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10 01
2018

昨日、台風がまだ関東に接近していない昼ごろ、
とうちゃんと私は認知症実母のいる施設に秋冬物の衣類を持っていった。
実母は今度の誕生日で90歳にもなる。
以前はひとりでマシンガンのようによくしゃべり
わけのわからない歌を歌い続ける明るい認知症症状を見せていたのだけれど
昨日の母はすっかり大人しくなって、出てくる声も小さかったし、
表情もほとんどなくなり、ただぽつんと座っているだけだった。

母には新しいパジャマとズボンも買って持っていった。
いつも複数枚のパジャマを持っていっているのに、介護の人たちはきっと忙しくて
手近なものばかり着せ続けてしまうのだろう、
去年の秋冬のパジャマが一枚、部分的にぼろきれになっていたからだ。
ズボンも一枚、ポケットから脇にかけて、ざっくり縫い目が割れていて
これもきっと去年はカタキに着させられたのだろう。
洗ってある清潔なものだとはいっても、毎回同じ格好をさせられているかもしれないのは
身内としては多少悲しい部分もある。
だが、これが預けるということだと、線引きをする。

ホールには誰も見ないテレビが台風情報を流しており、
母はただ無表情に椅子に座っていた。
母の隣に私はしゃがんだ。
母を苗字「●●さん」で呼ぶ。
母にはもう過去がないので、私という娘も存在していないから
介護の人みたいに苗字で呼ぶことにしている。
「●●さん、元気ですか、今日は雨ですよ、台風なんですよ」

母は私を見て、よくわからないことをつぶやき、
不思議な旋律に不思議な言葉を載せてひとりごちる。

「●●さん、ご飯食べましたか? おいしかったですか?
寒くないですか? 」
母からまともな答えなど最初から期待していない、
なんでもよい、ただ瞬間に気持ちを通わせるために
母の顔を見ながら思い切り微笑んで細い肩を抱きしめると
母はやっとこさ、にこにこーっと笑い、また不思議な言葉をしゃべる。

秋の終わりごろ、母にはひ孫が生まれるのだ。
母が私を懸命に支えてくれたように、私もいまできる限り
娘の力になろうとあれやこれやと努力協力しているが
それでも私の娘は健康体だし、近くに住んでいてくれるし、
車を運転して自らうちまで来てくれる。

私が母にかけた心配や苦労はこんな比ではない、
比べるのもおこがましい。
重い病気を抱えて子供を産んで育てるという私を
母は出来る限りのすべての労を惜しまず
あらん限りの心を注いで助け支えてくれたのだ。

母が必死に守ってくれた私、
私が通院するたび遠方から幼い娘をみにきてくれた母、
その幼かった娘が子供を産み、私はおばあちゃんになるのだ。
その私がこうして生きられたのは、この母の愛によるのだ。
こうしていくつも命が続いていくのは、
この母が持ちうる限りの愛を惜しまなかったからなのだ。

母の体を優しく抱きしめながら、お祈りをして、
ありがとう、といってみたら、もう涙がとめどなくでてきて
しょうがなかった。
母は相変わらず不思議な歌を小さな声で歌っていた。
もう日本語すらほとんどわからなくなっているのかもしれない。

ひとり小さな声で歌い続けている母を置いて
母の居室に入って衣類の整理をした。
オシッコの拭き残りがまだ床に少し残っていて
臭いが鼻をついた。
てきぱきと衣類を入れ替えるとまたホールにいる母のところに戻り
「●●さん、また来るね」と挨拶をした。
母は笑っているのかな、という曖昧な表情で、ちょっとだけ手を振ってくれた。
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今日からしばらくは秋らしい涼しい日が続くということで
大変うれしい。

だが、おとといの日曜日には、車外を示す温度計は34度まで上がって、
用事で出かけた私は、帰宅後以降
暑さにやられて体温が下がらず、軽い脱水症状を起こし、
その余韻が今日もまだ続いているので
涼しいからってそう快調とはいえない。

湿度が高いせいか体温がまだきちんと下がってくれないので
バリバリ動くことが難しい。
編み物もする気にならない。
仕方がないので洗濯とご飯つくりはやるが
出来ればゴロゴロしていたい感じだ。

今日はつめたい麦茶や緑茶ではなく
久しぶりに熱い渋茶などを淹れて飲んでいるのだが、
茶菓子も食事もなしにお茶だけなので胃が痛くなる予感がする。

今日は月に2回あるお習字の日であった。
お習字では私よりも10ほど年上のみなさんと
いろいろ楽しく会話をし、情報を仕入れたりでき、
たいそうまったりしていてらくちんなのだが
そんな会でも、私のような付き合いべたな者には
人間関係が時に難しいなと感じることがある。

私は人に家族の話をするのが得意ではない。
アホだとか失敗したとか言う話しならあっけらかんとできて
笑われることで落ち着く。
けれども、家族の長所やステイタスを語ると
軽妙さを一瞬にして失ったかのように
優越を示そうとしてしまう気配がある。

周囲のおばさまがたはさして気にしていないのかもしれないが
私自身が自己嫌悪に陥るのである、いまこの瞬間のように。

今日はひとりのおばさまが、私の娘の職業を「栄養士」とだと思って
「自分の親戚にも栄養士がいる」と、どんどん話を進めるので
栄養士ではなくて管理栄養士だと2度ほど口を挟んでしまい、
3度目には栄養士は県知事都知事の名による免許であり
管理栄養士は国家試験だと、説明してしまった。

笑って流せばそれでよかった程度のことだった。
しかし私の言い方はきっと嵩にかかったものになっていただろう。
のんびりと話す埼玉の人々は
東京下町で生まれ育った私の早口でまくし立てるような口調を
強くてけんか腰だと受け取ることも少なくない。

私が埼玉の人間だったら、
「たかがその程度のことでナニそんなに威張っているんだ」と
思ってしまうだろう、
今日まさにそう感じたおばさまもいたかもしれない。

私は大人になってから、特にクリスチャンとしてはさらに、
人に接する際の穏やかさというものに憧れを持っている。
穏やかで謙虚な、自分の意見をことさらに主張しない人間になりたいと
思っている。

(ブログではときに地が出てるので、それで一息ついているのかもしれない)

正しかろうが間違いだろうが、
流せることは流せるようになりたい。
見せ掛けだけでも、穏やかで謙虚な人間になりたい。


流れ込み押しつぶし、砕いていった土石流が
暑すぎる太陽に表面上の水気を奪われて砂のようになっている。
その一見砂に見える土の下に家々があり車がある。

天から降った水がこんなにも地面を侵して
人の住む街を破壊してゆくのか。
土石流のニュースや映像は、これまでも見た覚えがあるのだけれど
今回の大豪雨によって起きた光景は
まるで安倍公房の小説「砂の女」が棲みそうな街が
リアル世界にあらわれたかのようで
その映像が、怖くて凄まじくて冷や汗が出てきた。

自分がもしこの大豪雨の被災者だったら
果たして・・・と想像しようとしても、恐怖で出来ない。

泥にまみれた自分の家を、家具ひとつずつでも片付けている
あれらの人々の心は到底平常心ではないのだろうけれど
ああやって動き続ける人を
私は心底尊敬する。
すごいよ、あの人たちはすごい。

いったい何をどうやって書けばいいのか、
迷うばかりだ。
私は何も出来ない。
義捐金を送ることが、ただひとつできることなのか。
何かもっと、できることがあればいいのに。

神様あの人たちを勇気付けてください、
あの人たちの心と体をどうか守ってください。
あの人たちが決して絶望することのないよう
はっきりとした希望を、形にして与えてください。
たくさんのたくましい心と腕が、
あの人たちのために集まり、手伝い助けてくれますように。
あの人たちの再生のために
多くの優れた知恵が用いられますように。

あの人たちの尊い忍耐を褒めてください、神様。
あの人たちが心から安心できるそのときを
どうか速やかに与えてください。
あの人たちをどうかどうか守ってください
慰めてください、癒してください。

07 12
2018

このごろ「年をとる」とはどういうことなのかと、よく考える。

最近、人や物や、場所の名前が出てこない状況が増えすぎて
イライラしたりモヤモヤしたりする感情すら面倒になって
ええぃ、もういいや!
と放り投げるみたいに知らんぷりした。
こんなふうに物忘れをあきらめたのは初めてだった(と思いたい)。

人名や地名やかつて知っていたはずの知識などは
ネットや本などで調べ出し、
もう一度頭の中に入れる(つもりになる)ことが出来るが

必要なものを仕舞った場所が分からなくなると
必死に20分探しても見つからない場合には
もはやお手上げ状態だ。

自分の母親がアルツハイマーだから、私もそれになりかけなのかなぁ
などと気持ちがへこみだし、
それすら考えるのがおっくうになって
もうどうでもいいっ! とテレビの前に座りこむも
「なんで今日はこんなつまんない番組ばっかりなのよ!」
と悪態をつく。
なんかもうダメな感じだ、そういう日は。

この前、下駄箱の上、定位置においてある
犬用のおやつ、上等な国産牛たんジャーキーが
梅雨時ゆえか見事に白くカビていたのだが
とうちゃんはそれに気づかず
1本を、遊びに来ていたちび犬に与えてしまった。
ちび犬はその後2日間ほど
お腹を壊し、元気がなくなってしまった。

カビを発見したのは娘だった。
ジャーキーは毎日目につく場所に置かれていたのに
私たち夫婦はそのカビに少しも気がつかずにいた。
「ああ、この人たちもついに老人になったのかもしれない」と
娘は感じたのだろう、彼女は私たちを責めず
おだやかに「このジャーキーはもう駄目だねぇ」とだけ言った。

私は愕然としてしまった。
義母の洗い終えた食器に残った汚れを見つけた時に感じた
「ああ汚らしい、ああ嫌! 年寄りは鈍い!」
という針のような非難の感情が
自分自身に向けられるべきであるのを感じたからだ。
そういう時期が来たのだ、
私に、そしてとうちゃんにも。

あはは、と笑って済ませてもよいのだが出来ない。
嫌なのだ、絶対に忌避すべきカビに気がつかずに
見過ごしてしまった自分自身が
その注意力散漫に過ぎる日常の惰性が、
どうにもこうにも受け入れがたいほど嫌だと思ったのだ。

白髪も増えたし、髪も減った
しわも増えたし、首の周りにちりめん肌がでてきた。
表がババアになるのだから中身もババアになってゆく。
外見も中身も、小汚い、だらしのない、ババアにはなりたくない。

たとえば家の中を汚いままにして
「まぁいいか」とあきらめるようにはなりたくない。
平均的に清潔で整頓されていたい。
体も住まいも、頭の中も。

だから最近になって、香水や制汗剤を使うようになった。
毎日化粧をするようになった。
高いシャンプーや洗顔石鹸にも凝りだした。

こうやって、ブログに書くことだって大事だ。
夫婦でどこかに行って楽しむことも大事だ。
花を育てることも、
編み物をすることも、
料理をいろいろ作り続けることも、
習い事も、
みんな大事だ。
無為な老人にならないために
意識的に前向きで活発であることはとても大事だ。

書く習慣をなくすと、ほんと書かなくても平気になってしまうので
脳内はいよいよもってヤバい感じになりつつある。

実は書かなくっちゃなぁ~と思ったことがあったが
つい面倒で書かずにきた。
書かなくっちゃなぁ~の内容が、そこそこしち面倒くさいにもかかわらず
読み手によっては全然読まない方面のものになること請け合いだし、
そもそもしち面倒くさいことを、なぜに私ごときが書かなくっちゃと思うのかが
自分自身でもよくわからんのだった。

だが、面倒くささにかまけていたために
自身の脳内が加速度的に加重的に溶け始めてきたような心持なので
仕方がないので今日は書いてみることにした。
会社にはデスクがあってPCも打ちやすいしね。
(今日のノルマ仕事は済ませました、一応)

ええとね、お友達のウロさんが先日ブログに書いていたのよ。

「なんのため」

これを読んで、まず思い出した。

娘がボーイスカウトに入っていたころの話。
ボーイスカウトの制服を着て行動している時には周囲の目が
「あの子たちはいい子で礼儀正しくて、決して電車のなかで騒いだりしない」
と思い込んでいるので、引率の大人たちは非常に苦労するらしい。
だって制服の下は普通の子だから、周囲とそれほど差異はないにきまってる。
宗教ってこれとよく似た受け止め方をされがちなのよね。


私は多分、生まれた時の宗教は仏教だったのだと思うんだ、
家にはよくわからない仏壇もあったし
お坊さんのお経も何度か聞いたことあるから、きっとそうだろう。
日本にはその昔、宗門人別改帳っていうのがあって
私の父の先祖も母の先祖も、
たぶんなんとか宗のなんとか寺の檀家だったと記載されていたに違いないので
無宿人でもない限り日本人の大半は仏教徒だったのではなかろうか。

むかしむかしは、適当に近所のお寺に所属させられて、
どこかしらに所属してないと無宿人とか非人とかにされてしまったからさ
なんてったって仏教徒でないといけなかったけどもさ
それこそボーイスカウトの制服と同じでさ
宗門改め帳に名前があるからって、全員が真面目に信仰心をもつわけもないし。

なんでもテキトウ、その位が一番手頃だし、楽ちんだ。
成田山やら浅草寺やら清水寺やら法隆寺やら観光したり
観光すればきちんと手を合わせてお参りしてくるんだしね。

道祖神とかお地蔵さんとか、お稲荷さんとかそこらじゅうにあるし
正月は神社に初もうでに行くし、山に登ればそこにも神社があるし
お参りしてたらどこかしらで御利益あるんじゃないかとか思ったりね。

でもさでもさ、そんな感じに宗教が大好きなくせにさ
ひとつの宗教がっつりいってると、どことな~く奇異な目でみられたりするのが
日本なんだよね。

まぁわからなくもないです。
大昔にやってきた正統的な各仏教やイザナギイザナミをはじめとする神道以外の
なんだかよくわからない新仏教や謎神様や
神や仏を洋の東西を問わずにごちゃまぜにした宗教や
あげくの果てに誰それの生まれ変わりが云々とか
そんなのだーれだって奇異な目で見ますよ、はい。


幸運なことに私の周囲にはその手の新興宗教系の人がいないので
いろいろな人を比較することが出来ない。
というか、私はキリスト教ですっていうと
勧誘の方々速やかに去られますです、エホバさんさえも。


ええと~個人的には宗教を「御利益系」と「哲学系」に分けているんだ。
御利益系ってのは読んだ通りの意味でね
馬券が当たったり、家内安全商売繁盛夫婦円満だったりするやつね。
哲学系は、そうね、「禅宗」とかだとわかりやすいかな。
哲学系は世の中の悲劇や苦しみを「在るもの、決してなくならないもの」として生きるわけよ。
ハッピーを目指して信仰したりはしないんだわね、
知ってます? 誤解されてる場合が多いけどキリスト教はこっちです。

この苦しみにまみれた世界の中になにか一片の安らぎを、悟りを
得ようとする人々がいて、
あるいはどれほど汚れた世界の中にも、
花のように咲き出でる愛のあることを信じる人もいて、
それが宗教の存在意義なんだと私なんかは思うわけであります。

世界の貧困や戦争や飢えといった大きな問題にも
あるいは家庭内の不和や悲劇にも
立ち向かってゆかない信仰の姿勢に憤懣を覚える人もいるのはよく理解できるけれど

人が宗教に入ってゆくのは
圧倒的すぎて自分の力ではどうにもならないなにかに行く手をふさがれた時
というのが多いので、
つまり完全に自分の無力を理解したときなわけだから
もう一度立ち上がって戦えっていうのは、
けっこう難しい注文の場合もありますわなぁ。
ま、好戦的な人もおります。
ちなみに宗教とこれが絡むとかなり恐ろしい相手になりますぜ。
私は当然穏健好みです。

で現在、ある程度確信しているのは
武力であろうと言葉であろうと、
魂での勝利に勝るものはないのだろうということかな。
私自身にそれが出来るかどうかと言えば
絶対に「できません!」と答えるけれどね。

なんか話が広がってまとまらなかったなぁ。
やっぱり書きなれてない~

よろしく
ちやこ。 いまのところ50代。
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