重要なところとか、後々の伏線だったりするところもあるので
歓迎する人もいるんだろうけど
私は新品買ったのに古本買わされたみたいな気分がした。
そんな不愉快な線は当然消すことが出来るんだけど
最初の設定はしっかり出るようになっているんだよ、
いったいどれほどの人がこんな線を欲しがっているのかねぇ、
絶対いらないけど。

ハウルの原作が気に入ったら
ちょっとこの作家続けて読んでみるかもしれない。
そんな気がする週末。
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ここに書きたくなる本を連続で読めたのって、
かなり幸せ、とってもうれしい。

「野良犬トビーの愛すべき転生」なんて
ヘンに凝った邦題名がつけられているけれど
原題はもちろん英語でただこれだけ
「A Dog's Purpose」
乱暴に訳せば、犬の目的、犬の決意、といったところ。

本書は2011年アメリカで発表されて、全米ベストセラーになったのだって。
そうでしょう、そうでしょうとも、
そりゃもう面白いですよ、面白いだけじゃなく
どきどきしたりはらはらしたり
思わず涙ながしそうになったり、
悲しくて先が読めなくなりそうになったりしながら
やっぱり読まずにはいられなくて読み終えてしまって
なんともいえないものが心を満たして満たして広がって
もう、どうしましょうって感じ。

とりあえず、犬を愛したことのある人は
読んで損はないと思うんだ。
注意すべきは、犬好きが電車の中で読む場合、
乗り越したりハンカチやティッシュが必要になる場合もあるからね。

この物語は犬の一人称で書かれているんだよ。
だから読みやすいのだと思う。
でもね動物の一人称でも、漱石の猫とは違って、
犬の感じ方ものの捉えかた等が
専門家の書物などによって非常によく調べられていて
その上で書かれているので、
実際に犬を飼っている(あるいは飼ったことのある)人間にとっては
「ああ、そうなのね」とか「やっぱりそう感じてたか」とか
思い当たることいっぱいでね。
読んでいる間ずっと、
自分の家の犬に「今こんな風に感じてるんじゃないかしら」なんて
考えちゃうと思うよ。

なにより感動的なのはね
主人公の犬が、ただひたすら人間のために生きているってことなんだ。
何度生まれ変わっても、人間を助けるため、支えるため、悦ばせるため
幸せにするために、存在しているの。
そのために自己を顧みずにがんばっちゃうの。
これほどまでに人間を慕う事実って
犬を飼ったことない人にはわからないだろうけど
本当なんだよ、信じられないよね。
しかも人のためにそれをすることが、犬の喜びでもあるの。
それが原題にびしっと結びついて、物語は幕を閉じるんだ。

この本捨てないし、ブックオフにも売らない。

今年のお正月は、家族そろって体調が良くなかった。
年末に娘が彼氏と強行軍のバス旅行でスキーに行き
胃腸系に響く風邪を土産に持って帰ってきたため、
それが夫と私にも感染したのだった。

そのような理由で、
せっかく用意した正月のおせちもご馳走もほとんど食べてもらえずに、
私は非常に残念無念で不快で腹立たしかったのであるが、
そんななかで、ひとつだけいいことがあった。

家族みんなが体調不良でひっそりしていた夜、
私と娘は一階のリビングでこたつに入って、
夫は二階でベッドに入って
テレビで「桜ほうさら」(原作 宮部みゆき)と言う時代劇を見たのであった。

年末年始のどんちゃん騒ぎ系の長時間番組ばかりが続いたあとで
いかにも年配者向きという丁寧な作りの時代劇は
90分弱と言うお手頃な長さもあって、見ていて大変心地が良かった。

風邪が耳にも来ていたのか、その頃わが一家は耳も遠くなっていて
私はそのとき初めて「文字放送」なるものも併用してみたのだが
そのおかげもあるのだろう、
時代劇に出てくる日本語のきちんとしていること、
美しい言い回し、熟語や漢語などを
目と耳の二つの感覚器で受け取ることが出来た。
丁寧な日本語が、非常に甘美で優れたものに感じられた。

きちんとした時代小説の原作をもとに作られた時代劇は
主人公や他の人物の心理や行動に筋が通っており、
見ている側の気持ちにすとんと無理なく添う。
脚本が原作の世界観を壊すまいと頑張ってくれた場合は
劇中でのセリフもまた、居ずまいの正しい美しい日本語となる。

そしていわゆる時代小説の最も大事な点はなにかというと、
それは多くの場合、そのテーマの正当性、明瞭さ、
「人が正しく生きようとする」苦しみや悩みであって、
世にひねた私などはそこに心打たれるわけである。
(ピカレスク系、エロ系、ライトノベル系の時代小説は別よ)

ああここ数年、ただでさえ少ない読書量に重ねて、
海外ミステリーやら読みやすいライトノベルばかり読んでいたことに
私はやっと気がついた。
そしてつくづくと思った。
「ああ、(良質な)時代小説を読もう!」

と、いうわけでそれ以降、良質な時代小説を読み続けている。
これがなんとも楽しくて、いい。
おかげさまで数年ぶりに読書の習慣がよみがえりつつある。

ところで時代小説は爺婆の読み物だと思っている人も多いだろう。
まぁ水戸黄門的な娯楽時代小説をイメージされるとそうなのかもしれないから
声高らかに異議を唱える気はない。
でも、時代小説だからと最初から本を手に取らない場合
(これが女子の読書好きに案外多いのだ)
これは非常な損だと言っておきたい。

最近読んで、とんでもなく感動した極めて良質な時代小説を上げておこう。
高田郁「銀二貫」。

これは山本一力の「あかね空」以来の驚きであった。
私は生まれて初めて、ラストで「うれし泣きの号泣」をした。
もう、おんおん声を上げて泣いた。
齢50を過ぎたからこその、
人生を重ねてきたからこその理解と感動だったのかもしれない。

ひとつよかったこと、「再び時代小説に出会ったこと」。
そして、そうだ。
50歳を過ぎてよかったと、これもまた思えた。





娘が小さいころ、ポケットモンスターがめっちゃくちゃに流行した。
ポケモンの映画の第一弾が「ミュウツーの逆襲」というやつで、
山場ではピカチュウがぽろぽろ泣くので、私も泣いた。

ミュウという幻のポケモンのコピー版として作られているらしいミュウツーが、
各ポケモンたちのコピーポケモンと一緒に
自分たちの存在意義を問い、人間への復讐を抱く話だった。
映画が公開されたのは1998年で、その前年にはクローン羊ドリーの存在が公表されていた。
映画はコピーという名称を使っていたけれど、もう少し後ならクローンポケモンと
名づけられていたかもしれない。

・・・・などと連想してしまったのは、2005年に出版された
カズオ・イシグロの最高傑作「わたしを離さないで」を、
いまさらやっとこさ読んだからである。

本書が世に出て読者に与えた衝撃は、相当なものだったであろうことは
今になっても想像に難くない。
なにしろ驚くべき題材である。

しかし作者はその題材自体に関してよりも、
そこから発生する様々な人間のこころと動きの方に主眼を置いているそうだ。
(だからといって、断じてネタバレしたくない)

舞台を語ればそれは、まるでSF小説そのものであり、
去年も数冊類似のSFを読んだけれども、本書における小説舞台設定の精緻精巧なことと言ったら、
これまで読んできたSF、ミステリーの世界観が甘く、適当と思えるほどであった。

本書を書くにあたって、作者カズオ・イシグロはこの世界を頭の中から生み出したに違いないが、
もしかするとパノラマ模型を作り、色を塗り、小物を作り配置し、
季節ごとに植物すらも替え、年月ごとに錆やペンキまで塗り替えたのではなかろうか
・・・・なんてことを、真面目に考えてしまった。
少なくとも書いているうちにペンが進んで世界が出来たというものではないと感じた。
考えて考えて完成されたそれを、ペンが写し取った具合、とでもいうのだろうか。

なにか書けたらよいのだが、なにひとつ書いても
これから本書を読む人の楽しみが削がれてしまいそうで
怖くて書けない。

これはSF小説ではないし、ミステリーでもない。
SF的な世界であり、ミステリーな謎も多いが、決してそういうものではない。
物語は丁寧に静かに淡々と語られ、ケレンやあざとさもどこにもない。
小説と文学の境目がなにか私は知らないが、
少なくとも本書はミステリー、SFといった小説群からぐんと抜きん出て
意図せず静かに高いところに位置している。

数年間、新しい出会いが見つけられなかった私の脳内の
ぐんと見上げる高い位置に、カズオ・イシグロという作家の場所が出来た。
鳥肌が立つような嬉しさを感じている。

本作品が映画化されたのがこれ、だそうだけど、まだ見ていない。
いずれ借りようっと。
映画より原作が先の方がいいそうだ。


ブログ村のお気に入り機能が、実はたいして役に立たないことがわかった。
村に入ってよかったなぁと思ったことが、このお気に入り機能だったので、
その役に立たなさを痛感して、もう抜けちゃおうかしらん、と思ったりした。

私がお気に入りに入れてある複数のブログのいくつかの更新が
全然通知されていない。
上位にあるブログの更新は必ず届くのだが、
あまりランキングに関心のない(?)方々のブログは
すでに3記事も更新されているのに一向に通知がないままである。

頼りになるブログ更新通知が欲しい、と思って探してみたら
「ひとくり」http://www.hitokuri.com/ というのがあったのでさっそく登録してみたぞ。
役に立つとよいのだけれど。

さて、先週「はてしない物語」を読んで、その哲学性に改めて感動し。
また性懲りもなくクソ長い考察、私見などを書こうと意気込んだのだが、
すでに死後百年を超え、発見文書も限られているホーソーンと異なり、
ミヒャエル・エンデの思考に関する文書や書籍を知るにつけ、
その姿が巨大過ぎて、私などには到底太刀打ちできないことがよくわかった。

ああ、能力がないのは悲しいことだ。
それでもちょっとは頑張ってみたのだ。
頑張ってみたから、駄目だということがはっきりしたのだ。
そしてやっぱり思った。
書くより読む方がずっと楽だ・・・・・
ちなみにお薦めのツイッターを見つけたので書いておこう。
https://twitter.com/Michael_Ende_jp


というわけで、今回はまったく異なった本を読んで気分転換と思っていたのだが。

「平気でうそをつく人たち」という本を読んだ。

まだ人気上昇中で、話題の書籍を(しかも良書を!)次々出版していた草思社が
評判の悪いB社の子会社になる前、つまり倒産する前に出した本だったと記憶している。

ゴシップ誌の見出しの様な題名なので、本書に偏見を抱いて購入しなかった人もいるだろうが、
これは真面目な心理学の本であった。
「PEOPLE OF THE LIE」というのが正しい題名である。すなわち「虚偽の人々」。

「嘘つきの権化」のような父親を持っていた身の上なので、
発売当時この題名には猛烈に惹きつけられた。
しかし悲しいかな、当時は父親が存命中だったために、購入する踏ん切りがつかなかった。

父親の誇大妄想虚言癖に家族中が引きずり回されていた記憶のまだ古くなかったあの頃に
本書を私が購入して読んでいたら、ずいぶん目から鱗が落ちたことだろう。

本書で扱われるのは、存在しているとしか言いようがないのに、
心理学精神医学では、はっきりと定義されていない概念「邪悪」。

この邪悪とはどんなものかといった内容が、実に恐ろしかった。
邪悪は単に犯罪者にあるというものではなく、
その辺にいる人々、つまり道行く普通のおばさん、電車の中のおじさん、人のいい若者、
頼れる先生たちの中にも平然と、かつ普遍的に存在するということを
実際の治療経験から解き明かしてあるのだが、もうここを読んだだけで、
思い当たること思い当たることが本当に山のように・・・・

私は自分の父が「大うそつき」であったことから、彼を到底善人だとは思えずに来たけれど、
本書の中に出てくるごく普通に存在して、決して邪悪には見えない(けれど邪悪な)人々と比較すると、
父はまだ「正直な悪人」だったのだと思えるようになった。

以降、本書から非常に印象に残った部分を雑に短くして記してみた。
(正確にお知りになりたい方は、本書の該当ページを確認されたし)

世の中には専門家の目から見ると明白に精神障害を抱えていて、絶対的に治療が必要だと言う人間が極めて多い、と作者は言う。
しかも当の本人も周囲も、治療の必要性を一切認めない。
どんなに親身な、どんなに手厚い治療条件が提供されても、それを決して受け入れない。
さらにいえば、そうまでしても頑固に精神科の診療に抵抗するこうした人たちの中には
徹底的に邪悪な人間がいる、というのである。(p86)

邪悪な人々の中心的欠陥は、罪悪それ自体でなく、
自分の罪悪を認めることを拒否することにある。(p94)

邪悪な人間の見せかけの態度に共通する最も多いものが、愛を装うことである。(p144)

邪悪な人たちの病的なナルシシズム〈自己愛)には共感の能力の全面的欠如、あるいは部分欠如がある(p190)

正直そのままそっくり書きたいくらいに、重要な言葉のオンパレードに思えた。
最後の章では、個人(主に夫婦、親子といった関係)から出発して
団体における邪悪の発露について述べられており、これもまた
興味深い。

本書は明言されている通り非常に「危険な本」であるが、
これを冷静に読み、自己のこととして理解でき、
これからの生き方にこの知識を生かせることが出来得るならば、
読むべき本であるように思えた。

本書の感想にまさに「精神医学の専門家もやっぱり偏見に満ちてるな」などと
まず思ってしまう場合は、(特に夫婦関係、親子関係の記事に関して)
少々その思考に、他者への共感性の欠如と、
他者による否定の絶対的拒絶という危険な兆候が、
己に存在するものと考えてもよいかもしれない。
怖い本である。

       「平気でうそをつく人たちー虚偽と邪悪の心理学」
         M・スコット・ペック 森英明 訳
          草思社 1996年2月10日 第6刷発行版
           現在は文庫化もされている
よろしく
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