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10 11
2018

あのさ、病気になる人は少なくないし、
その病気が治らないものだったりする場合だって
ものすごく珍しいわけでもないし、
元気だった人が高齢になって重い病気になって亡くなることも
珍しいことなんかじゃないよね。

でもさぁ、20代、30代、40代くらいで
すこーんと命を落としてしまうとか
病名が分かるまでに月日がかかるような複雑な病気になるとか
あるいは病名がわかったところで治療法がないとか
そういうことってさ

普通一般世間に暮らしているとさ
それほど頻繁に見聞きすることじゃあないと思うんだよ、
自分の身近なところにはね。

でもさぁ、どこもそうだと思うんだけど
教会って、どうしてそういう人多いのかなぁ。
本当に多いの。
病気だけじゃなくってね、たくさんの災難が
いろんな形できているのを
いやというくらい見聞きする。

むかし、カトリックの曽野綾子がさ
(いまはヘンテコリンな説をがんがん書くばあさんになったけど)
重たい眼の病にかかってさ
失明するかもしれないってときにさ
こう考えてたっけ。
キリストはすべての人間の罪を背負って十字架にかかったが
あれから2000年も過ぎて人間の罪はますます増えて
イエスの十字架で背負いきれない罪を購うために
私はこの眼の病を与えられたのだって。

まぁ勝手に思って下さいって感じだけれどもね、
曽野綾子みたいに考えたら
与えられた災禍や病苦に対する姿勢が
少し違うのかもしれないなって思う。

理由もなく苦しみに遭わされるのって
人間なかなか納得できるものじゃないからさ、
その理由を与えられれば、違うよきっと。

その苦しみは試練という名前でね、
試練は人間を磨くのだって。
磨くために、神様は人間を試練に合わせるのだって。

人間は神様からの試練に歯を食いしばって耐えると思う?
神様はそこまで望んでないんだよ。
助けてください、この試練を取り除いてくださいって
泣き叫んでかまわないんだって。
恥も外聞もなく、小さい子が母親にすがりつくように
わんわん泣いて助けて助けてって
すがりついてかまわないんだって。

だって子供が母親にすがりつくのは
母親をとにかく無条件に信じているからでしょ、
神様は人間が「パパー」とすがりつくのを
待っているのだって。

そんなふうに教えられていてもさ
やっぱり現実の苦しみは出来れば与えられたくはないよね。
願わくば苦しみの味を忘れていられる生活がしたい。
子供のように神様にすがりついても
「おいで」とそのまま命を取り上げられることもあるし
「もっと磨こう」って試練を強められたり長くされたりすることもある。

理不尽だなぁって思うよ、苦しい時は特にね。
確か「大草原の小さな家」にこんなセリフがあったっけ。

「楽しいことは喜んで受けるくせに
苦しみや悲しみは受けないつもりなの?
同じ神様からなのよ」

そうね、とにかくどんな試練にも
全幅の信頼を損なうことなく
天を見上げて神に祈ることをしなければいけないわけで、
ちょっとでも揺らぐと
そこからめざとい悪魔がつけいってくるわけでさ。

それでもさ、教会の人たちに
よくもまぁ次々と
いろいろな試練をお与えになりますものよ、神様は。
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今朝のお台所の気温
7221.png

今現在のうちの縁側(日陰)の気温
(3分ほど置いて測ったところ)
7222.png

と、言うわけで埼玉は今日も暑い。

でも今日はその話じゃなくて(だってずっとその話になりそうだから)
自分の弱みについて。

ちょっと仕事関係のことで、面倒な事柄を抱えてる。
お金関係の話で。
その話が降ってわいたのは金曜日の夕方ごろだった。

その話がどう転がるかはわからないのだけれど
担当はただただ私ということになっていて
そのことを考えると、なんか鬱屈たる気分になってしまってね、

「認知症の母を私が見なきゃならないの?
私のほうが重病なのに? ああこの先どうしたらよいのかしら」とか
「ものすごくお腹が痛くてぱんぱんに腫れていて、熱もあるのに
夏に仕事関連で電車でいろいろな役場に行かなきゃならない」とか
そんな過去の重たくて重たくてどうにかなりそうだった事柄と
少し似ている様な心持。

私が苦手で、逃げ出したい気持ちになるのは
体調が悪化しているときに活発に行動、判断、決断せねばならない事例。
そして今回のようにお金がらみの問題。

いろいろな人のブログを見ると、
家族の借金を背負わされている人や
すでに破産してしまった人、
商売のために仕事掛け持ちで必死にお金を都合している人など
たくさんいるのだけれど
みんなどうしてそんなに頑張れるのかしら、
どうしてそんなに腹を据えて生活が出来るのかしらと思ってしまう。

私のお金に対する弱さは、実父の借金のせいで
暴力団が家に何度もやってきたことに由来するんだろうな。
(しかも小さな私が1人で留守番しているときに何度も来たんだもの。
鍵っ子だったし、父は逃げて帰らないし、
母は勤めていたし、姉は家に滅多にいない外遊び派だったしね)

でもね、クリスチャンになってからは
出来る限りお金の問題によって自分の心を縛り付けないようにと
考えているんだよ。
富と神の両方には仕えられないって聖書にもある。
お金のこと「この世の神」って言い方もしているくらい、
神を信じる人たちの間でもお金の力ってとても強力なんだ。
でもお金と神様だと、当然神様の力を信じるべきなんだよ。
強いのは神様、お金じゃない。

必要なものは神が与えてくださるのだって
ただひたすらにそれだけ信じていなくっちゃと自分で自分を勇気付けてる。
起こるべきことは起こるかもしれない
最悪に見えることでも、それを最善に変えてくださるのが神様だと
いっしょうけんめい自分に言い聞かせてる。

義父や義母はね、悩み事があるとふたりとも
すぐに眠れなくなってしまうのだって。
私はね、イエス様を信じてから、それ、無いの。
悩んでも困っても必ず最善となるってきちんと心に刻み込まれているのかな
昨日も、問題が起きた日の夜も、ちゃんと眠れたよ。
ちょっと胃が痛くなりかけるくらいには、悩んだんだけどね。

ねぇ、いまエアコンのついている気持ちの良い部屋の中で
こうしてブログなんぞ書いているこの恵まれた時間を過ごしていてさ
考えてもしょうがないことなんかで、
気鬱になるのはバカみたいじゃないかな。


神これを読みて苦笑せられん
今しも神は我とともにあり

教会でちょっと衝撃的な実話を知ったのでここに書きたいのだけれど
名称を出すと、実際的な被害が起きかねない危うさがあるので
読む方が想像してくださったら幸いです。

この人たちはその地に聖書を送り届ける活動をしています。
その地は自由なところではなくて
宗教の自由は保障されていません。
それでもこの数十年、大きな革命の後は門が開かれ
その地の指導者によって
ある程度の宗教活動は大目に見てもらっていました。

世界中の宗教者たちは、信じるものに飢えた人々のもとに
手を差し伸べるために、伝道をはじめました。
キリスト教はもちろん、聖書にもあるイエスキリストによる「大宣教命令」に従うべく
その地にも多くの人材を投入し、精神的にも物理的にも貧しい人々を
助け続けてきました。
あれから数十年、キリスト教の超教派団体はその地に人材と聖書を送り続けています。

その地は今現在、表面上とても豊かになり
金持ちといわれる人々も多くなり、それらの人々が世界各国へ旅行に出て
その豊かさを印象付けているのですが
それらお金持ちの人々は人口の1割に満たず、大半の人々は貧しく、
豊かさとは無縁の暮らしを余儀なくされています。

たとえば働いて働いて、年をとって、体が壊れてもはや「無駄飯食い」となり、
誰にも愛され大事にされた記憶のないままに虚無と孤独を抱えて生きる人々は
「イエス様は自分の命を捨てるほど、あなたを愛している」という言葉に
己の存在の根底を揺るがされるほどに打たれるのだそうです。

それらの人々が、自分と同じような宿命を背負った隣人たちに
その話を広めていくうち、同じように魂を動かされた人々が
増えていくのだそうです。

それらの人々は飢え渇いていた心に水を得たように、
もっともっとと、神様を求めます。
だからどうぞ、神様の言葉を送ってください、と。

その地に聖書を送るために、日本の教会もずっと活動を続けてきました。
しかしこの地の指導者の考えが変わってきて
広がっていた門戸が再び狭くなってきました。
こうしてその地の人々の状況を国外で語るだけでも
スパイ行為とみなされ、逮捕されてしまうのです。

今年になって多くの宗教活動者が逮捕され帰国できずにいます。
それでも、聖書を送ろうとする超教派団体の活動は止まりはしません。

いったいどうやって数百冊の聖書を送るのか、
その方法はつまびらかにされてはいません。
ただまた近いうちに、ひとりの伝道者がその地に渡ることが決まっています。
どれだけ危険か、目に見えているのに、
もしかすると命さえ危ういかもしれないその伝道に
でてゆく日本人がいるのです。

受け取る側のかの地の人々はこう言ったそうです。
「門戸が広がるようにとか、
世の中が変わるようにとか
そんなことを祈ってほしいとは思いません。
神様は必要を満たしてくださるのですから。
ただ、私たちの信仰が弱まらないようにと祈ってください。
日本の人たちが私たちのために祈ってくれているという
それだけで、私たちは孤独ではないと思えるのです」

こういう話に、鼻白んでしまう人もいることは知っています。
けれども、いまこうして
私たちがぬくぬくと生ぬるい生活に浸っている間にも
神にすがり燃えるような思いでやっと生き続ける人たちもおり
そのために、己の命も家族も顧みずに旅立つ人もいるのだということを
知ってほしくて、これを書きました。

教会でこの話を聞いた人々は一様に
強い衝撃を受けていました。
こんなに強い信仰を、神を求める気持ちを
私たちは持ったことがあっただろうかと思いました。

命がけという言葉を人は簡単に使いますが
現実に命をかけても前に進もうとする人を知ると
私たちは驚きと感動に目を見張ります。

この地の人々のために、真剣に、強く祈ろうと思いました。
11 24
2017

教会のお葬式って行ったことある人、きっと少ないよね。
でもね、どこの教会でも年々葬式が増えているんだよ。
いや、別に教会の葬式が馬鹿みたいに安いからとか
(実際結婚式も葬式もケタが違うほど安いです。
有名な教会でも挙式は5ケタ。葬式も最低5ケタで大丈夫
ただし、葬式は教会員かその身内に限るところが多いみたいよ)
そういう理由じゃなくてね
いずこも同じく高齢化が進んでいるから葬式が多くなるって寸法でして。

カトリックは知らないけれど、プロテスタントの葬式では
いわゆるお通夜を前夜式というんだ。

昨日はその前夜式に行ってきたの。
故人Aさんは83歳のご婦人、クリスチャン生活を50年以上過ごした人。
御主人はお寺関係のお身内だったので
親族内ではただ一人のクリスチャンだったから
いろいろな意味で親族内では難しい立場だったと思うよ。

妻がクリスチャンで夫がそうではない場合、
妻は何十年かかろうとも、
夫が神様を知り、神様の愛に気づき、
神様を信じて洗礼を受けてくれるよう祈り続けているものなのだけど
Aさんもまた50年近く祈り続けて
その祈りが6年ほど前に神様に聞かれ
ご主人が洗礼を受けたんだよね。

Aさんの喜びは一体どれほどのものだっただろうね。
その後二人は礼拝に毎週来て
仲良く隣同士に並んでた。
その御主人が去年亡くなってね、
今回、後を追うようにAさんが逝きました。

私もね、とうちゃんがいつか私と同じく
神様を見上げて、神様を信じて、生きて行ってくれるのを望んでいるの。
どうしてか?
そうだねぇ、ほんとうに辛いこと、
人間の力では乗り越えられないほどの壁にぶち当たった時
神様がいて、私をその翼の陰に休ませてくれるから。
私はその翼の陰で泣いたり憤慨したり諦めたり、茫然としたりするけれど
私がわたしであることを決して失わないでいられる。
それは、神様がそのままの私を愛してくださっているからだよ。

あのさ、子供のころ、無条件に
愛情の雨を思う存分受けることが出来ずにいた子は
成長するにつれて、性質に様々な問題が出てくるっていうじゃない?
あれと同じでね、神様が無条件に愛して守ってくださることは
大人にも絶大な効果があるわけよ。
だからね、私はとうちゃんにも神様を知ってほしいの。
神様を知るとね、日々に分かってくるの。
この世界はいつも奇跡に満ちているんだってことが。
(歌の歌詞みたいだけど、けっこうマジよ)

おっと話がそれました。
Aさんもね、ご主人を大切に思うが故に神様に祈り続けてきたのでね
「死後に天国で会えるから」とかじゃないと思うのね。
でもさ、
「天国でまた会える」っていう約束はほんと、素敵。

これまで何人か教会の人たちを見送ってきたけど
いつかまたこの人たちに会えるんだって
そう思うと、すこし勇気づけられるんだ。

でもねぇ、昨日の前夜式はだめだった。
式の最後に献花があるんだけど
白いカーネーションを捧げて、目をつぶり祈ったら
もうアウトだったんだ。

それまで泣く気配も何もなかった自分の目から
ぶわっと涙がこみ上げて
顔が燃えるように熱くなって
御遺族への挨拶もしないであわてて式場の外に飛び出したら
あとはもうひぃひぃ泣き出してしまった。

しゃくりあげるっていうやつで、声も涙も止められなかった。
なんでこんなに泣くんだろうと自分でもわからないけど
どうにもこうにも泣いてしまった。

帰りの道すがらいろいろ考えたよ。
それで思い当たることがあった。
Aさんは、いつも穏やかな笑顔で話し掛けてくれて
私の体をものすごく案じてくれて
私のために祈ってくれて
私の笑顔が素敵だと言ってくれたんだ。

私が死んだら誰が泣いてくれるかなって想像したとき
最初に思い浮かんだのはいつも必ずAさんだったんだ。
若々しい人だったから83歳だったなんて知らなかったし、
いつのまにか、
私より生きてくれるんだって勝手に思い込んでたんだろう。

大丈夫、もうちょっと先だけどまた会えるんだからさ、
と、みんなが口々に言ってた。
そうね、会えるのね。
天国で会わなきゃならない人増えていくなぁ。
天国行ったら忙しそうだよ。

今年のイースターは4月16日。
ということで教会での賛美歌は今週来週と
十字架のイエスの痛ましい厳しい苦しい荘厳な歌が選ばれているはずだよ。
うちの教会ではイースターに関係なく常日頃から賛美されてる136番。
バッハがマタイ受難曲でも使ってるから、わりと有名。

「血潮したたる主の御頭(みかしら)
棘(とげ)に刺されし主の御頭
悩みと恥にやつれし主を
我はかしこみ君と仰ぐ」

ううううう、痛い、怖い、ホラーかもしれない(´;ω;`)

この歌の場面を想像すると、かなり強烈だと思うんだよ。
磔(はりつけ)となったキリストの頭には有名なイバラの冠が被されているのだけど
イバラって実際見たことあります?
なんでも薔薇など棘ある低木の総称らしいのだけれど
薔薇なんてかわいいもので、柚子やカラタチになると
5センチ近い鋭い棘がざくざくのびてるからね、
頭にかぶせる以前に、冠の形にすることさえ難易度高いと思う。

そういえば善光寺さんの本道脇にはカラタチの生垣があってね
葉っぱが全部落ちてる有刺鉄線状態だったんだけど
長い棘が絡み合う凄まじい姿を見たらもう
私の頭の中はイエス様一色になっちゃったっけなぁ。

とにかく頭に棘が刺さりまくって顔血だらけのイエス・キリストが
磔刑になっているわけなのだけれども、
この賛美歌の2番がまた非常にインパクトがあるの。
だってこの痛ましい姿は私のせいだって歌うんだもの。

真面目なクリスチャンはズキュンズキュンくるね、こなきゃダメだね。
私の身代わりにこんなに凄まじい苦しみを受けた神様に
わたしゃどう応えたらいんでしょう! ってなもんですよ。

あ、善光寺さんのほかにさ、この前の旅行、仁科神明宮ってとこにも行ったんだよ。
なんか神明造の国宝だってんでさ。
で、神社つながりで添乗員さんの言うことにゃ
「伊勢神宮は私たちがいろいろお願いしちゃいけないところなんですよ」
「あそこに願いをかけられるのは日本でただ1人だけなんです」
で、そのただ1人の人は毎日
「どこにいようと、伊勢の神宮さんの方向に必ず祈るんだそうです」
「日本国民のことを祈っているんですよ」
「だからみなさん伊勢の神宮にはありがとうございますって感謝に行くものなんです」
だってさ~、
私は心でへぇへぇへぇとボタンをいくつもたたいたぞ。
にしても、だ。
それらを知らないでみなさんほんとよくお伊勢さんに行くんだね~
もっとも、そんなの建前で、今は普通に祈祷受付してるそうだからね、
日本人の宗教観って、ほんとほんわかしてるからさ(´∀`*)

日本人くらいだと思うよ、
「祈ってます」って普通に言うけど
どこの神様に祈ってるのかはっきりさせてない人が大半なのって。
ちなみに言っておくと、キリスト教の神様は
ほかの神様やスピリチュアルとごちゃ混ぜにされるのとにかく嫌い。
ご自分でご自身を「ねたむ神」って言っておられます。

イエス様が十字架に掛かってくれたから私ら ((((;゚Д゚)))))))されずに済んでるけど
それがなかったらいまの日本人の多くは・・・・・ぅ(@゚Д゚)@。Д。)わぁぁぁ~~~~ッ!!!!!!

私はそれを知っているので、(仕方がなしに)神社行っても寺に行っても
ご本尊やご神体ではなく、
心のなかのイエス様に一生懸命手を合わせているのでありました。
むふふ
でも善光寺のおやきは食べたい。(#^.^#)

よろしく
ちやこ。 いまのところ50代。
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