まことに鬱陶しい

いろいろ感じたこと
10 /02 2011
鬱陶しい。

私の言葉が強いと言う。
他人のブログの批判はよくないという。
あんたってなに様という。
黙って見過ごすのが大人でしょという。

まこと、鬱陶しい。

一般受けする文章とはどういうものか。
新聞のように「裏を取り」「平易な言葉で」「かたよらず」
「つねに冷静に」「感情を排して」記事を書けばいいのか。
もしそうなったら金ももらえないのにそんなに遠慮して書いてたまるか、と思う。

原因となっているご夫婦の写真付き性交ブログはアラフィフカテゴリでの人気の高さから
戻ってくるお考えもお持ちなのだそうだ。
そして戻ってきても「見なければいい」とのことである。

まったく至言、もうそれ以外にはない。
しかし私は文字文章に対する感性が強いために、一瞬目にしただけで読めてしまう。
であるからそうなれば私はこのカテゴリを出て行く、それが楽である。

・・・・と、最初に考えたのだが出て行くならブログ村そのものから出て行くのが一番楽ではなかろうか。
順位に興味はないが、読んでくれる相手が欲しくて村に属した。
だがこの場所も、常識的で当たり障りのない書き手を求めているようなので
どうも毒の強いワタクシには不似合いのところだようやく気がついた。

と、いうことでこの記事を最後にしてブログ村を出る。

最後に書いておく。
「他人のブログを批判するな」という言葉に対してひとこと。

書くことは批判される覚悟を持つことだ。
共感・賛同だけ欲しがって批判を避ける書き方はつまり、読み手への媚びである。
批判されることを恐れて、書きたいことを書けなくなってはいけない。

また批判にせよ、反論を書くにせよ
その筆者に対する反論は常にある程度の敬意と丁寧さを兼ね備えておくべきである。


それがブログであれ「公にする文章を書く者」としての自負心であってほしいと願う。


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村を抜けたら平原だった

出来事から
10 /02 2011
ブログ村を抜けたら、なんだかさっぱりしてしまった。

やはり順位争いに巻き込まれてしまっていたのだなぁと、いまさら思う。

別に上位に上がりたくなかったのに、勝手にあげられていたが
あるブログで「毒舌ブログ」と言われているのを知り、
それでお客さんが多かったのかといまになって納得した。

表現は強いとは思うが、上から目線のつもりは全然なかった。
毒舌だとも思っていなかった。
言っちゃナンだが私は文章上も本人もあまり変わらない。
ということは私は毒舌家なのか、知らなかった・・・・・いや
「強い」とか「はっきりものをいう」とかは小さいころから言われていたのだ。

まぁ、よい、フリーになればお客さんも減るのでこれで好きなことが書けることだろう。

本当の自分はそれを嫌う

出来事から
10 /04 2011
もしも太宰治が今も生きていたら
インターネットが大好きで、
毎夜毎夜2チャンネルあたりに出没していたのではないかと思ったことがある。

いろんな人になり済まして
いろんな掲示板にとうとうといろんなことを書き込み
ある場所では人気者になり、ある場所では嫌われて、
引っ込んだと思ったら、まだ別の名前で別の場所に出没し
気のきいたことを書いて、またたくまに支持者を得て、あるいは反感を買って、

そんなことを繰り返すうちに、文系の彼は
工学系のキレ者に、ホストやIDを突きとめられ晒され
面白がったネットのスズメたちに過去の書き込みを掘りだされ

同じ事柄に別名で「すばらしい」と持ち上げたり
またほかの名で「お前なんか」とぼろくそに罵ったりする、
そのめちゃくちゃな行為を全てすっぱ抜かれて

どうにもこうにも恥ずかしくて
身の置き所がなくて、とりあえずネットの世界から逃げて消えていく。

しかしほとぼりがさめるとまた同じことを繰り返し
繰り返し繰り返し繰り返し…



なんてことを想像するに、太宰治なら、ぴたっと来そうな気がしてしまった。

・・・・いや、とんでもない想像だ。
太宰ファンの怒髪天を避けるためにあらためていうが
これはあくまで私の100パーセント脳内の想像の話である。
しかも相当にレベルの低い想像である。

ライン


自分を認めてほしいという強いこだわりを持ちながら
自分に決して自信を持てなかった太宰治という人に
今もこのネット社会に存在するある種の人々が連想されてきてしまった。

ごく最近数日前のことであるが
公開非公開ともに十数名の方からコメントをいただいた。
反論であれ敵意であれ賛同であれ、それらすべてに私は目を通し
一つ一つにお返事を書いた。

それぞれ別の名ながら同じホストを通って届いたコメントも複数あったが
私はもちろん一つ一つ返事を書いた。

いくつもの名で厳しい意見を書いてきた人、この人のホストは
検索にかければすでに隠す必要もないほど、ネットで晒しあげにあっていた。

以前から長い賛同と共感のメールをくれたはずの人が
別名になって敵意や揶揄をむき出しにしてきたものもあった。

ライン

・・・・これらの人々の心の底に潜むものは何だろうか。
自分以外のものになりたいという変身願望か。
誰かと繋がりたい、遊びたいという欲求か。
過ぎゆく平凡な日常に、刺激を求めているのか。
あるいはただ意地悪をしたいのか、面白がりたいのか。

ひとつということはあるまい、きっとすべてがそうだ。
いろいろな感情が絡み合って彼らは他人を作り上げてネットの上でなり変わる。

そう思うのは私が彼らと同じように、
ネットの中で別人になったことがあるからだ。

もしも彼らの中にあるのが私がかつて抱えていたような孤独や
他者からの無理解、各種束縛などなんらかのマイナス状態なら
私は彼らを責めないし、責める資格を持たない。
晒しあげるという、彼らにとって最もつらい、惨めなこともしない。


私は愚かで、自分に自信もなく、けれども誰かに認められたくて
たくさんの嘘をついた,そういう時期があった。
けれども、そんな自分を嫌う、もう一人の自分も存在した。

彼らの中のもう一人の自分、良心と呼ばれるそのまっとうなものが
彼らの中に沁み入って広がり
全身をやわらかく温めてくれるように、本心から願っている。




「女のくせに」

出来事から
10 /06 2011
NHKの朝の連ドラでは2作続けて「女のくせに」という言葉が使われている。

先日終わった「おひさま」では主人公の通う女学校の英語教師が「女のくせに」と言い放ち、
始まったばかりの「カーネーション」ではやはり主人公が
父親にも近所の男の子たちにも「女のくせに」と言われる。

時代背景が昭和の戦前と大正なので
「女のくせに」は普通に使われていた言葉であろう。

しかし、何度聞いても感じのよくない言葉である。

あろうことか今朝など「これが男の力じゃ」と言って、幼い主人公が父親に張り飛ばされた。

将来的に主人公は「男にも負けない仕事をなす」イメージで描かれるのだろうから
このシーンは布石なのではあろうが
やっぱりやっぱり感じが悪い。

「ろくに集金もできないオヤジが
お前より腕のある子を張り飛ばすのか、え?」である。



さて「女のくせに」と言われた側は、大概の場合忘れられない。
私は物心ついてから二度ほど言われたが、きちんと覚えている。

しかも問題の言葉のあとには「女なんか男のために生まれてきたんだからな」と続いた。

思い出すと何となく今も不愉快なので、それを私に言った相手にちょっと復讐をする。


言った相手は昭和30年代後半の生まれ、当時彼は私と同じクラスの高校生であった。

彼は背も低くにきびが満面に咲き、痩せっぽで、そっ歯で
逆三角形の痩せた顔の上に乱れた癖っ毛がいつも波打っていた。
優雅にも趣味はピアノだと公言したが、予想外に下手であった。
自分では利巧と思っていたが、大学受験ではバカスカ落っこちた。
好きな子(しかもクラスイチの美少女)に告白するも玉砕した。

そういえばクラスイチの美少女は彼の差別発言に憤って
「あなたお母さんから生まれたんじゃないの?
馬鹿にしてる女から生まれたくせに」
とやりかえしていた。
ああ、きれいなだけじゃない、いい子だった・・・

彼に関してその後のことは一切知らない。
彼が自意識過剰の男尊女卑の非常にさえない外見を有するまま成人していたとして、

健在で運よく結婚などしていれば、
間違っても「女のくせに」などという口を叩いていないと思う。

彼が自分の収入だけで家族を満足に食わせ養っているとは考えづらい。
そんな甲斐性のある男になっているとは非常に思いづらい。
むしろ女房の稼ぎに多いに頼っているクチになったりしていないだろうか。

結局その後は想像話なのであるが、書いていてちょっと嬉しくなった。
その程度に女に恨まれる発言ではあるということでもある。

もう一人、私に向かって「女のくせに」と言った男がいる。
これは「女は女らしくしなきゃいけない」といい
「女はそんなエッチな話とかしちゃいけない」と続いた。

彼には私は復讐を遂げた。
これは事実なので想像話ではない。
彼は今や二度と「女のくせに」とは言わない。
「女らしく」とか「女はエッチな話はだめ」とも絶対に言わない。

私は彼を罠にかけて惚れさせた。
彼はすとんと罠に落ち、私を追いかけまわし、私がなくては生きていけぬと泣いた。
そして私に最後まで騙され、今うちの二階で淋しく眠っている。
ざまぁみやがれ、である。

だいたい、「女のくせに」と言う奴に限って、弱いような気がする。
本当に強い男は「女」をバカにする必要がない。

極端かつ変な例を挙げて想像するにアントニオ猪木は
「女のくせに」と言うだろうか。
言わないような気がする
・・・というか立ち位置が全く違うから比較もしないだろう。

自分が偉いと思うなら、同じ立ち位置から異性を語らないでほしい。
そうでないと異性に猛烈に恋をした時、
「たかが女」にそこまで心乱れる自分を正視できなくなるかもしれないぞ。

・・・・それにしてもいまはきっと「女のくせに」などという言葉は死語だろう。
死語になるべきである。

連休の暇つぶしにすること

見た映画の感想
10 /10 2011
ええと、連休である。

でも別にすることがない。

(掃除や料理や片づけなら山のようにするべきことがあるが、やりたくない)

連休にいろいろなところに遊びに行った時代はもう10年以上も前になる。
ひたすら家にいてごろごろする専門になってかなり長いので
この長い時間をどうやって自宅で過ごすかにかけては
もはやプロの領域である・・・・・・うれしくないが。

で、昨日一昨日、レンタル映画を2本見た。

「英国王のスピーチ」と「ブラックスワン」
どちらも去年のアカデミー賞をもらったメジャー作品、ツタヤで3泊4日960円。

英国王のスピーチはまぎれもない良作、安心して見ていられる。
主人公のコリン・ファースは生まれ育ちの良く心の強い紳士の役がぴったんこなわけだが
ついに王さまの役になったわけであった。
しかもジョージ6世といえば英国民に愛された善良王。
もうこんな役をやってしまったら悪役にはなれないだろう。

個人的には誠実で堂々とした役回りをこれからもお願いしたい。
ブリジット・ジョーンズの恋人とか、ゲイのデザイナーとかはもういい。
それにしても誠実系演技派の中年男優って最近はなぜゲイ役やらされるのだろうか?

あ、吃音のジョージ六世を治療する顔の長いおっさんは
パイレーツ・オブ・カリビアンの敵役船長バルボッサである。
あのおっさん、バルボッサなんかやっているが、
なにげにかつてアカデミー主演男優賞をとっているのだ。
「シャイン」という題名の映画だが
おつむに問題のあるピアニストの役だったが、確か全裸にもなったいた。
熊蜂の飛行とかすげえ曲をがんがん弾きこなしていたが、あれが本当に彼の演奏ならすごいぞ・・・

もっと書きたいが疲れてきたのでブラック・スワンはこれで済ませる。
ブラックスワン

でもナタリー・ポートマンは大変な熱演だった・・・映画が好きか嫌いかは別として。
ただいくら頑張ってもプリマドンナのバレエに見せることは無理だった・・・・

それから・・・・
そろそろ編み物をはじめたいと思っている。
毛糸の不良在庫がちっとも減らないために今年は在庫を使い切りたい。

ちなみにこれは今年の1月に不良在庫整理のために編んだカーディガン。
カーデ

数年前に毛糸が15玉で600円くらいだったので買ったが、糸がかわいらしすぎて使いきれずにいた。
この1月にひと月ほど入院したので、時間つぶしに編んだら
看護師さんやお掃除のおばさんに好評であった。
これまではシック一辺倒で編んできたので、こういうかぎ針のふち編みは初めて。
はし

編み図なんかないので全部適当に仕上げ、丈の長さがちょっと不揃いになったのだ。
着るとこんな感じ、首元が寒いのと糸自体にぬくもり感がないので秋浅い、いまが着る時か。
(鏡のなかに映る背景がぐちゃぐちゃで汚いと指摘するのはいけない)
着る

さて、なにを編もうかな。
あ、今日は本も読みたい。
風呂のカビ取りもやらねば。

怒って食べて感心して

出来事から
10 /12 2011
最近やけくそに腹が立つことが多い気がする。
いかんなぁ、と思う。

でも腹が立つ。
書けばすっきりするのだろうか、しないだろう、でも書く。

今日は用事で一日外に出ていた。
帰宅するなり隣家の奥さんが出てきて言った。
「近所のおうちがリフォームするとかで、これ預かってます」

ティッシュボックス5個入りパックを突然渡されたが、要するに
「リフォームするのでご迷惑をおかけします、御挨拶です」という意味なのだと思うが
まさか留守だからとお隣に預けられるとは思わなかった。
よろしくお願いしますどころか、うちがお隣にお世話をかけてしまったではないか。

しかもティッシュを預けたのはその家の持ち主ではない。
地元の工務店である。
(持ち主ならまさかそんな本末転倒なことは致すまいと思う)

このやり方はいくらなんでもめちゃくちゃなので工務店に電話を入れた。
すると小中あたりの子供らしき声で、「いません、いません」と繰り返す。
これがまこと愛想がなく、木で鼻をくくったごとく乱暴な口調であった。
(てめぇうるせぇんだよ!という感じがぴったり来る比喩だな)

とりあえず伝言を頼もうと話をすると「意味わかりません」ガチャ・・・と受話器を切られた。

ああ・・・・・そういうことをやる親の子は、
やっぱりこんな風にしか受け答えが出来ないのか。
再度電話をかけてやろうかと思ったが、さらに不快になるのも嫌なので
とりあえずティッシュをリフォーム予定の空家の前に置き戻してきた。

いま、朝の連ドラでは関西商売人さんの家庭が舞台だけれど
たぶん関西の子なら、家の仕事でかかってきた電話に対して、ああいう態度は取らないのだろう。
いましがた折り返し電話がかかってきたようだが、もう聞きたくないので不在にした。

なんだか疲れた。
今日はせっかくおなかいっぱいになって元気に帰ってきたところだったのだが。

ライン


ええと、不愉快事の発端は「ゆうべ夫と口げんかした」ということである。
理由は愚かしいので書かない。

なんとなくむしゃくしゃするので今日は出先の帰りにあれこれ買い食いしてきた。

まず~「ケンタッキーフライドチキン」
クラッシャーズのカフェモカクランチとツィスターの照り焼き。
クラッシャーズは甘いうえに溶けにくく、半分以上残してしまったが、
照り焼きツィスターは味が濃くておいしかったぞぉい~~~
全部で500円玉一個と100円玉1枚以内だった。

次にすぐ一度食べて見たかった「SUBWAYのサンドイッチ」、
今日の得サブはターキーブレストだった。
パンはセサミを選択、焼かずにそのまま全お任せで野菜を入れてもらい
販売員のおばさんはバジルのソースが合いますよとかけてくれた。

・・・・・野菜たっぷりでうれしかったけれども、ピーマンを山のように入れられたのか
全体的に青臭く苦めのゴーヤのような味になり、
しかもきゅうりピクルスがときどき自己主張すると言う
個性的なサンドイッチになっていた。
七面鳥といってもただのハムだし、
バジルソースの味なんか、ピーマン臭でもはやわからなかった。
バイトのおばさん、これからピーマンの分量は考えてほしい。
おいしかったのだろうか?わからん。ただ、もういい。
コーラのSサイズと一緒に食べて500円玉1枚でお釣り。

どんどん続けて今度は「はなまるどん」できつねうどんの小。
おなかが冷えたので温かいのを食べたが、これが一番ホッと出来たかも知れない。
それにしてもお揚げが甘かった。
100円玉3枚でおつりがうれしい・・・・・

・・・・・書いていて、我ながら貧乏くさくて感動しそうだ。
夫に腹を立てて無茶食いしてると言いながら1500円も食べていないこの事実!!
ファミレス1回で食べたほうがまだ高いではないか。
しかもけっこう満足してしまったのが怖い。
ううむ、客商売の景気も冷え込むはずである。

ライン

最後にもう一つ。
今日の収穫はある老婦人と少しお話しできたことである。
「わたくし大台になりましたの」というから高齢者の大台とはいくつだろうと思っていると
90歳だと言う。
御髪はふさふさの栗色で、背筋はまっすぐ、皺もなく、60代と行っても通用する美しさの
ご婦人はなんと去年まで弓道をなさっていたのだとか。

ええっ、89歳まで弓道! と私は冗談抜きに驚いた。
「6段まではとったんですけどね」・・・なにげなく言ってくれたが6段とはすごくないのか?!
武道で6段を取るのは生半可では無理だろう。
背筋がシャーンと真っ直ぐなわけである。

「それでもね、子育てを終えた頃はスキーばかりしてましたのよ」

どこでスキーをしていたのかと問えば主に志賀高原だったそうだ。
今現在は新宿に近いお宅に一人で暮らしておいでで
娘さんがたも近所にお住まいとのこと・・・・・・

ううむ、80を前にしてボケてしまったわが母を重ね合わせずには居られない。
「どうやったらそんなに元気でいられるんですか?
私ボケそうなんですけど」
「な~んにもしないことですわ、好きなことだけしてますの、ふふふ」

ああ、ハイソサエティだ。
ときどき東京に住まうおばあさま方のなかに出あうこのタイプ。
学習院の出身の方々によく見かける老婦人像である。
「なんにもしない」で
「一人で気楽に住んで」
「面倒だから伊勢丹のお惣菜を買って食べたりしてます」なんて
私には生涯無理であろう。

素敵な大奥様に会えてお話が出来たそれだけで、豊かな気持ちになれた。
羨ましいと思いはしなかったのは、その婦人が
少しも自慢げではなく、ごく普通のこととして当たり前に話してくれたからだろう。
話す感じの良さも、育ちに違いない。

ああいうご婦人を見ていると、
やはり「怒り」はいかんな、と改めて思う。
母もよく怒っていたので、特に思う。
怒ってはいかん。私もボケてしまうかもしれない。

(伊勢丹デパートは新宿にあり、
多くの場合一品2~300グラムでも私の今日の食事代以上の金額になる)


不器用な工務店

出来事から
10 /13 2011
昨日の日記に書いた近所の空家のリフォーム業者は今日、朝から来て工事をしている。

50代くらいのおっさんが一人、かなり使いこんだトラックに乗ってきている。

トラックには工務店の名が、かつてはきちんと書かれてあったのだろうが
いまはほとんど消えかけている。
見るからに哀れなトラックだ。

朝9時過ぎ、工務店のおっさんは道路に面した生け垣と庭木を引っこ抜いていた。
洗濯物を干しに二階のベランダに出た際私はそれを目撃したのであるが、
最後の1本の木の根が強く、
おっさんはその木にワイヤーをかけてトラックで引こうとしていた。

ぶちっと音がして、いとも簡単にワイヤーが切れた。
どうやらワイヤーが細かったのか。
おっさんは車から降りて複数のワイヤーを取り出し、木にぐるりとかけた。

そしてトラックにつなぐとゆっくり進ませた。
何度も何度も剪定されて大きくなれず、2メートルもない低い木であった。
ただ、幹の太さが直径20センチ以上はあった。
空家が建ったのは25年以上前になるので、その木はたぶん25年間そこで生き続けていたのだろう。

トラックに引っ張られて、木は揺れ始め、ゆっくりしなり、
次第に倒れ始めた。
その間5分もなかっただろう。

何故か見ているのがつらかった。
木がいじめられ、殺されていくように思えた。
木は自分の背丈の3倍はあろうかという太い根をあらわしながらずんと倒れていった。

木が死んだ瞬間だった。

トラックのなかから、おっさんが急いで降りてきた。
木を見るのではない、木の根元に箱のようなものが盛り上がり出てきているのが見えた。
なにか埋まっていたのか?

おっさんがその箱に手を触れたとき、土混じりの水が1メートルほどの高さに吹き上がった。

おっさんは木を抜く際に、その家の水道の元栓を破壊してしまったのだ。
木はただでは引き抜かれなかったということだ。

ライン2

1時間半ほどで、水道の騒動はおさまった。
本管を壊したのではないので、水道屋がきてぱっぱと直せたし、
水も周囲にあふれ出て大変になったりはしていない。

先ほど工事の家の前を通って買い物に行ったが、工務店のおっさんは
遠慮がちに「こんにちは」と私に言った。
いろいろとバツが悪そうだった。

工務店の仕事にはたぶん庭作りも含まれているのだろう。
だがこの辺りでは普通、庭の作り替えは造園業者の仕事であり、
彼らなら水道栓をブチ壊したりしない。
さらには木を引っこ抜くのももっとスマートにやる。

この小さな工務店に仕事を頼んだ施主は、今日のこの失敗を多分知らない。
小さな工務店一人での仕事だったところに水道業者が数名も入って
施主はその代金を請求される憂き目に遭うのだろう。

ぼろぼろトラック1台と男1人で無理やり太い木を引き抜くという
荒っぽいやり方で起こしたこの失敗を、工務店は施主に報告するのだろうか。

ライン2

ぼろぼろトラックと、昨夜の電話のクソ生意気なガキ。
まったくいまどき、会社の電話と家の電話を共有しているような零細工務店が、儲かっているはずはない。
手際の悪さからしても、このおっさんは器用なほうではないだろう。

もしかすると、今回のリフォームはとても久しぶりの仕事なのかもしれない。

・・・・・そこまで考えたら、私は見なかったことにするしかなくなった。

施主は余計な水道修理代金まで請求されるのだろうか。
大工を指定しなかったのもミスなら、見に来なかったのも決定的なミスだ。

・・・・しかし、施主さんがもし、やっと貯めたお金であの空家を買うのだとしたら。
あの失敗を伏されたままいいように払わされるのだとしたら・・・・

いや、人間には良心というものがあって、ちゃんと正しい値段の請求をすることだってある。
そうでなけりゃ・・・・

・・・・でもなぁ

ええい、もう堂々巡りでわからん。
出来がよければ、すべて良し、そう思うしかない。







娘の門限

出来事から
10 /17 2011
子どもの門限・・・・いまでもそれを決めて、行使しているお宅はどれくらいあるのだろう。

我が家はいま、それを考える時期にきた。
娘がまだ中学生のころ、我が家には不文律的門限があって
友達やクラスでの「飲み会(未成年のくせにこういう言葉を使うとは何事か!)」での

帰宅時間は、9時から10時までと決められていた気配がある。

不文律的門限と言う名で語るのは、基準が非常にあいまいで
場合と季節と様々な原因理由によって変化するからである。
一番影響があるのは、けしからん物差しながら私の機嫌によることが多かった。

今から6年も前、不文律的門限が存在していたころの話。
サイゼリヤで夜の10時近くまで騒いでいた娘の携帯電話に
私は周囲にも響けとばかりに「今すぐ帰れ!」と大声で怒鳴りつけた。
娘の友達は私の剣幕を聞いてしみじみと同情し
「・・・・大変だねぇ」と言ったそうである。

正直に言って、中学生に夜の10時過ぎまで外で遊ばれて
文句の一つも言わない親のほうがどうかしていると思ったが
あの日は娘がものすごく悲しそうな顔をして帰ってきたので
以来、少しだけ私は考えを変え
娘の良心と常識に任せて、うるさく言わないことにしてきた。

その後、娘は遊びの場合、
どんなに遅くとも夜の10時過ぎには帰宅していたので
私はこのままこれを続けていくつもりであった。

だが、彼女も大学2年生となり、その良心と常識が
非常に揺らいできた模様である。

娘は田舎育ち、高校生までほぼ県内でじみ~に過ごしてきた。
それが都会の大学に進学して以来、日々に派手に、おしゃれになった。
女の子が華やかに、おしゃれになっていくのは当たり前だから
いくら箪笥がパンパンになって服が床に散らかっていても
目くじらを立てて怒る気はない。

だが、まだ二十歳になっていない女の子が
酒に酔って終電に乗って帰って来るようになれば
これはもう怒らずにいられない。

「みんないい子だよ」
「みんなきちんとしてるよ」
大学で出来た友達のことを、娘はこう表現する。
「見た目ちょっと派手でも、芯はしっかりしてるんだよ」。

芯はしっかりしていても、常識に欠けている女の子は
「きちんとしてる」とは言わん。
もし友達がきちんとしているのなら、きちんとしてないのはお前自身だと
娘にわからせるよりない。

19歳の女の子であるから、恋もしたいだろう、
性への興味も山もりだろう、都会のにぎやかな夜にも
おしゃれにも、楽しいことは全部やりたいだろう。

それらをすべて制限したいとは思わない。
そんなことは自身を振り返っても土台無理な話だとわかる。

それでも私は娘にただ一つ決めごとを要求するなら
「門限」を守らせたいと考える。
毎日デートに行くようになっても、決まった時間に帰ってくるなら
親はその制限にすがって、無理に落ち着くことが出来る。

そうだ、無理にもだ。
門限を守るからと言って、親の理想の女の子になれるはずがないこと、
昼間っからホテルでもどこでも行けるその可能性を100パーセント知りつつ
それでも、親は「門限」を守ってもらえるだけで心落ち着ける。
無理矢理でも落ち着けるのだ。
実態と建前のあいだの空洞化に目を向けずにいられるならば。

だから夜は決められた時間までにきちんと帰ってこい。

まだ自分のケツが拭けない女の子のうちから夜遊びに慣れるな。

誰が何と言おうと、普通の女の子は夜に遊びまわるものではない。

夜にひらひら活動するのは、蝶ではない、蛾だ。

セックスレスを50分間語ったNHKに感心した話

いろいろ感じたこと
10 /20 2011
シモネタである。

昨日、NHKの連ドラを見終わったら、いつものように「あさイチ」の
ニコニコ垂れ目のイノッチがいて、あの顔に癒される気でいたら
始まったテーマはなんと「セックスレス」であった。

以前も書いたが、基本的にシモネタ大好きなのでイノッチの反応を楽しみにしつつ
テレビの前に座り込んだ。

これが(もちろん)CMもなしに50分間余、
全編背筋を正して聞く一方のイノッチと、
ときどき申し訳なさそうに会話に入ってくるオタクおじさん柳沢解説委員
普通のことだわ言ってやるわよ・小島慶子、
人間は心と体と愛とエロスよ・杉本彩、
大人ですからただしく知りましょうよ・とよた真帆
という身も心の大人の女性ゲストをも交えて、なかなか見ごたえがあっておもしろかった。

なぜ拒絶するのかという再現フィルムがふたつあって
どちらも男性側の普段の心ない言葉や、思いやりの無い態度が
妻の心と体を閉じさせてしまった理由としてあげられていた。

面白かったのは「なぜ妻が拒絶するのか」という男性側の推察理由で、
その人は「自分が小さい会社に転職したから妻がさせてくれないのだ」
としか心当たりがないということであった。

男性が「収入減少=女性に冷たくされる」という家の外での思考をそっくり
家庭内に持ち込んでいるのには、大笑いしてしまった。

家庭の収入減少に伴って妻が仕事を持って疲れているとか
転職の相談をしてくれなかったのを根に持っているとか、
そういう間接的な理由による拒絶を考え付くならまだしもであるが、
普通の妻は、1パツいくらの春をひさぐ女でも、
金払いのいい客につく水商売女子でもない。

あの男性にはそのあたり早く気づいていただきたいものである。

心の問題の後は実際の肉体の問題へと移り、
「その際の痛み」に関して、ドクターたちを交えていろいろと最新の情報を公開していた。
骨盤低筋を鍛えることによって、尿漏れ、膣脱、痔、
そして「その際の痛み」にも効果がばっちりだとのことで、
全ての女性にオススメだそうだ。

ううむ、昔はバナナくらいなら切ることが出来たかもしれない私も
やらねばならんかもしれん。(試したことはない)
長生きすることは全身が下に落ちることでもあるから、
骨盤低筋を鍛えるのはよい事に違いない。(でもまだしていない)

また、痛みに関しては病気の場合もあるし、
しぶとい痛みがあまりにも長く続く場合は薬も治療も現在は存在するのだそうだ。

まったく私は感心した。
朝の8時15分からセックスレスの話題を少しもごまかすことなく延々と
50分間やりとおしてくれたNHKに。

番組へのメールは最後には1900通にも及んだそうである。
「痛みが病院で治ることに希望が持てました」とか
「セックスレスで離婚したときは妻が一方的に悪いと思っていたけど
自分の日頃の態度に問題があったことに初めて気がついた」とか
放送に感謝している人も多かったようだ。


だがもちろん
「朝から何をやってるんだ!不愉快だ!」
「そんなことテレビでやるな!」
「女性にそういうことを語ってほしくない!」
というのもバンバン届いていた模様である。

まぁ、確かに時間的に難はあったが、
あの時間だからこそ、多くの主婦たちに届いたのだというような気もする。
(十代の子からのメールには「家族と見るのが気まずい」とあったww)

恥じらいを持つのも結構、朝はまずいでしょ、というのも結構、
だが、「そんなことは人に語るもんじゃない」と言う言葉には
「きちんと言わなきゃ知られない情報だろ」という答え方がある。

妻が毎回痛みに耐えていた、嫌で仕方なかったけど夫が怒るから仕方なく・・とか
そんな現実があることを世の男性諸氏は、大人の男として知るべきだと思う。
男性の日頃の思いやりと優しさといたわりがあってこそ、
女性は体を開くことをよしとするのであって、
そういう間柄になるからこそ、互いの関係が深まる理由になるのである。

そもそも「そんなこと話しちゃダメ」的考え方は大きな害も生む。
家族全員東大京大コースの友達が一人いるが、
彼女は高校生で初体験を済ませ、恋もたくさんして、
もちろん数名と致したものの
「気持ちいいなんてあれは虚構だと思う」という。

彼女はとてもいい家族に育ち、家族自慢をするが、
その家族はある一つの話だけは徹底的に封印していた。
封印されているために、漠然と禁句、禁じられた感情と思って育った彼女は
それを汚らわしいこと、動物的な野蛮なことといまも考えている。

彼女がするのは
「相手がしたいというから」のみで、残念ながらの義務なのだそうだ。

彼女は映画や話に見たり聞いたりする「快感」とやらに憧れはするが
いざそれに向き合うと嫌悪感が増大して、好奇心を打ち負かす。
気持ちが悪くなって吐きさえする。
育てられた環境が清浄にすぎた模様である。
ちなみに彼女は医者である。(当然産婦人科ではないぞ)

昨日の「あさイチ」ような真面目な性の話にさえも
「そんなことを話すものではない」と言う当事者が、女性だったの場合、
その人ももしかすると私の友達のような人なのかもしれない。
過ぎた快楽追求主義は私も苦手だが
上述の友達に関して言えば、私は彼女がとても不憫な気がしている。


追記:NHKの朝の番組が、病院の待合室や、空港、食堂など、さまざまな場所で放送されているという話を知り
思わず笑ってしまった。
小さな医院ではあの放送の「セックスセックス」の連呼が、さぞや耳ざわりだったことだろう。
私が通っている大きな病院も、そういえばNHKがついているが、だいたいがその放送が聞こえるほど静かではない。
それでも気まり悪そうな大人の顔が想像できる。
なぜか笑える図だ。
日本という国は、そういえば昔から性を笑い話にする知恵のある国だったな、などと思ったりした。

   

夫にするか子供にするか

いろいろ感じたこと
10 /24 2011
別にどっちを殺すかというソフィアの選択を迫るわけではない。
ごくごく日常的な些細なことで
夫を1番にするのか、子供を1番にするのかということである。

お友達ブックンママさんのブログ
ご主人の持ち帰ったお土産を、結婚した娘さんに上げようと箱ごと仕舞っていたら
ご主人が、なぜ俺が食べられないんだと言ったという。

これに対するコメントが面白かった。
まったく子供じゃあるまいし、的なもの
ご主人かわいいわ~、というもの
ご主人の気持ちを考えてあげませんか、というもの・・に分けられる感じであった。

モデルケースとしてとりあえずご主人の肩を持ってみるとする。
もちろん土産を嫁いだ娘に気前良く上げたい気持ちもあるのだが
もしもそうする場合は、まず夫に確認をとってからにしたい。

「これ、娘に上げてもいい?」

答えが「えええええええええ~~~~」だった場合は
しょうがないなぁ、と諦める。

「うん、いいよ」だった場合は、
夫の気が変わらないうちに土産を見えないところに隠す。
そして娘に品物を渡す時には大いに夫を宣伝し
「パパがね、パパがね」を連発してパパ株を上げておくことにする。
パパに電話してお礼しなさいよ、と念を押すのも忘れない。

すると夜、娘から電話が入り
「パパありがとう~、おいしかった~」となって
夫はニヤニヤし、次回の土産も入手しやすくなるわけだ。
これは理想である。


だが・・・・・


「うちの旦那は絶対『うん、あげていいよ』と言わないであろう」
という堅い予想が立てられる場合は・・・・・どうしようか。

確かに100パーセントなんでもかんでも
「俺が持って帰ったんだから俺が食う」的なタイプは
妻としても母としてもなかなか忍耐が必要そうな気がする。

親なんだから土産くらい子どもにやれよな、と
ぶつぶつ言いたくなるのもとても理解できる。

では実際自分の家庭で考えてみる。

夫が土産を持って帰ってきた。
娘が嫁に行っていると仮定する。

私「わ~~~~、これ好き、大好き~、食べる食べる」
夫「じゃ、コーヒー淹れて」
私「はーい、わいわいわーい」
(品物は私の好きなユーハイムとかヨックモックのクッキーにする)

私がそそくさと開ける。
夫が2枚ほど食べて終わる。
私が次々に食べる。全種類食べ終わるまで缶のふたを閉じない。

夫「○○(娘の名前)にはあげなくていいのか?」
私「うん」
夫「○○も好きじゃなかったっけ?」
私「うん、好きだったよ」
夫「じゃ、持ってけよ」
私「うん、うちに来たら出す(もぐもぐ)」
夫「・・・・・(今度買ってきて持っていこう)」

うちはこんな感じになるのではなかろうか。
好きではない物が来たら娘に回すが、好物が来たらまず自分で手をつける。

(虎屋の羊羹、塩瀬のまんじゅう以外のあんこものは持っていく。
坂角のゆかりやえびせんべい系は絶対にやらない、
モロゾフのクッキー、プリンはあまり好きではないから持っていくかな)

同じように夫に関して考えた。
夫はスコッチケーキやバームクーヘンを娘にすぐにやるとは考えにくい。
マドレーヌも大好きだから自分が食べると言いそうである。
だが、3つくらい取った後に「持っていっていいよ」と言うだろう。

かくして私はマドレーヌを箱から出して紙袋などに入れて
トコトコ娘のところに持って行き、
お茶など飲みながらそれらを一緒に食べるのだろう。

私「あのね、これもらったんだけど持ってきた、紅茶淹れてよ」
娘「わーいわーい、今淹れるね」
二人とも「ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ(もぐもぐもぐもぐ)」


夫婦と子供で写真を撮るとき、
日本では子供を真ん中にして写真を撮る。
だが、西欧では夫婦が中心に来て子どもは両親の周囲に来る。
家族みんなで手をつなぐときもそうだ。
夫婦がまず手をつなぎ、その両脇に子供が連なる。
日本では子どもを真ん中にして夫婦がそれぞれの脇に連なり
直接手をつないではいない。

だが基本は夫婦である。
アダムとイブがいなければ、その先はなかった。

キリスト教結婚式でこういう言葉を聞かれたことはないだろうか。
「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」
(創世記2章24節)

信じられないし、そんなのイヤよ、というかもしれないが
とりあえず夫と妻とは一体なのだ。
今は家にいる娘もやがて一人立ちし、誰かの妻になるだろう。
(なってくれよ)
そうなればもはや娘は私たち夫婦とは別の一体になっている。

子どもはかわいい、子供は大事だ、だから子供への愛は自然に生まれる。
でも愛しすぎると子の成長の妨げで、なおかつ鬱陶しい荷物になる。
なぜなら子どもは親の付属物ではなく結婚すれば別の人と一体だから。

娘はいま19歳、もうすぐ二十歳になろうとしている。
家を出て行くのもそう遠くない(だろうと願う)。
私たち夫婦がおいしいお茶を二人きりで飲んでいるときに必ず出る言葉は
これである。
「二人に戻るんだから、なかよくしようね」


だから私はもらった土産を優先するなら
まず夫に(あるいは自分に)したいと考えることにする。

(孫が出来たらその限りではない、そのときは考えをしれっと変える予定)