神社、寺、教会

神様
04 /02 2017
今年のイースターは4月16日。
ということで教会での賛美歌は今週来週と
十字架のイエスの痛ましい厳しい苦しい荘厳な歌が選ばれているはずだよ。
うちの教会ではイースターに関係なく常日頃から賛美されてる136番。
バッハがマタイ受難曲でも使ってるから、わりと有名。

「血潮したたる主の御頭(みかしら)
棘(とげ)に刺されし主の御頭
悩みと恥にやつれし主を
我はかしこみ君と仰ぐ」

ううううう、痛い、怖い、ホラーかもしれない(´;ω;`)

この歌の場面を想像すると、かなり強烈だと思うんだよ。
磔(はりつけ)となったキリストの頭には有名なイバラの冠が被されているのだけど
イバラって実際見たことあります?
なんでも薔薇など棘ある低木の総称らしいのだけれど
薔薇なんてかわいいもので、柚子やカラタチになると
5センチ近い鋭い棘がざくざくのびてるからね、
頭にかぶせる以前に、冠の形にすることさえ難易度高いと思う。

そういえば善光寺さんの本道脇にはカラタチの生垣があってね
葉っぱが全部落ちてる有刺鉄線状態だったんだけど
長い棘が絡み合う凄まじい姿を見たらもう
私の頭の中はイエス様一色になっちゃったっけなぁ。

とにかく頭に棘が刺さりまくって顔血だらけのイエス・キリストが
磔刑になっているわけなのだけれども、
この賛美歌の2番がまた非常にインパクトがあるの。
だってこの痛ましい姿は私のせいだって歌うんだもの。

真面目なクリスチャンはズキュンズキュンくるね、こなきゃダメだね。
私の身代わりにこんなに凄まじい苦しみを受けた神様に
わたしゃどう応えたらいんでしょう! ってなもんですよ。

あ、善光寺さんのほかにさ、この前の旅行、仁科神明宮ってとこにも行ったんだよ。
なんか神明造の国宝だってんでさ。
で、神社つながりで添乗員さんの言うことにゃ
「伊勢神宮は私たちがいろいろお願いしちゃいけないところなんですよ」
「あそこに願いをかけられるのは日本でただ1人だけなんです」
で、そのただ1人の人は毎日
「どこにいようと、伊勢の神宮さんの方向に必ず祈るんだそうです」
「日本国民のことを祈っているんですよ」
「だからみなさん伊勢の神宮にはありがとうございますって感謝に行くものなんです」
だってさ~、
私は心でへぇへぇへぇとボタンをいくつもたたいたぞ。
にしても、だ。
それらを知らないでみなさんほんとよくお伊勢さんに行くんだね~
もっとも、そんなの建前で、今は普通に祈祷受付してるそうだからね、
日本人の宗教観って、ほんとほんわかしてるからさ(´∀`*)

日本人くらいだと思うよ、
「祈ってます」って普通に言うけど
どこの神様に祈ってるのかはっきりさせてない人が大半なのって。
ちなみに言っておくと、キリスト教の神様は
ほかの神様やスピリチュアルとごちゃ混ぜにされるのとにかく嫌い。
ご自分でご自身を「ねたむ神」って言っておられます。

イエス様が十字架に掛かってくれたから私ら ((((;゚Д゚)))))))されずに済んでるけど
それがなかったらいまの日本人の多くは・・・・・ぅ(@゚Д゚)@。Д。)わぁぁぁ~~~~ッ!!!!!!

私はそれを知っているので、(仕方がなしに)神社行っても寺に行っても
ご本尊やご神体ではなく、
心のなかのイエス様に一生懸命手を合わせているのでありました。
むふふ
でも善光寺のおやきは食べたい。(#^.^#)

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もっとも尊いことのひとつ

神様
03 /05 2017
先日たまたま観たテレビで
「森のイスキア」の主催者だった佐藤初女(さとうはつめ)さんを知った。
丁寧に、一切の手抜きなしで、心をこめて作った食事が
悩みや苦しみを抱えて訪れる人々の心を癒し、
人生の受け止め方を変えていくという内容だった。

当時87歳だった佐藤初女さんが
台所の椅子に腰掛けて、モロッコインゲンを器用にナイフで斜め切りにしていく様子を
音もなくただ映している姿には
老女独特の慈しみと静かなやさしさがにじみ出て見えた。

訪れた悩める人々は、苦しみや悩みを、背中が丸くなった初女さんにただただ聞いてもらう。
初女さんはただただ耳を傾ける。
彼女によると
「多くの人はすでに自分で答えを持っているから、
私はちょこっと背中を押すだけでいい」のだそうだ。

悩む人の背中をわずかに押して、
そのあとおいしいお食事をみんなでいただく。
ただそれだけで、人は見違えるように笑顔を取り戻していく。

ああ、すごいなぁ、と思った。
心のこもった食事はもちろんすごい力を秘めているのだろうけれど
そこにいるのが初女さんだからこそ
悩める人たちが道を見出すことが出来るのだろう。
画面で見ている限り、初女さんは本当に何も言わない。
悩みを語る人々を非難も批判もせず
ただただ受け入れ、大変だったね、辛かったね、といい
これからはきっと違う生き方が出来るね、というだけ。

初女さんは正真正銘の立派なカトリックだけれど
神様云々、聖書云々、の話などはほとんど口に上らせないようだ。

私は最近ようやく気がついた。
神様からの特別な賜物を授かった女性たちの多くは
言葉ではなく、彼女らの優しさやひたむきさで、
いつのまにか自然に多くの人々を導く。
人々はそのまま「彼女の信じる神様」を認め、受け入れるからだ。

「神が」「神が」と言葉にするのは知識さえあれば誰でも出来る。
聖書からみことばを書き出して、
これみよがしに語って見せるなども簡単なことだ。

私は最近、自分の過去のブログ記事をいくつか削除した。
それはすべて「神様」に関する記事だった。
自分自身の書いた記事が、鼻持ちならなかったのだ。

聖書の言葉を少々書いた程度で、なにか「やった」ような気になっている
己の傲慢と浅薄さにムカムカしたのだ。
最初に書いた佐藤初女さんが人生をかけてしてきたことこそ
最も尊いことのひとつ。
人をいとおしみ、いたわること。温かな食事を用意すること。

初女さんは2年前にお亡くなりになった。
森のイスキアが今も活動を行っているのかどうかは知らない。
初音さんがイスキアから帰っていく人々に持たせたという
優しい手作りのおむすびに使われていた梅干が
いまもまだ大事に保存され、使われているという。

「沈黙」とオッカムのかみそり

神様
01 /20 2017
マーティン・スコセッシ監督が30年も構想をしていたという映画「沈黙」が
まもなく公開されるとか。

私は観に行かない。
興味はあるよ、もちろん。

ちなみに映画好きなうちの教会の牧師が観に行くだろうから
そのうちどうだったか聞いてみようと思う。
でも牧師が感動したって言うのはたいてい
キリスト教以外のテーマを描いた映画だったりするよ。
私には難解で頭がしっちゃかめっちゃかになった「インターステラー」とかに
「いやぁ、あれは非常にキリスト教的映画でした」
って、まさかの近未来SF映画にキリスト教を見出すんだよ~
牧師の場合ありとあらゆる生活の場面すべてが神様に直結してないとだめだから
その見方もありなんだろうけどね。

私はというと
遠藤周作は狐狸庵としてのエッセイは面白楽しく読んだけど
文学に分けられる「沈黙」も「深い河」も
いわゆる普通の小説である「わたしが・棄てた・女」にしても
キリスト教を描いたものはどうも苦手です、はい。

ドストエフスキーやトルストイやビクトル・ユゴーが
キリスト教を根底にして書いたものなんかには
涙なくして読めないんだけどねぇ、
なんで遠藤周作は苦手なのかな・・・・

遠藤周作はいわゆる日本における「そこらじゅうに神様=汎神論」と
「キリスト教の唯一神」との間に立って
自分の位置に苦しみ続けてきたらしいね。
それ、わからなくもないんだよね、私も同じ立場にあるわけだし。
でも氏の真剣な苦悩に敢えて近づこうとしてないの、
むしろ避けてるのね、悩みだすと大変そうじゃない?

自分で出せない答えは神様に丸投げする、
それが私のやり方だから、その手のことは悩まないの。
アダムとイブ以前に恐竜がいたり、お猿さんがいた進化論とかにも
ふ~ん、ってやり過ごす。
人間としては「いい加減」ともいうけど、まぁそれでいいのさぁ・・・(´∀`*;)ゞ
思い煩うことなかれ、だわよ。

とはいえ、私だってときどき神様が理解できなくて
苦しい思いもすることがあるよ。
特に虐待される子供については、その思いが強い。
神様は愛してくださるために子供に命をおあたえになるのにね、
なんでなのかなぁ。
昔、80代にもなる牧師さんに質問したことがあるの。
飢えや戦争や、虐待で殺される子供がいるのはなぜか?
神様は助けないの?って。

老練な牧師は悲しそうに答えたね。
「神の深遠なご計画を人間は知ることが出来ません」



愛されるために生まれた子供らに
         降り注がれる神の沈黙  
                   ちやこ

いい加減で不真面目なクリスチャン

神様
07 /05 2015
私は本当にクリスチャンなのかな、と感じた日。

礼拝後に婦人会というのがあってね、今日は各自祈りについて思うところを述べたんだけれどもさ
みんなね、とても真面目で、ひたむきで、謙虚で、真摯で、一生懸命なの。

たとえばね、韓国からお嫁に来てすでに長い人はね
「(神様を否定する人を見たときに)私はどうしてこの人に
神様はいること、神様がこの人を愛していることを
伝えられないんだろう、なんて私は勇気が無いんだろう、
なんて愛が無いんだろうって、泣きそうになります」って
本当に泣きそうになって言うんだ。

ある人はこんな話をしたよ。
「娘が自転車で通勤途中車に当て逃げされたとき、
当て逃げした人は車の修理に出したことで当て逃げ犯だって逮捕されたのよ、
娘が命まではとられなかったからだとは思うけれど
私は犯人がかわいそうで。
捕まるまで、どんなに怖かっただろう、どんなに自分を責めただろうって思うとね
すごく気の毒だったの」

ある人は、みんなに尋ねたの。
「なんだか最近お風呂に入っている間私ずっと祈っているの。
それは次第に(無宗教の)ダンナが私とともに信仰を持って礼拝に来るようにって事に絞られてきて
それを本気で、かなり必死に祈るようになったの。
そしたらね、ダンナと私の関係がものすごく険悪になったのよ。
信仰の話とは関係なくね、ダンナがちょっとしたことで怒鳴ったり、お皿投げたり
手を上げたりするようになって、もうこれは一緒に同じ時間には家にいられないっていうくらいなの。
まるで誰かに祈りを妨害されてるみたいなの、こういうのある?」

複数人が激しく頷いたわけよ。
「本気になったからよ、本気で祈り始めたから、サタンも本気で妨害にかかったのよ」
「うん、悪魔は人が神さまに属するのを一番嫌がるからね、邪魔するのよ」

・・・・・
私ねぇ、いっちょ前に、自分をクリスチャンだと思っていたのだけれども
上記3つの例すべてが私にはまったく当てはまらないと思ったよ。

私は神様を信じない人に対して、気の毒だなんて思わないし
神様を教えられない自分を責めたりしたこともない。
当然、神様を知らない人のために泣いたこともない。
その人のために勝手に祈るくらいはするんだけど、そこまでなの。

先日うちの娘も駅まで自転車で通勤の途中、車に当てられてね。
雨の中、車は知らん振りで走って行っちゃったのよ。
まぁ大したことは無かったんだけど、私はその件を知らされたとたん
娘を守ってくださいという祈りと同時に
走り去った車の人間に神様から相応の罰が与えられますように、って
ものすごく強烈に祈っちゃったもんね。
呪いの祈りだわよ、これ。
当て逃げした相手の気持ちなんて考えもしなかったし、
ましてや気の毒だなんて決して思えなかった。

信仰心の無い亭主がいつか自分と一緒に礼拝に出るようになって欲しいというのは
クリスチャンの女房すべてが祈ることなんだけど、
私そのことでサタンの妨害を感じたこと無い。
というか、すべてこれまでの祈りの中で、サタンに妨害されたこと無かったと思う。
それとも、こんな風に自己主張をし続けるそのことこそが
サタンの妨害なのかな。
私を本物の真摯なクリスチャンにするまいというサタンの妨害なのかな。

そうかもしれないなぁ。
私はいつか、まともなクリスチャンになれるのかな。
道のりは遠く険しい気がする。
一生無理かもしれない。

でもね、私はね、天国に行きたいからここでも書いておくんだ。
私はイエス・キリストを信じます。
大好きなんです。ものすごい好き。
ファンです。たまらんです。
ってことを。 イェイ!

預言にお金はかかりません

神様
12 /02 2014
別に名前を挙げたりしないが、とある新興宗教の最高地位の人は
死んだ偉人さんたちに憑依してもらうんだかなんだかをして
日本経済とか、憲法とか、この国のあり方とか、隣国との関係とかを
ああだこうだと語って、こうするべきだああするべきだと
山のように提言し、本にしたりしている。

これに関してナンダカンダと言い立てる気はないのだが
諸葛孔明や卑弥呼まで登場して、
胸襟を開いて語ってくださるのであれば、ぜひとも
ドストエフスキーに降りていただいて
未完に終わった「カラマーゾフの兄弟」の続きを、
しっかりと最後まで書いていただきたい。ぜひとも。

預言カフェなるものを最近知ったので、それに関して
ナンダカンダいう気はないのだが
あれが「わけわからんちん新興宗教」系列ではなく
「うちはキリスト教です」と看板を上げているから
「それなら」と安心しちゃう方々に向けて
一応これだけは書いておこうかな、と思う。

韓国で修学旅行生を置いて逃げたあの船のオーナーは
キリスト教系新興宗教の創設者だったぞ。

いまも合同結婚式を行っている統一教会は
自称キリスト教系の宗教なのだぞ。

輸血拒否や地獄の説明にやたら詳しいエホバの証人もキリスト教系だぞ。

キリスト教と名乗っていても、
日本人一般が知っていて安心できるキリスト教系ばかりではないのだぞ。
お金大好きの搾り取り系もあれば
世界を我が物にせよというのもある。
どれもそれぞれ恐ろしいものであるけれど
なにが一番怖いのかというと、何も知らない人間が、それを信じて従うのを
高らかに喜んでいるのが、神とは真逆の存在であるということだ。

ちなみに預言者は金を取らない。
神の言葉は無料だからな。
ここでまず、おかしいと気付いたほうがいい。