マルマルモリモリおなかがいっぱい

いろいろ感じたこと
11 /02 2011
芦田愛菜は、かわいい、普通に。

鈴木福もかわいい、普通に。


普通の子たちなのにあまりにいろいろ引っ張り出され
私はげっぷが出そうになっている。

特に女の子の方に飽きが来たのが早い。
やたらに泣き役が過ぎたので、鬱陶しいイメージが強くなってしまった。

なので少し前にチキンラーメンのCMで
「わざとらしく歌ってます」とあの少女が言ってくれた時に、少しだけ溜飲が下がった。
あの子の演技の「わざとらしさ」が鼻についてきた人が
私のほかにもいるのだな、と納得できた。
思わずチキンラーメンを購入しそうになったほどだ。

男の子の方は後発組なのでまだげっぷが出ていないが
きっともうじき出る。
妖怪人間ベロは大きな上がり目が特徴だったのに、なぜあの細目にベロを?
人気利用だろうか。
子役は視聴率稼ぎにいいように使われている感がする。

あの二人が歌って踊るマルマルモリモリであるが
実は一度もきちんと聞いたことがない。

あのドラマを放送していた時には迷わず裏番組の「仁ーJin」を見ていた。

あの女の子の威力で「仁」の最終回を視聴率で抜かすのではないかと
宣伝で作ったに違いないうわさがネットで流されていたことも手伝って
「仁」のファンになっていた私は
あの女の子の鬱陶しさをさらに募らせたのであった。

相手がまだとても小さい子だし、「嫌いだ」なんて絶対に言わないぞ。
間違いなく「かわいい」ぞ。
でも、私は今や「かわいらしさ」でおなかがいっぱい、胸にもたれている。


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都のがれき受け入れに思った

いろいろ感じたこと
11 /04 2011
問題は山積だろうけれど
それでも東京都が被災地のがれきを受け入れ、処理を始めたのは立派だと思っている。

抗議の電話はさぞや、という数あっただろうし
実際に処理が始まってさらに増えることは確実だ。

それでもあの地震と津波が東北を襲ったあのころの
「国民全員でこの国難を切り抜けるんだ!」という力強い意思と使命感を忘れず
関西のどこかの都市みたいに「放射能うんぬん」で
むやみに怖がって退けるでなく、
さまざまな方法と科学と検査によって出来る限りの対処を講じつつ
「約束通り」とばかりにがれき処理を始めた東京都を私は称賛したい。

石原都知事の徹底したワンマン主義は大嫌いだけれども
彼の強引なリーダーシップがなければ、
今回のがれき処理は不可能だっただろう。

お子さんを持つ人たちの放射能不安は、私も親だからよくわかる。
しかし被災地の人々はもっともっと苦しんでいるのではないのか。
当たり前のように震災前と同じように暮らしている私たちが
同じ国民として被災地の人たちの重荷を少し持つことは、
しかもできる限りの危機回避の対処をしつつ慎重に行うことは
(実際震災から半年以上もかけたのだ)
暴挙だとは思わない。
防身ばかり図って、他者の困窮無視を決め込むのを許していたら
日本はいずれあの、中国のようになるのではないのか。

(2歳児が車に轢かれたのにずんずん無視して人々が通り過ぎたあの動画は衝撃だった!!
しかし中国に住んでいたことのある人は「ああいうの、普通にある」と普通に言ったぞ)

それにしても放射能を怖がる人たちのどれくらいが
放射能被害に対してただしい知識を持っているのだろう。

ライン

大きな病院の管理栄養士さんが、産婦人科の病棟から呼び出された。
入院中の妊婦が病院で出される食事に、
放射能汚染の不安を抱いているという質問が寄せられたためであった。
管理栄養士は、その質問にこたえるべく病棟に行ったが
質問をしてきた妊婦は病室にいなかった。
日を改めて3度も行ったが、3回ともいなかった。

さすがに困って産婦人科病棟の看護師に探してもらった。
すると妊婦は病院の外の木陰で煙草を吸っていた。
彼女は煙草を吸うために日に何度も院外に出ていたのである。
〈ちなみに病院内も敷地内もすべて禁煙である)

管理栄養士が、彼女にどんな事を言ったのかまでは知らない。
ただ、その妊婦の話を伝え聞いた内科部長は
産婦人科部長に「そんな妊婦入院させるな!」と捻じ込んだそうだ。

馬鹿げた話だが、最近の実話である。


放射能に関してのわけもわからない聞きかじりは
「口裂け女」を怖がっているのと同じである。
そしてそういう輩が、わけもわからず「放射能があるから」と理由をつけて
無駄な大騒ぎをするなら、
真剣に放射能を理解して汚染対処を実行している親御さんにも
目の敵にされるべきだと思う。


   




ポケットからこぼれ落ちた種

未分類
11 /05 2011
6歳くらいの女の子と、その妹が商店街を手をつないで歩いていた。
時間は午後7時前。
妹と見える子の手にはミルキーの袋が握られていて
姉の方の手にはお豆腐が袋に入れられていた。

商店街の人混みのなか1匹の犬がふらふら向かってくるのが見えた。
野良犬か、どこかから逃げた犬か。
お使いに出されていた女の子たちは、ぎょっとした顔つきになったと思うと
姉の方が手を離して車道に飛び出した。
姉は上手く通りを渡り、反対側の歩道に走り抜けた。
そして妹に「早く早く」と向こうから呼んだ。

妹はミルキーの袋を握ったまま戸惑っていたが
近づいてくる犬を見てから、思い切って車道に飛び出した。

そうしてはねられた。

妹の意識はそこからしばらく消えている。
気が付いたら、救急車の中にいた。
救急車の中は、回るライトで真っ赤に見える。

妹は目を覚まし、うとうとし、また意識をなくし病院に着いたときに起こされて、
それからまた意識をなくした。


姉は目の前で妹が車にはねられるのを見た。

妹をはねた車からおじさんが慌てて降りてきて
妹を抱き上げてすぐそこにある出来たばかりの病院に駆け込んでいくとき
姉も必死になって付いて行った。

若い先生は妹の手がまだ握っているミルキーの袋を離し、
姉に手渡そうとしたが
姉の方は気が狂ったように叫び、暴れていた。
いま目の前で起きている現実をまだ6歳の姉は理解できずにいた。

母が来た。
父が来た。

父は最初にこう言った。
「なんだこれは!」
姉はそのとき初めて、妹のポケットからたくさんのヒマワリの種が
こぼれ落ちているのに気がついた。
妹はきっとヒマワリの種を昼に集めてポケットに詰め込んでいたのだ、と姉は思った。


ラインはっぱ


と、いう話をおとといの文化の日に私の姉が話してくれた。
私はそれは違うよと訂正しなかった。

あれは秋の終りの事故だった。
私はその日、トッポジージョの絵のプリントされたズボンをはいていた。
トッポジージョの絵のあるポケットに私が沢山詰めたのは
ヒマワリの種ではない。
だいいち5歳ではヒマワリの種まで背は届かない。
私が摘んでポケットに入れたのはコスモスの種だ。

姉は今もそのときのことをまざまざと思いだせるという。
ほとんどトラウマになっているそうだ。
トラウマになって、再三繰り返し思い出してしまっているうちに
私のポケットからたくさんこぼれ落ちたのが
絵にならないコスモスの種より、ヒマワリの種に代わってしまったようだ。

ヒマワリの種の取れる頃だったら、私は多分足の骨くらいはやられていただろう。
冬に近い頃だったから、私のトッポジージョのズボンは厚手だった。
だから私の足は折れなかった。

それにしても、ヒマワリの種をポケットからこぼれさせながら
小さな女の子がそのまま動かなくならなくてよかった。

娘にそれを話したら「ヒマワリの種がいつかどんぐりになったかもしれない」
と言った。
うん、どんぐりもなかなか絵になりそうである。


    


「おまえさん」宮部みゆき

読んだ本の感想
11 /10 2011
ここのところ、本を読んでいた。

感想を書きたいほどの本を山ほど読んだわけではないので
1冊だけ書いておくことにする。

ひと月ほど前に文庫と単行本と両方がいっぺんに出版されて
読書家の間ではちょっと話題にあがった小説がある。
もちろん人気、期待ともに確実だったために
「持ち歩き読み」のために文庫、
「家に保存」のために単行本、
という出版社のもくろみ通り、今もしっかり売れに売れている。

宮部みゆきの「おまえさん」という時代小説である。

宮部みゆきと言えば、数日前に「火車」という小説がドラマ化されて
一時的にその作品も売上再燃している模様だが
ドラマ化なんぞ無くても、彼女はすでにメジャーな作家である。

ご存じの向きはとっくの昔からご存じであろうが
宮部みゆきは先日の「火車」では山本周五郎賞、ほか
「魔術はささやく」で日本推理サスペンス大賞
「龍は眠る」で日本推理作家協会賞
「本所深川ふしぎ草子」で吉川英治文学新人賞
「蒲生邸事件」で日本SF大賞
「理由」で直木賞
「模倣犯」で司馬遼太郎賞、芸術選奨文部科学大臣賞、毎日出版文化賞
など、結構かなりすごい数の受賞歴を持つ。

ここ数年、やたらに流行している東野圭吾とはだいたい同時期に世に出ているが
東野圭吾がさまざまな賞の候補に挙げられながら
なかなか賞に恵まれずにいた一方で、宮部みゆきはちゃっちゃと売れっ子になり
賞もぽこぽこもらって行った感じがする。
直木賞だけは双方ともにゲットするまで長かったが。

だが、その賞をもらったのはほぼ彼女の推理もの、サスペンスもので
吉川英治文学新人賞を除けば、私の好きな「宮部みゆきの時代もの」は
賞とは無縁の場所にいる。

しかし私は宮部みゆきは「時代もの」が好きである。

「理由」「模倣犯」「火車」といった代表作ももちろん読んだが
暗過ぎて、気持ちがふさいで厭世感が起こりそうで苦手だ。
特に、宮部みゆきは「魅力的な登場人物」や「すごく人のいい善人の登場人物」を
遠慮なく殺してしまうのでそこに慣れないし、悔しい。

(「模倣犯」では魅力的な善人の登場人物を殺したがために
「もうお前の本は買わない!」とか「ひどい!」といった苦情が
作家仲間からも届いたらしいぞ)

宮部みゆきで私が好きなのは「時代もの〈長編)」である(くどい)。

申し訳ないが「ブレイブ・ストーリー」とか「ドリームバスター」とかの
ゲーム本のような話に食指は動かない。
宮部みゆきだからと買って読んで、損をして、
その足でブックオフに売り飛ばしたほど、好みではない。
正直、あれは彼女の「仕事」というより「趣味」ではなかろうかとさえ思う。

(宮部みゆきは無類のゲーム好きで有名である。
放っておけば廃人になるまですると自身で公言している。
毎日ゲームをして、よくあれだけ小説をかけるものだとときどき感心してしまう)

で、ようやく本題、今回読んだ「おまえさん」とはどういう本か。

3年とか4年とか間をあけてときどきひょっこり刊行される
「ぼんくら」「日暮らし」に続くシリーズで、江戸時代を舞台にした推理ものである。

まぁ正直推理小説として破たんがあるかないかと言えば
それほど完ぺきに整ったものとは言えない向きもあるにはある。
なにしろ科学捜査が全然出来ない時代であるから
すべてが現場、物証、言質に頼る以外に捜査の方法がない。

しかもほとんど天才としか言えないカンと頭脳の持ち主が
突然事件の経緯を暴いてしまう。
これがほぼシリーズ通して毎回である。

これだけなら私だって面白いとは言わないし、好きだなどと言えない。
この天才というのがまだガキンチョなので
犯罪にまつわる人間の心理や動きの曖昧模糊とした理由、
つまり言葉にならない動機などを語れるはずもなく、
そのあたりを群がる大人が、やんわりと、深く、噛みしめるように
経験したり、語ったり、解いたりし、
恐ろしい事件に絡んだ人の心の悲しさや、虚しさをじんわり伝えてくるのである。

なにより宮部みゆきの「理由」や「模倣犯」などの救いの無いものと違って
最後には「人間ってのは莫迦だけれども笑うときは笑うんだぜ」的な
ほろりと温かな終わり方をするのがよい。

そして
下町生まれ下町育ち、いまも下町在住の宮部みゆきが描く
江戸っ子の描き方の絶妙なきっぷの良さ、カッコよさがまたよい。

時代劇では彼女はリアルを追究しないから
登場人物はみなそこそこ類型的で単純かもしれないが
だからこそ、彼女の持つイメージの男や女がきっちり投影されていて
真面目なのやら不真面目なのやら
根性のあるのやら無いのやら
ヒトのいいのやら底意地の悪いのやら
がらっぱちやら、ざっくばらんやら、うぶなのやら、遊び人やら
それぞれがきらきら生き生きと描かれているのである。

それら人物の魅力が、彼女の時代劇を待つものにとってはたまらない。
ファンは喜んで買わされ、その本はブックオフにはいかぬまま
本棚でまた数年後に読まれるのを待つようになるのである。

おや、長くなりすぎた。
本の感想はお預けにしておこう。
誰か読んだ時につまらなくなるといけない。
まぁ、読書を出来る方にはオススメしておく。
(だって少しだけ長いからさ)

シリーズとなっているので最初に読まれる方は
「ぼんくら」「日暮らし」「おまえさん」と順に読まれるのがよかろうと思う。






相手が鬱陶しくても恋なのか

いろいろ感じたこと
11 /11 2011
娘のバイト先で、同僚同士がつきあいだしたそうだ。

どちらも大学生で、はじまりは夏休みだったと聞く。

すべて娘から聞いた話なので、どの程度正しいのか知らない。
けれども面白く感じたのでちょっと書きたい。

つきあいはじめてすぐ、女の子は男の子からのメールの多さに辟易してしまったのだそうだ。

たとえば
「おはよう、今日は寒いね」にはじまり
「朝はメロンパンだった」
「電車が遅れた」
「一限が休校になった~」
「学食でおしゃべりなう」というように逐一報告してくるのだそうだ。

「もうめんどい」ということで、女の子はいちいち返信しないことに決め
届いたメールも、すぐには開封さえしなくなった。
すると男の子から「どうして返事くれないの?」とくる。

「アイツ鬱陶しいんだよっ!」と女の子は娘に愚痴ったそうだ。

・・・・メールなんて便利なものがなかった時代に青春を送ったので
自分の考えがおかしいのかもしれないが

「アイツ鬱陶しい」なんて思いながら「恋」が出来るものなのだろうか?

私の経験で考えると、恋しい男がばんばんメールをくれたなら
鬱陶しいとは思わないで、暇を盗んではメールを返信するだろう。
「好き」とか短い殺し文句を添え、ハートなんかもくっつけて。
メールの多さにへどもどして困ることはあっても友達に
「アイツ鬱陶しい」などとイライラを向けたり愚痴ったりすることはしないと思われる。

もしもその言葉が出るとすれば、恋が終焉に近づきつつあるころではないだろうか、私の場合は。

ただ、すっきりさっぱりしたお付き合いが好きな向きには
こういうべたっとした付き合い方は「鬱陶しい」のかもしれない。

・・・・でもさ、恐縮なのだが疑問があるのだ。
「すっきりさっぱりしたお付き合い」でも「恋」というのだろうか。

私個人ではそれは「好き」とか「お気に入り」くらいの範囲の感情である。
それともそういう冷静なあり様も「恋」の種類なのだろうか。
もしそうなら、そういう「恋」は草津の湯やお医者様にも治せそうな気がする。

草津の湯やお医者様でも治せない恋の病はどんなものか。
私の考える「恋」はまさにそっちである。
周囲がはた迷惑に思えるくらいの、周囲が眉をひそめたくなるほどの
「相手を欲し、求める感情」を、私は「恋」だと考えた、というか経験した。

そんな心理状態のときには、もちろん成績も下がるし
仕事だって出来なくなるに決まっているが、私はそういう性質であった。
(高校時代の成績表は恋人が出来た2年生から急落した)
幸運にも相手が犯罪者や妻子持ちではなかったためにヤバイことにならずに済んだけれども、
相手が悪い人間だったら、私はどうなっていたか、自信が持てない。

ここまで周囲の見えなくなる状態になるのが「恋」だ! なんて極端なことは言わないが
好きなはずの相手のメールを鬱陶しがるなら、それはやっぱり
私の視点からすると「恋」とは思えないのだ。

私が違うのかな、そういうさっぱりした「恋」もあるのかなと
夫に話してみたら、夫は鼻で笑った。
「鬱陶しいなんてそりゃ、恋じゃないよ」
「ほんとに恋してたら鬱陶しいわけがないよ」

わが意を得たりと私は喜んで、モヤシ炒めに買ってきたひき肉を全部入れて
味噌ラーメンに乗っけて出したくらいである。
(夫はこの食べ方を好む)

しかし・・・・・
私たちは夫婦であるから「恋」の方針も似通っているのかもしれない。

さっぱりすっきりした「恋」
互いの都合を考えて、ほどほどに、いい感じに進んでいく
そういう交際も「恋」というのかもしれない。

〈わたし的に思うと、そういう筋の通った、大人しい付き合い方は「結婚後」のイメージがある。
とにかく恋は筋なんか通らない、めちゃくちゃである、わたし的には)

私には、やっぱりわからない。
鬱陶しい相手と付き合う理由もわからない。
そもそもそんな感情があるのに、付き合えるのがわからない。

誰か教えてほしい。

   


母を

いろいろ感じたこと
11 /16 2011
母は本当は明るくて、楽しい性質だった。
けれどもお嬢様育ちながら激しさを秘めていて、
すでに決まった人のいる身で、ろくでもない父と駆け落ちして東京にやってきた。

東京に来て母は、それまで貯めていた貯金を父に全額奪われ、
故郷に帰ることが、実質的に不可能になった。

暴力的で浪費家で嫉妬深い父に束縛される日々の中でも
母は生来のたくましさで家庭をきりもりしてきたが、
働いて得た収入も、ことごとく父に使われ、
母はいつしか笑わない、いつも怒っている人に変わった。

それでも小さかった私は母の優しさを得ようと、母の休みの日には学校から走って帰った。
走って帰っても、疲労困憊の母は無愛想で
特に優しくされたなどという記憶は皆無だが、母が家にいると言うだけでうれしかった。

私は母が大好きだった。
いつも怒っていても、母は私の好きなコロッケを買ってきてくれ
新しい服を姉とそろえてくれた、
お弁当には卵を焼いてからあげを入れてくれた。
たんすが3竿もある6畳一間に、姉と私の布団、母はその間に座布団をたてに3枚敷いて眠った。
母は姉が結婚して家を出ていくまで毎日狭い座布団で眠っていたが
そのことで文句を聞いた覚えはない。

私たち姉妹は母の犠牲の上に育てられたのだ。

だが、反抗期に入ると、私は母に無関心になった。
母が私たちの犠牲になっていることに、その当時の私は気づいていなかった。
家族3人がアイスクリームを食べて、母には無くても
「ママはアイスが嫌いだから食べないんだよ」
という小さい時に聞いた言葉を、大きくなっても少しも疑っていなかった。

母の肩にかかる経済的な負担はさらに大きくなっていったが、私はそれを思いやることはせず
「塾にすら行かせてもらえないのか」といって恨んだ。

私は見えるところに愛情を100求め
見えないところに必死で注がれている母の200もの愛に気が付けなかった。

だから十代の後半には「母が好き」という言葉は、私の中から消えていた。

私が治らない病気を発症し、最初の入院の8カ月間を経験した時
私は生まれて初めて、母によって「愛」というものを知った。

母は8カ月毎日、毎日、仕事の後にさらに電車に乗って遠い病院にやってきた。
若かった私は突然の過酷な運命に絶望し、周囲全てを恨んで
泣いて、怒って、荒れ、ひどい暴言を吐いた。

母は寂しそうに、けれど優しい微笑を見せて、すべてを受け入れた。
どれほどのひどい病気であろうと、
人を刺し殺すに近い言葉を何十回も吐く私に向かって
それを許し、血が流れるほど傷ついた胸にすべてを柔らかに受け入れるのが
「愛」でなくてなんだろう。

死ねとばかりに凄まじい言葉を吐き散らした私に、母が静かに穏やかに
「ごめんね」と謝ったとき、私はこの世界に「愛」があることを知った。
そして「愛」に触れたとき、人は涙とともに剣をおさめるしかないことを知った。

私にとって、母は最高の最大の偉人であった。

発病して数年間、入院と退院を年単位という長さで繰り返しながら
私の周囲には友達も恋人も消え、母だけが残った。
私は母に依存した。
私の依存に母は全身全霊で応えてくれた。

仕事と私の病院とで家のことがおろそかになり
父に灰皿を投げつけられて足に大きな傷を作っていた母のことが
悲しくて悲しくて、病室のベッドで布団をかぶっておいおい泣いたのを覚えている。

父に責められようが、姉が私との扱いの差で卑屈になろうが母は毎日病院に来てくれた。
私は病室で毎晩母を待った。
面会終了時間ぎりぎりに来て、20分もすれば帰ってゆく母を、私は点滴台を押しながら見送った。
母が大好きだ、大好きだ、と感じていた。
母が死んだら、私も死ぬしかないだろうと思った。



そこまで愛した母である・・・・と思っていた。
けれども、私が愛したのが10とすれば
母が与えてくれた愛は1000である。

私は母の巨大な愛情をきっと生涯返せはしない。

いま、見た目も声も変わりはしないのに、母はもう昔のあの母ではなくなっている。
あんなにも懸命になって愛を注いでくれたあの日々を
母はすっかりきれいに記憶からなくしてしまった。

母はもう、一人ではその日に着る服を選ぶこともできない。
最近ではついに
会うたび「大きくなったね」と言っていた私の娘に対しての記憶がすっぽりと消えた。
私が入院するたび駆けつけて、小さな娘の世話をしてくれ
手を引いて並んで歌いながら散歩をした大切な小道のことも
母の記憶にはすでに存在しない。

それでも母はいまもこう言う。
「あなた無理しちゃだめよ、また入院しちゃうんだから」

いったい何の病気で、どうして私が入院するのかなんてことは
もう一切覚えていないのに
私が弱いことだけは母は今でも覚えている。

こうして書いていると、私の中に母への愛情が涙とともに少し蘇る。

母は今私のためになにかをしてくれることはない。
私が母のために頑張って動かなければいけない。
そうして私は無理をして、体調を壊し、だいたいまた入院をするはめになる。
母のためにバリバリ動けるような体ならよかった。
でも、私にはその体がない。

母のことで無理をして体を悪くするたびに、私の中で
あれだけ愛してくれた母への思いが、少しずつ薄くなる。
母が記憶の中から完全に私を消したら
私は母を、あの大好きだった母を、好きではなくなるかもしれない。

母は今度MRIを受けるのだそうだ。
あの密閉された騒音のなかに認知症の母が大人しくいられるのか
ショックでさらに認知症が進むのではないかと
いまはそれを不安に思っている。






親は先に逝くものだから

未分類
11 /19 2011
同世代の人のブログを読んで、ときどきお目にかかる親の記事。
しかも大半の人たちは「親とは決して仲が良くない」らしい。

かといって、面と向かってケンカするわけでもなく
心の底でむかついたり、あきらめたり、呆れたりしながら
老いた親とそこそこ、あたりさわりなく
距離を置きつつ付き合っているというのが主流のようである。

私もそうだったから、よくわかる。

老いたりといえども、まだ心も体もある程度正常な親に対して
子はなかなか強気に出ては行かれないものだ。
どんなに腹が立とうとも。

私が父に怒声を投げつけたのは、父が死ぬ10日ほど前ではなかっただろうか。
父はもうトイレでズボンを脱げないくらいに弱っていて
私が脱がそうとしたら恥ずかしいという。
大きな声で母を呼ぶのだが
母は日頃の父の世話のせいで腰を痛めて動けなくなっていた。

それでも母を呼びつける父に、私は切れて怒鳴った。
「パパが何でもかんでもママにやらせるから、ママはもう動けないんだよっ!」

父は怒鳴り返してきたが
かつて子どもたちを震え上がらせたその威力は、もう父には存在しなかった。
結局そのときは訪問看護婦さんに来てもらい始末をつけたわけだが
その翌日あたりに父は発作を起こして入院し、そのまま帰宅しなかった。

私は後悔しているか?
否である。
してもしょうがない後悔などしない。

入院中の父はこんなことを言った。
「ママに済まなかったと謝ってくれ、俺と一緒になったばかりに済まなかった」

最後まで見舞いに行かなかった母に伝えたが
父のおかげでうつ病になり、認知症も出始めていた母は
「へ~、そんなこと言ってたの」と一蹴した。
父の言葉が心底からの謝罪だったかどうかなど、もう母には関係無かった。

父はそれまで多くの過ちを犯し、母や家族を危機的状況に追い詰めてきたが
そのたびに父は深い反省の言葉を口にした。
母は許し続けたが、父は同じ過ちを繰り返してきたのだ。

その父の最後の詫びに、母は耳を貸さなかった。
もう面倒はかけないでほしい、私を自由にさせて欲しいと、母はただひたすらに父の死を願った。

そして父が死んだ。

姉も、母も、私も、泣かなかった。
葬式はしなかった。

母は父の骨が邪魔で、田舎の寺に送りつけてしまうか
ゴミに出してしまいたいとの意向だったが
認知症となった母にそこまでの行動力がなくなったのは幸いだった。

父の部屋のものを、私はすべて処分した。
父の蔵書はもちろん、カメラのコレクションもゴミに出した。
父のうそだらけの日記も、父の書いた記事の載った本も父のものは全部捨てた。

きれいに片づいて、何もなくなった部屋を見て
母が久しぶりに笑ったのを覚えている。

半年ほどして、姉が父の遺骨を都内の寺にお願いする手はずをつけてきた。
新聞によく広告の出ている共同の墓である。
田舎には父の家の墓があり、父は長男なのでそこは無縁墓になるだろう。

母は正常なころから父の家の墓にだけは入りたくないと言っていたが
そこは完全に安心していい。

正直に言う。
墓なんかどうだっていい。
墓を大切にする人たちを否定する気はないが
私には一族伝来の墓を守ろうとか言う気持ちはかけらもない。

母が死んだら父と同じ共同墓に入れるか
それとも私の通う教会の墓に入れてもらうかどちらかになるだろう。
もちろん母が私より長生きしたらわからないが。

親はたいがいの場合、子供より早く死ぬ。
親が死んだ時、泣けるなら多分、子供はその親を慕っていたのだろう。
生前どれほど憎いと感じていたとしても。

親のために涙するとき、子供の涙はきっとものすごく美しく尊い。

私にも父のために大泣きした記憶が一度だけあるが、
そのときの私の感情は、私に正常な記憶力がある限り忘れられはしないだろう。
またいつか書けるといいと思っている。




ナベツネのおじいさん

出来事から
11 /23 2011
法廷闘争で清武氏が勝てる見込みは薄いと思う。

相手がマスコミのなかでも大新聞社の会長だから
普通なら味方につけられるはずのマスコミも、それほど肩入れしてはくれないだろう。
清武氏が味方につけられるのは、ひたすらに一般の人々
ナベツネ氏を毛嫌いしている人々、巨人ファンであっても今回の騒動において
清武氏側に着いた人々くらいであろうか。

言動の強すぎる自信満々のじいさんが基本的に嫌いな私は
もちろんナベツネ氏も好みではない。
今回の法廷闘争に関しても「最高峰の弁護士を10人」立てるのだそうだ。
「法廷闘争は最も得意」とかで今回もまたカワイクナイ発言を繰り返している。

別に清武氏のことが好きだというわけではないので
そちらを特に応援する気はないのだが、
カワイクナイ発言を繰り返すおじいさんの、
造作は高くはないけど意識としては極めて高いお鼻の柱を
そろそろ誰かがバッキーンと折ってくれるのもいいかな・・・・
などと無責任にこの状況の推移を楽しみにしているのである。

清武氏は「老害」という言葉を使ったが、うむ、
ナベツネ氏の年齢になって(氏は1926年、大正15年生まれの85歳)
巨人野球が特別ではない時代にあれだけ強気な発言を当たり前のごとく使用していれば
その言葉を使われてもしょうがあるまい。
まだ「もうろくした」とか「ボケた」とか「老醜」とかの言葉を使わなかっただけ
清武氏も気を使ったのではないか?

そういえば今年の節電時にも「プロ野球は節電だってナイターするぞ!」と息巻いて
世の中から猛反撃を受けたことがあった。
この節もなに抜かしとんじゃこのジジィ…と密かにあきれた覚えがある。
あの当時東京以外の近県は数度マジで真っ暗な時間を
ろうそくともして過ごしていたから余計にそう思えた。

ほかに聞く人もいなかったので夫に
「今回の清武氏とナベツネ氏どう思う?」と聞くと
「あんな内輪のもめ事を記者会見なんかで話すからいけなかったんだ」と言った。
ほーぅ、そういう意見か。
「だいたいでかい組織っていうのは、誰かしらワンマンがいなきゃまとまりっこないんだよ、
特にスポーツなんかそんなもんだ」
体育会男の夫が言うのでたぶんそうなのだろう、と素直に思ってあげた。

(「スポーツ」という言葉に関して私は一切の意見を言う権利を持たない。
なにせ私は、さかあがりがデキナイ)

そういえば体育の教師の部屋って、なぜあそこだけ「体育教官室」だったのだろう。
(私の記憶ではなぜか高校と大学の体育教師のたまり場は「教官室」だった)

「家庭科室」には家庭科の先生がいて
「音楽室」には音楽の先生がいて
「保健室」には養護の先生がいて
「理科室」には理科系の先生がいて…と考えれば「体育室」。
しかしそこで体育をやるわけではなく、ただの体育の先生のたまり場なのだから
普通に考えれば「体育教師室」でいい。
でもなぜか「教官」がつくわけだ。

体育の教師というのは、そんなに偉いのか?
偉いというより逆らうとめんどくさいから、ほかの教師は逆らわないのかもしれない。
それが体育会系の基本的なノリなのだろうか。
ちょっと軍隊臭くて、苦手である。

体育会だった私の夫は、幸運にも軍隊臭より加齢臭であるが
(幸運か?)
少し前に、凄まじい軍事訓練が出てくる「GIジェーン」という映画を見たとき
厳しい軍事訓練をしている夢を見てうなされた程度には
軍隊臭い世界に類似したものを経験してきた模様である。

おっとまた話が本線からずれた。
ナベツネ氏の話である。

言動は確かにカワイクナイし、相当自信家な爺さんであるが
ちょっと調べてみると愛妻家なのだそうで、そこはなかなかイイと思った。
〈でも奥さんが認知症になってから愛妻家になられてもさ)
さらに靖国神社だ大嫌いで、首相の神社参拝を断固反対しているのにも好感である。
(靖国の遊就館の閉鎖を求めたりしてすごく過激だ)
しかし私の大嫌いな「渡る世間は鬼ばかり」の大ファンというから
やっぱり好きになれない。
「AKB」が好きなどと言ってくれたら好感を持つのだがな。
(アリエネェ!)

ま、清武氏には負けずに頑張っていただきたい。
ナベツネ氏といえど、先は長くはないだろう。
94歳まで生きるおつもりらしいが、計画通りとばかりは限るまい。


認知症グループホームというもの

いろいろ感じたこと
11 /24 2011
母の入居している認知症グループホームの定員は9人、
職員は現在7人だそうだ。

そこに決める前にはいくつかのグループホームを見て回った。
高原のホテルのように美しく高い天井を持つ大きなグループホームや
マンションのようなビル形式のグループホームもあった。
けれども私は1戸建ての普通の住宅と変わらない、現在のグループホームに決めた。

入居者9人は自室を持ってはいるが
そこでは寝て起きるだけで、だいたい昼の間は1階のリビングに全員がそろって
おしゃべりをしたり、歌を歌ったり、テレビを眺めたりしている。
午前中と夕方にはみんなで15分から20分ほどの散歩に出る。

そのホームでは体調が悪い以外はリビングに引っ張り出され
一人にさせる時間をあまり作っていない。
買い物に行ったり、散歩に出たり、洗濯ものをたたんだり、絵を描いたりして
一日にはやることがちゃんとある。
入居者は老人ばかりだから、なんだかんだで忙しく感じるらしく
「お仕事だからしょうがない」と言っている。

お仕事が忙しいので、入居者はお腹がすくらしく食欲旺盛である。
ご飯を2杯食べる人も少なくない。
お仕事のせいで疲れているからか、みんなよく眠り
夜中に起きだして徘徊することもない。

ほかのグループホームでの夜勤で徘徊や奇声にかけずり回らされ
「この世界はやっぱり向いてない、年寄りが憎くなってきた」という
介護を学ぶ学生たちは、このグループホームに来ると
「お年寄りがかわいく見えてきた」というそうだ。

よく食べよく寝てお散歩し歌を歌いおしゃべりに花を咲かせ
笑い声もよく聞こえる。
家にいるときには怒って荒れていたり、無表情だったりした父や母が
ここに来て生き生きして見えることに、家族はたいてい驚く。

認知症になった夫を入居させたところ「生き生き」してしまって
これまで頑張って見てきた奥さんが逆に鬱になったり、
「いままでの努力はなんだったの」と涙ぐんでしまうこともある。

認知症の人の治療に必要なのは「少しばかりの社会性」ではないかな、
と私は母の施設を見ていて強く感じる次第である。
周囲に適度な人数がいれば会話も動きもあって脳が刺激されるだろう、
そのなかの介護者たちが認知症患者を尊重し、その長所を褒めつつ
穏やかに接してくれれば、相手は安堵して失いかけていた誇りを取り戻すだろう。
認知症患者はもとは大人であって、
彼らの中には大人としての誇りがきちんと存在しているのだ。

認知症患者にはできないことがたくさんあるが、
そのできないことを注意したりやり方を教えたりすることはない。
なぜならその行為は彼らの大人としての誇りを傷つける。
傷つけられたことで、彼らの心は内に向き、認知症特有の症状を進ませることになるからである。

認知症介護の専門家はよほど認知症が進んだ相手でないかぎりは、患者を子供のようには扱わず、
大人としての誇りを大切にする接し方をするのである。
ただ、それが難しい場合も少なくない。
母のいるグループホームは多分、非常に理想的に機能している場所なのだと思うのだ。

それでも、不満を持つ家族は存在している。
ううむ
今日は母の認知症グループホームでの家族会で見聞きした出来事を書こうとしたのに
グループホームに関するあれこれで長くなってしまった。
長すぎて読みづらくなるので続きは次に書くことにする。


グループホームの家族会で

いろいろ感じたこと
11 /25 2011
個人的には、かなりいいグループホームに入居できたと考えているのだが
入居者家族が集まって話し合う会では、不満を述べる人も存在した。

経理に不信感を抱いているというのである。

ホームからは毎月ごとに費用の通知があり、家族はそれを振り込むことになっているが
厚労省の認める正規な費用ではない費用もいくらかは発生する。

たとえば入居者の散髪代、美容院代、
月一くらいに行うちょっとした遠出での外食代などである。
リハビリパンツなどは家族が買って持ってくるのが取りあえずの決まりだが
それが遅れて足りなくなったり、家族が遠方に住んでいたりして
買い物を施設に頼んでいる場合なども含まれる。

不満というのは、
都内からわざわざ話し合いに出向いてきたという女性が言い出した。

その女性には「度々は来られないのでまとめて預けていたその他用のお金」があるのだそうで
施設はそのお金の使用を記録するシートを紛失してしまったのだそうだ。

正直に言うとシートがなくなってもレシートや領収書はあるので
それほど「不正」があるとは思えないのだが
女性は「シートを無くすこと自体がありえない」と言った。

特段事務専門の人を雇用しているわけでもない小さなグループホームで
入居者の世話をしながら金銭の記録をつけるのであるから、
落ち着いて記録できる状況ばかりが続くわけでもなかろうに
彼女はまったく容赦がなかった。

「私も経理ですが、経理はきっちりやってこそ仕事です。
仕事なんだからきっちりやってもらわないと困ります」

きっちりやりたいだろうけれども、それを許さない状況になるのが
介護の現場ですからねと、ある家族はやんわりとホーム側をかばった。

「いや、そんなことはわかってる、うちだって14日間母をみたから知ってます」
と不満のある女性は言う。
「でもそこは仕事だからやってもらわないと、信用できなくなります」

施設側は、申し訳ありません気をつけますと、ぺこぺこと謝った。

不満の彼女はさらに言った。
「突然に電話がかかってきて、医者に行けというのも困ります」
「私は東京なんです」
「仕事があるんです」
「耳薬もらうために東京から仕事休んで来なきゃいけないんですよ」

施設側はあっさり言った。
「医者に行く場合は家族が個人個人連れて行くことと、入居契約にあります」と。
所長が首をかしげた。
「そんなにしょっちゅう医者に行けって連絡してないと思いますが」

不満側は「入居契約」の言葉にちょっと焦った様子であったが、まだ頑張った。

「毎月薬とりに行ってくださいって連絡があります、
うちはそのたびに仕事休んでます、そんなに重要なことでもないのに」

所長と副所長が目を見合わせた。
「薬が切れたので連絡しただけですよ。
ご家族が薬が必要がないと思えばもらってこなくてもいいですよ」

話がだんだん核心に近づいてきたのをその他の人々は感じ取っていた。
長くなるので割愛するが、要するに不満を持つ人はこう言いたいのであった。

「高い金払ってるんだから、全部そっちで面倒見ろ」と。

こう書くと、この入居者の家族がひどい人に思われそうなのであるが、そんなことはない。
ここには普段からのイライラに積った、大きな勘違いが存在していた。

まず不満を持つ人は兄弟姉妹の4人で認知症の母親の費用を払っているそうだが
長男の嫁、つまり「おねえさん」というのが
グループホームのある地元に住んでいるにもかかわらず、
うちは費用を払えば十分だと、一切をノータッチで済ませている。

なので今回の話し合いのような場合も地元に住む「おねえさん」は来ず
東京から電車に乗って妹や弟といった入居者の実子が動かねばならない。
やたらに「東京から来た」を連発するのは
「おねえさん近いのになんにもしてくれないから!」という腹立ちを
ホームにぶつけているのであろう。

さてホームからの毎月の請求は東京の妹(不満を言った本人)のところに来ているが
自治体から届く費用明細は地元の姉のところに届くそうだ。

(○月の費用明細はこれこれです、
自治体はホームにこれこれ費用を使いました。
あなたが払った額はこれだけのはずです、
同じかどうか確認してください・・・というのが書かれている)

そして何一つ手を動かさない義理の姉がこの明細を見て
「あのホーム、こんなに儲けてるのよ、一人分で向こうにはこんなに金が入るのよ。
なのになんで私たちにこんなに毎月請求されるの」
というようなことを妹や弟に伝えてきたのだそうだ。

もうそうなれば疑心暗鬼であろう。
「こんなに払ってこんなに儲けてるんだから、病院ぐらい連れていったらどうだ」
にもなろうし
「経理がおかしい」と言いたくもなろう。

だが・・・・せっかく東京から来たのに彼女はどっと笑われたのであった。
事務経理を仕事にしているのだから書類現物を見せてもらい、
経営経理知識を動かしてみれば、そんなに簡単に儲かるはずがないとわかるだろうに
「自分の金がらみ」になるとそういう考えが浮かばなくなるのだろう。

しかし、と所長はひとり笑わずに言った。
「そんなに儲かるものではありませんよ。
しかし仮にその全額がうちにはいってきたとしても、払うものは払っていただかないと困るし、
入居時の契約も守っていただきます」

副所長が追い打ちをかけた。
「二か月に一度行政で決められた会議があるのです。
ホームと民生委員と、家族代表と、地域の介護包括職員と、
役所の人などが集まって、いろいろ話し合わなければいけないのですが
お宅は一度も参加していただいてないのです。
結局3人のご家族の方だけが9名で回すべきところを交互に回して下さってます。
これは運営上の義務でやらなければならないのでご参加願えませんか」

ギャフン・・・・というやつだ。
逆ねじ食らわせられたのだ。
副所長はもちろん来られないことを承知で話を振ったのだろうが。



どこの施設にもある話だが「預けたらおしまい」
「預けたらもういい」というスタンスでいる家族には
その考え方を変えてもらうよりない。
施設側は「ご家族の負担をある程度配慮しつつ」も
「いかにして入居者を家族から放置させないようにするか」
に苦慮しているのである。

もちろん親を預けるには子供側にもたくさんの事情がある。
お金に関する事情は確かに切実なものであろう。
仕事は大事だし、せっかく落ち着いた生活を親がらみの都合で
乱してほしくない気持ちも大いに働くであろう。

しかし、である。
預けて終わりにしてはならない。
預けて終わり、だと思うから今回のような不満が出る。
実際、よく入居している親に会いに来る家族たちはまず不満を口にしない。
親が明るい顔で、落ち着いて暮らしているのを見れば
不満など出るはずがない。
もちろん私も同じである。

今回正直に不満を述べた女性はとてもつらいかわいそうな状況なのだなと
大人しく聞いていた家族たちは思った。
我関せずで知らん顔する義理の姉、
その手の話はブログではよく見かけていたが
(私は一切義理の家とは付き合ってない、だからしらない、的な)
実際それをされる側の大変さというのが痛ましかった。
しかも彼女は去年自身の夫を亡くしたばかりだと言った。
お金のことでシビアになるのは仕方があるまい。

彼女は滅多に会えない母親と席を並べ、ケーキを食べさせていた。
二人で何かを静かに話していたが、
彼女は次第に小さく嗚咽を上げて泣きはじめた。
認知症の母親はその姿にさして興味を示さずに食べ続けていた。
誰もが彼女を見ないようにしていた。

(ちなみに母の入っているグループホームの費用は高いどころか
むしろ格安である。
十万のけたが1で済んでいるし、入居の最初に目玉が飛び出る高額入居金もない)