真面目な話:信仰と宣教と勇気と祈り

神様
12 /17 2017
教会でちょっと衝撃的な実話を知ったのでここに書きたいのだけれど
名称を出すと、実際的な被害が起きかねない危うさがあるので
読む方が想像してくださったら幸いです。

この人たちはその地に聖書を送り届ける活動をしています。
その地は自由なところではなくて
宗教の自由は保障されていません。
それでもこの数十年、大きな革命の後は門が開かれ
その地の指導者によって
ある程度の宗教活動は大目に見てもらっていました。

世界中の宗教者たちは、信じるものに飢えた人々のもとに
手を差し伸べるために、伝道をはじめました。
キリスト教はもちろん、聖書にもあるイエスキリストによる「大宣教命令」に従うべく
その地にも多くの人材を投入し、精神的にも物理的にも貧しい人々を
助け続けてきました。
あれから数十年、キリスト教の超教派団体はその地に人材と聖書を送り続けています。

その地は今現在、表面上とても豊かになり
金持ちといわれる人々も多くなり、それらの人々が世界各国へ旅行に出て
その豊かさを印象付けているのですが
それらお金持ちの人々は人口の1割に満たず、大半の人々は貧しく、
豊かさとは無縁の暮らしを余儀なくされています。

たとえば働いて働いて、年をとって、体が壊れてもはや「無駄飯食い」となり、
誰にも愛され大事にされた記憶のないままに虚無と孤独を抱えて生きる人々は
「イエス様は自分の命を捨てるほど、あなたを愛している」という言葉に
己の存在の根底を揺るがされるほどに打たれるのだそうです。

それらの人々が、自分と同じような宿命を背負った隣人たちに
その話を広めていくうち、同じように魂を動かされた人々が
増えていくのだそうです。

それらの人々は飢え渇いていた心に水を得たように、
もっともっとと、神様を求めます。
だからどうぞ、神様の言葉を送ってください、と。

その地に聖書を送るために、日本の教会もずっと活動を続けてきました。
しかしこの地の指導者の考えが変わってきて
広がっていた門戸が再び狭くなってきました。
こうしてその地の人々の状況を国外で語るだけでも
スパイ行為とみなされ、逮捕されてしまうのです。

今年になって多くの宗教活動者が逮捕され帰国できずにいます。
それでも、聖書を送ろうとする超教派団体の活動は止まりはしません。

いったいどうやって数百冊の聖書を送るのか、
その方法はつまびらかにされてはいません。
ただまた近いうちに、ひとりの伝道者がその地に渡ることが決まっています。
どれだけ危険か、目に見えているのに、
もしかすると命さえ危ういかもしれないその伝道に
でてゆく日本人がいるのです。

受け取る側のかの地の人々はこう言ったそうです。
「門戸が広がるようにとか、
世の中が変わるようにとか
そんなことを祈ってほしいとは思いません。
神様は必要を満たしてくださるのですから。
ただ、私たちの信仰が弱まらないようにと祈ってください。
日本の人たちが私たちのために祈ってくれているという
それだけで、私たちは孤独ではないと思えるのです」

こういう話に、鼻白んでしまう人もいることは知っています。
けれども、いまこうして
私たちがぬくぬくと生ぬるい生活に浸っている間にも
神にすがり燃えるような思いでやっと生き続ける人たちもおり
そのために、己の命も家族も顧みずに旅立つ人もいるのだということを
知ってほしくて、これを書きました。

教会でこの話を聞いた人々は一様に
強い衝撃を受けていました。
こんなに強い信仰を、神を求める気持ちを
私たちは持ったことがあっただろうかと思いました。

命がけという言葉を人は簡単に使いますが
現実に命をかけても前に進もうとする人を知ると
私たちは驚きと感動に目を見張ります。

この地の人々のために、真剣に、強く祈ろうと思いました。
スポンサーサイト

前夜式

神様
11 /24 2017
教会のお葬式って行ったことある人、きっと少ないよね。
でもね、どこの教会でも年々葬式が増えているんだよ。
いや、別に教会の葬式が馬鹿みたいに安いからとか
(実際結婚式も葬式もケタが違うほど安いです。
有名な教会でも挙式は5ケタ。葬式も最低5ケタで大丈夫
ただし、葬式は教会員かその身内に限るところが多いみたいよ)
そういう理由じゃなくてね
いずこも同じく高齢化が進んでいるから葬式が多くなるって寸法でして。

カトリックは知らないけれど、プロテスタントの葬式では
いわゆるお通夜を前夜式というんだ。

昨日はその前夜式に行ってきたの。
故人Aさんは83歳のご婦人、クリスチャン生活を50年以上過ごした人。
御主人はお寺関係のお身内だったので
親族内ではただ一人のクリスチャンだったから
いろいろな意味で親族内では難しい立場だったと思うよ。

妻がクリスチャンで夫がそうではない場合、
妻は何十年かかろうとも、
夫が神様を知り、神様の愛に気づき、
神様を信じて洗礼を受けてくれるよう祈り続けているものなのだけど
Aさんもまた50年近く祈り続けて
その祈りが6年ほど前に神様に聞かれ
ご主人が洗礼を受けたんだよね。

Aさんの喜びは一体どれほどのものだっただろうね。
その後二人は礼拝に毎週来て
仲良く隣同士に並んでた。
その御主人が去年亡くなってね、
今回、後を追うようにAさんが逝きました。

私もね、とうちゃんがいつか私と同じく
神様を見上げて、神様を信じて、生きて行ってくれるのを望んでいるの。
どうしてか?
そうだねぇ、ほんとうに辛いこと、
人間の力では乗り越えられないほどの壁にぶち当たった時
神様がいて、私をその翼の陰に休ませてくれるから。
私はその翼の陰で泣いたり憤慨したり諦めたり、茫然としたりするけれど
私がわたしであることを決して失わないでいられる。
それは、神様がそのままの私を愛してくださっているからだよ。

あのさ、子供のころ、無条件に
愛情の雨を思う存分受けることが出来ずにいた子は
成長するにつれて、性質に様々な問題が出てくるっていうじゃない?
あれと同じでね、神様が無条件に愛して守ってくださることは
大人にも絶大な効果があるわけよ。
だからね、私はとうちゃんにも神様を知ってほしいの。
神様を知るとね、日々に分かってくるの。
この世界はいつも奇跡に満ちているんだってことが。
(歌の歌詞みたいだけど、けっこうマジよ)

おっと話がそれました。
Aさんもね、ご主人を大切に思うが故に神様に祈り続けてきたのでね
「死後に天国で会えるから」とかじゃないと思うのね。
でもさ、
「天国でまた会える」っていう約束はほんと、素敵。

これまで何人か教会の人たちを見送ってきたけど
いつかまたこの人たちに会えるんだって
そう思うと、すこし勇気づけられるんだ。

でもねぇ、昨日の前夜式はだめだった。
式の最後に献花があるんだけど
白いカーネーションを捧げて、目をつぶり祈ったら
もうアウトだったんだ。

それまで泣く気配も何もなかった自分の目から
ぶわっと涙がこみ上げて
顔が燃えるように熱くなって
御遺族への挨拶もしないであわてて式場の外に飛び出したら
あとはもうひぃひぃ泣き出してしまった。

しゃくりあげるっていうやつで、声も涙も止められなかった。
なんでこんなに泣くんだろうと自分でもわからないけど
どうにもこうにも泣いてしまった。

帰りの道すがらいろいろ考えたよ。
それで思い当たることがあった。
Aさんは、いつも穏やかな笑顔で話し掛けてくれて
私の体をものすごく案じてくれて
私のために祈ってくれて
私の笑顔が素敵だと言ってくれたんだ。

私が死んだら誰が泣いてくれるかなって想像したとき
最初に思い浮かんだのはいつも必ずAさんだったんだ。
若々しい人だったから83歳だったなんて知らなかったし、
いつのまにか、
私より生きてくれるんだって勝手に思い込んでたんだろう。

大丈夫、もうちょっと先だけどまた会えるんだからさ、
と、みんなが口々に言ってた。
そうね、会えるのね。
天国で会わなきゃならない人増えていくなぁ。
天国行ったら忙しそうだよ。

神社、寺、教会

神様
04 /02 2017
今年のイースターは4月16日。
ということで教会での賛美歌は今週来週と
十字架のイエスの痛ましい厳しい苦しい荘厳な歌が選ばれているはずだよ。
うちの教会ではイースターに関係なく常日頃から賛美されてる136番。
バッハがマタイ受難曲でも使ってるから、わりと有名。

「血潮したたる主の御頭(みかしら)
棘(とげ)に刺されし主の御頭
悩みと恥にやつれし主を
我はかしこみ君と仰ぐ」

ううううう、痛い、怖い、ホラーかもしれない(´;ω;`)

この歌の場面を想像すると、かなり強烈だと思うんだよ。
磔(はりつけ)となったキリストの頭には有名なイバラの冠が被されているのだけど
イバラって実際見たことあります?
なんでも薔薇など棘ある低木の総称らしいのだけれど
薔薇なんてかわいいもので、柚子やカラタチになると
5センチ近い鋭い棘がざくざくのびてるからね、
頭にかぶせる以前に、冠の形にすることさえ難易度高いと思う。

そういえば善光寺さんの本道脇にはカラタチの生垣があってね
葉っぱが全部落ちてる有刺鉄線状態だったんだけど
長い棘が絡み合う凄まじい姿を見たらもう
私の頭の中はイエス様一色になっちゃったっけなぁ。

とにかく頭に棘が刺さりまくって顔血だらけのイエス・キリストが
磔刑になっているわけなのだけれども、
この賛美歌の2番がまた非常にインパクトがあるの。
だってこの痛ましい姿は私のせいだって歌うんだもの。

真面目なクリスチャンはズキュンズキュンくるね、こなきゃダメだね。
私の身代わりにこんなに凄まじい苦しみを受けた神様に
わたしゃどう応えたらいんでしょう! ってなもんですよ。

あ、善光寺さんのほかにさ、この前の旅行、仁科神明宮ってとこにも行ったんだよ。
なんか神明造の国宝だってんでさ。
で、神社つながりで添乗員さんの言うことにゃ
「伊勢神宮は私たちがいろいろお願いしちゃいけないところなんですよ」
「あそこに願いをかけられるのは日本でただ1人だけなんです」
で、そのただ1人の人は毎日
「どこにいようと、伊勢の神宮さんの方向に必ず祈るんだそうです」
「日本国民のことを祈っているんですよ」
「だからみなさん伊勢の神宮にはありがとうございますって感謝に行くものなんです」
だってさ~、
私は心でへぇへぇへぇとボタンをいくつもたたいたぞ。
にしても、だ。
それらを知らないでみなさんほんとよくお伊勢さんに行くんだね~
もっとも、そんなの建前で、今は普通に祈祷受付してるそうだからね、
日本人の宗教観って、ほんとほんわかしてるからさ(´∀`*)

日本人くらいだと思うよ、
「祈ってます」って普通に言うけど
どこの神様に祈ってるのかはっきりさせてない人が大半なのって。
ちなみに言っておくと、キリスト教の神様は
ほかの神様やスピリチュアルとごちゃ混ぜにされるのとにかく嫌い。
ご自分でご自身を「ねたむ神」って言っておられます。

イエス様が十字架に掛かってくれたから私ら ((((;゚Д゚)))))))されずに済んでるけど
それがなかったらいまの日本人の多くは・・・・・ぅ(@゚Д゚)@。Д。)わぁぁぁ~~~~ッ!!!!!!

私はそれを知っているので、(仕方がなしに)神社行っても寺に行っても
ご本尊やご神体ではなく、
心のなかのイエス様に一生懸命手を合わせているのでありました。
むふふ
でも善光寺のおやきは食べたい。(#^.^#)

もっとも尊いことのひとつ

神様
03 /05 2017
先日たまたま観たテレビで
「森のイスキア」の主催者だった佐藤初女(さとうはつめ)さんを知った。
丁寧に、一切の手抜きなしで、心をこめて作った食事が
悩みや苦しみを抱えて訪れる人々の心を癒し、
人生の受け止め方を変えていくという内容だった。

当時87歳だった佐藤初女さんが
台所の椅子に腰掛けて、モロッコインゲンを器用にナイフで斜め切りにしていく様子を
音もなくただ映している姿には
老女独特の慈しみと静かなやさしさがにじみ出て見えた。

訪れた悩める人々は、苦しみや悩みを、背中が丸くなった初女さんにただただ聞いてもらう。
初女さんはただただ耳を傾ける。
彼女によると
「多くの人はすでに自分で答えを持っているから、
私はちょこっと背中を押すだけでいい」のだそうだ。

悩む人の背中をわずかに押して、
そのあとおいしいお食事をみんなでいただく。
ただそれだけで、人は見違えるように笑顔を取り戻していく。

ああ、すごいなぁ、と思った。
心のこもった食事はもちろんすごい力を秘めているのだろうけれど
そこにいるのが初女さんだからこそ
悩める人たちが道を見出すことが出来るのだろう。
画面で見ている限り、初女さんは本当に何も言わない。
悩みを語る人々を非難も批判もせず
ただただ受け入れ、大変だったね、辛かったね、といい
これからはきっと違う生き方が出来るね、というだけ。

初女さんは正真正銘の立派なカトリックだけれど
神様云々、聖書云々、の話などはほとんど口に上らせないようだ。

私は最近ようやく気がついた。
神様からの特別な賜物を授かった女性たちの多くは
言葉ではなく、彼女らの優しさやひたむきさで、
いつのまにか自然に多くの人々を導く。
人々はそのまま「彼女の信じる神様」を認め、受け入れるからだ。

「神が」「神が」と言葉にするのは知識さえあれば誰でも出来る。
聖書からみことばを書き出して、
これみよがしに語って見せるなども簡単なことだ。

私は最近、自分の過去のブログ記事をいくつか削除した。
それはすべて「神様」に関する記事だった。
自分自身の書いた記事が、鼻持ちならなかったのだ。

聖書の言葉を少々書いた程度で、なにか「やった」ような気になっている
己の傲慢と浅薄さにムカムカしたのだ。
最初に書いた佐藤初女さんが人生をかけてしてきたことこそ
最も尊いことのひとつ。
人をいとおしみ、いたわること。温かな食事を用意すること。

初女さんは2年前にお亡くなりになった。
森のイスキアが今も活動を行っているのかどうかは知らない。
初音さんがイスキアから帰っていく人々に持たせたという
優しい手作りのおむすびに使われていた梅干が
いまもまだ大事に保存され、使われているという。

「沈黙」とオッカムのかみそり

神様
01 /20 2017
マーティン・スコセッシ監督が30年も構想をしていたという映画「沈黙」が
まもなく公開されるとか。

私は観に行かない。
興味はあるよ、もちろん。

ちなみに映画好きなうちの教会の牧師が観に行くだろうから
そのうちどうだったか聞いてみようと思う。
でも牧師が感動したって言うのはたいてい
キリスト教以外のテーマを描いた映画だったりするよ。
私には難解で頭がしっちゃかめっちゃかになった「インターステラー」とかに
「いやぁ、あれは非常にキリスト教的映画でした」
って、まさかの近未来SF映画にキリスト教を見出すんだよ~
牧師の場合ありとあらゆる生活の場面すべてが神様に直結してないとだめだから
その見方もありなんだろうけどね。

私はというと
遠藤周作は狐狸庵としてのエッセイは面白楽しく読んだけど
文学に分けられる「沈黙」も「深い河」も
いわゆる普通の小説である「わたしが・棄てた・女」にしても
キリスト教を描いたものはどうも苦手です、はい。

ドストエフスキーやトルストイやビクトル・ユゴーが
キリスト教を根底にして書いたものなんかには
涙なくして読めないんだけどねぇ、
なんで遠藤周作は苦手なのかな・・・・

遠藤周作はいわゆる日本における「そこらじゅうに神様=汎神論」と
「キリスト教の唯一神」との間に立って
自分の位置に苦しみ続けてきたらしいね。
それ、わからなくもないんだよね、私も同じ立場にあるわけだし。
でも氏の真剣な苦悩に敢えて近づこうとしてないの、
むしろ避けてるのね、悩みだすと大変そうじゃない?

自分で出せない答えは神様に丸投げする、
それが私のやり方だから、その手のことは悩まないの。
アダムとイブ以前に恐竜がいたり、お猿さんがいた進化論とかにも
ふ~ん、ってやり過ごす。
人間としては「いい加減」ともいうけど、まぁそれでいいのさぁ・・・(´∀`*;)ゞ
思い煩うことなかれ、だわよ。

とはいえ、私だってときどき神様が理解できなくて
苦しい思いもすることがあるよ。
特に虐待される子供については、その思いが強い。
神様は愛してくださるために子供に命をおあたえになるのにね、
なんでなのかなぁ。
昔、80代にもなる牧師さんに質問したことがあるの。
飢えや戦争や、虐待で殺される子供がいるのはなぜか?
神様は助けないの?って。

老練な牧師は悲しそうに答えたね。
「神の深遠なご計画を人間は知ることが出来ません」



愛されるために生まれた子供らに
         降り注がれる神の沈黙  
                   ちやこ