ひったくりは放物線状に走ってくる

いろいろ感じたこと
01 /03 2012
さてと1月3日。
とりあえず正月行事はすべて終わって、ただのやすみの一日である。
娘はバイト、夫はスポーツ少年団の遠征試合について行って居ない。

DVDをTSUTAYAに返して母の施設に行き、
帰りにセブンイレブンでおむすびを買って、家で食べながら本を読んで
それから昼寝をした。

年末はうちのあたりでも物騒なことにひったくり被害がたくさん出た。
オートバイで走ってきてバッグをひったくられるだけならまだしも
自転車ごとひっくり返されてけがをした人まで出たそうだ。

おっかないなぁ、と思いながら大みそかの夜にふらっと買い物に出たら
もうすでに誰も外に出ていなくて町は静まり返っていた。

車道にはほかに車は通っていないのに後ろから長いクラクションを鳴らされた。
基本、私はとろいので振り返って車を確認したりせず、
そろっと道の端に端にと寄って歩き続けていたら
ものすごい勢いでバイクが私を頂上とした放物線状に走ってきて
私に触れるか触れないかというぎりぎりのところで通り過ぎて行った。

あぶないなぁ!
と思いつつ普通に買い物をして帰ってから正月が来て昨日、
そのバイクの話を家人にしたら
「それ、ひったくりだったんだよ!」と言われてびっくりした。

「なんでクラクション鳴らしたの?」
「振り返ったら荷物取りやすいじゃん!」
「おお、そうか~」

とろい私は長いクラクションにも振り返らなかった。
とろく臆病な私は道の端っこの端っこにひたすらに寄っててくてく歩き続けた。
とろく臆病で肩幅の狭い私はバッグを首から右側腰に向けてななめがけにしていた。
とろく臆病で肩幅が狭く用心深い私はバッグの肩ひもを両手で握り締めていた。
ともかく幸運であった、とはいわない、また神様に守られたのだった。

年末神様に守られたのに正月二日は親せき回りから帰ってきたとたん
親戚の悪口をしばらく愚痴るという罪深いことをしていた。

この愚痴っぽさを今年こそは控えたいものだ。
夫が私になにも買ってくれないとか、かまってくれないとか、
どこにも連れて行ってくれないとか
娘が家事を手伝ってくれないとか、遊びまわっているとか、
父娘ばかり楽しそうで私はふてくされるばかりだとか
そんな幼稚な内容でいじけたりしたくはないものだ。

来年の今頃にはもっと実のある内容を書けるようになれたらいいと思うのが
年頭の所感である。



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離婚を考えてみる

出来事から
01 /06 2012
今年の秋で50歳になるようだ。
45を過ぎてから、自分の年がいくつだったかはっきり覚えなくなったが
ちゃんと年齢早見表で確かめたから、正しい。
私は今年50歳になる。

50年生き続けて、普通一般のことは経験したような気がするが
まだしていないものがいくつかあった。
そのひとつが離婚だ。
離婚はもはや普遍的一般的である。

というわけで正月の3日に今年は離婚をしたいと夫に言ってみた。
別に怒られなかった。

私と夫が離婚すれば、夫の家の墓に入らないで済む。
長男である夫がこれから継いで守るべきであろう墓守も
私には一切関係が無くなる。

ごく小さな会社を作り上げた義理の両親の没後の遺産相続にも
私はかかわらずに済む。
夫の妹弟には、それぞれに経済問題が山積していて
遺産の相続に関しては、少々きれいではない事態が起こる可能性が小さくないのである。
遺産も墓もいらないよ~っと夫がポイしてくれれば一番よいのだが
夫はごく普通の人なので、そこまでのことはしないだろう。

遺産相続の争いが起こって、それに巻き込まれるのはぜひとも避けたい。
これには「離婚」が最適、大変理想的である。

去年の秋口からずっと考えてきたが私と夫の間に「愛」はあるのかどうか
正直もう全然わからない。
ニコニコしていて何か買ってくれたりすれば夫のことが好きになり
ぶすっとふてくされていたり、私を無視したり貶めた言動をしたりすると夫が嫌いになる。
私の内部に存在している夫への感情など
そんな程度でしかない気がして、しょうがないのである。

夫が離婚に対して「否」と言わなかったのは、夫もまた
私に対して同様の感情を持つからであろうと察せられる。

いまこうしてともに暮らしているのは、お互いの利益を守るためというのが
目下最大の理由だろう。
私は夫の経済に頼り、夫は私の切りまわす家庭を支えにしているだけのことだ。

さてとりあえず「離婚」を口にして夫が怒らなかったので
気持ちがずいぶん軽くなった。

「おお軽いわ~♪」と鼻歌を歌いながらお風呂に入ったら
相変わらず温かくうっとりした。
うっとりしながら最前からずっと気持の底に存在していたある文章を
ゆっくり反芻した。

「神が結び合わせたものを人が引き離してはならない」

ああ、マタイ福音書っ!
でも私たちは神様の前で誓ったりしてないぞ、
神官や巫女の前で三三九度したくらい異教の式だったし、
きっと無効だっ、無効!

・・・・などと湯船に浸かりながら、うんうんもがいてみたが
たとえ神前結婚式の三三九度だったにせよ
私が夫の健康と平安を毎夜祈っているのは天の父なる神様で・・・・
とここで、衝撃の一句を思い出して溺れそうになった。
うわぁ、コリント第一の手紙!

「信者でない夫を持つ女は、夫が一緒にいることを承知している場合は離婚してはいけない」

そうだった。
それに、試練から逃げようとばかりするのはよくない。
醜い遺産の相続争いで夫が苦しい立場に立った時、
それを支えなければならな・・・・・・

ってそんな立派なことがこの私にできるとは思えんわいっ!

・・・・が、それでも簡単に試練から逃げようとしてはいけないのだな、
とだけは思い至ることができた。
それに、夫がNOと言わなかった離婚の申し出は、
とりあえず今現在は保留としても、これを申し出たことだけで
私の心はずいぶん軽くなれた。

本当にどうにもならないなと思えるような折には
私は本気で離婚届けを出せる気がする。



成人式

出来事から
01 /08 2012
娘の成人式も無事に終わって
ほっと安心してよいはずなのに、心がなぜか虚ろだった。

親の目から見れば、娘はとても美しかったし
晴れやかで華々しかった。
休日には必ずと言ってよいほど家を留守にする夫も
今日は甲斐甲斐しく娘の足になってあっちにこっちに動いてくれた。

わずかな時間だったけれども施設の母にも娘の晴れ姿を見せに行けた。
きれいな衣装が大好きな母は喜んでくれていた。
3分後には忘れてしまっただろうけれども。

私の抱える虚しさはどこからくるのか。

一番きれいなはずの二十歳の成人式
私はひとりぼんやり家にいた。
成人式はどうしようかなど、親は私にひとことも言わなかった。
うちには金もなかったし
母はまだ勤めていて家にいなかったし
父も家に帰ってこなかった。
姉は恋人と遊びに行っていて、
私はぼんやりこたつに入っていたことを覚えている。

これまで、そのことを親に恨んだりした記憶はなかったのに
なぜだか今日私の虚しさはここが原点にある気がする。

ボケてしまった母には、なにを言っても仕方がない。
それにあの当時、家族には家族の考えや事情もあったのだろう。
私の体調も非常に不安定な時期であったし。

もし、あなたの娘さんが
「成人式なんかどうでもいい」と言ったとしても
可能ならば、お嬢さんには出来る範囲内で一番きれいな時期なんだよと
経験させてあげてほしい。

いま書けるのはそれくらいだ。

後ろ姿





「俺は東大生だ」ってか

出来事から
01 /10 2012
 大阪府警阿倍野署は9日までに、公務執行妨害で東京大2年生の男を現行犯逮捕した。逮捕容疑は8日午後10時10分ごろ、大阪市阿倍野区の市営地下鉄御堂筋線天王寺駅の御堂筋線ホームで、男性駅員(49)の顔を右手で叩いた疑い。成人式に出席するため実家に帰省中だった。

 事件前は同駅付近で小学校の同窓会に出席。その後、実家の最寄りの梅田駅に向かおうとしたが、間違えて反対方面のホームに出てしまったという。階段を使えば逆のホームに行くことができたが、ホームから線路に下り、横断して反対側に移動。渡りきったところで駅員が注意した。

 同署によると「危ないですよ」と注意した駅員に、容疑者は「現に渡りきってる。何の文句があるんだ」と激高。口論の末、駅員に手をあげたという。駅員にケガはなかった。容疑者は当時かなり酒に酔った状態で、通報を受け駆けつけた同署署員に「俺は東大生だぞ」「おまえらとは格が違う」などと言って抵抗したという。

 阿倍野署によると容疑者は当初「覚えていない」と容疑を否認していたが、署で夜を明かし酒が抜けると「すいません」と平謝り。9日昼すぎに釈放された。[ 2012年1月10日 06:00 ]
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/01/10/kiji/K20120110002397470.html

こう言うのに限って学内では頭があんまり上等じゃなかったりするのであるが
こう言うののおかげで東大生・東大出は馬鹿だと言われてしまう。

我が国は酔っ払っていたからといえば多少は大目に見てもらえるという
酔っ払いと酒飲みに甘い慣習を持つ妙な国だが、
この変な国に住む私たちは
酔っているほどにその人間性が言動に表れる場合があるとも知っている。

東大生だと威張る人間は、たいていの場合、
東大生になるのに大変努力したタイプだと思う。
爺さんもばあさんも両親も親戚一同もみんな東大生だったりすると
それが当り前なので別に威張り散らす理由にはならない。
さしたる苦労をせずにすとんと東大に入った場合も
威張る人は少ない気がする。
だいたい、東大の上の方にいる人たちは同じ人間か?というくらい
脳の構造が違っている(と思われる)ので
そもそも彼らは普通人と自分の比較などしないだろう。

「東大だ!」と威張る輩は
「東大が一番」だと純粋に信じていて
「東大に入るため」ならと家族総出で支援応援され
「東大に入れた」らもうそれは、
大漁旗持って750のバイクで高速を飛ばしたくなるほどに
欣喜雀躍する人々なのであろう。

さて上述の東大生であるが、
かわいそうなことに成人式を終えている彼は
ニュースでは同情から名前を隠してもらえたものの
ネット上では本名が各所に上げられてしまっている。
それでも、彼は退学になったりすることなく東京大学を卒業するのであろう。
卒業後大学院や研究室に入れれば、彼のような場合、その過去はきれいに洗われて
消えてしまうのが通例のようだ。

2チャンネルの書き込みで的を射た文言があったので書いておこう。

「品性は学歴じゃ計れないね。」

「東大生は恥ずかしい事をした時の格も段違いって知っとけw」

「所属組織を自慢する奴はその組織内の最底辺である。」


頑張って東大に入ったわけだから、これからはもうバカなことはしないで
世のため人のため、東大の名誉のためにも頑張ってほしいものではあるwww


本を読んでたら山手線を乗り過ごした

読んだ本の感想
01 /12 2012
本の面白さにつられて駅に着いたのに気が付かなかったのはこれで二回目
それでも前はツチヤ先生の本だから仕方がないとは思ったけれど
いや~、まさか「緋文字」で山手線一駅乗り過ごすとは思わなかった。

確かこれを最初に読んだのは高校1年のころじゃなかったか。
新潮文庫で、表紙に赤い「A」の文字と刺繍を施したような図柄が描かれていて
その当時読書家を自認していたこましゃっくれた私には
それがたいそう魅力的に思えたのだよ、
もちろん新潮文庫の裏表紙の説明に魅せられたのは非常に大きいけれども。

あの当時は「名作」「傑作」と言われればもう片っ端方読んでいったものだ。
「緋文字」にも裏表紙に「名作」と書かれていた覚えがある。

・・・・で、15歳の私は読んだ。
そして話の筋だけは理解したが、その話のどこに「名作」の尺度があるのかは
ちっともさっぱり全然わからないままであった。
あの当時はとりあえず「読めさえすれば」よく、
「読んで理解する」あるいは「読んで心が動く」ことまで求めてはいなかった。

というか平凡な頭しか持たぬ15歳の私がいくら傑作名作を読んでも
どっかんどっかん心が動くような作品が、
いわゆる「名作文学」のなかにそんなにたくさんあるわけがなかったのだ。

15歳の時読んで感動したのは、いわゆる名作文学よりも
小説とよばれるものばかりであったが、
唯一どっかんどっかん興奮して、思わず読後に踊ってしまった文学が
志賀直哉の「暗夜行路」であった。

だがこれも二十歳を過ぎて再読したら
主人公のわがままさに眉をしかめるようになり
三十を過ぎてまた読んだら
主人公がなんだか嫌いになり
四十を超えて読んだら
これに感動した15の自分がいかにわがままで
自分勝手な思い込みで生きていたかが感じられ
ひたすら自己反省をすることになったのだった。

というわけで本は読む年齢によって受け取り方が変わってくるわけだが
今回の「緋文字」はどうも今の状況の、いまの年齢の私にとって
ものすごく面白く感じられるものであるようだ。

ブクログというサイトによると(右の本だな参照のこと)
「緋文字」を面白いという読者はほとんどいないことがわかる。
これを読んでいて面白すぎて西日暮里で降り損ねたのは
日本広しと言えども私くらいのものだろう。
実際これをうわっ面白い!と思える人は極めて数少ないのではなかろうか。
(というか特殊な趣味の人かもしれない)

これを大学の卒論に選んだレモンの木さんとは一体どう人なのか
あらためて興味がわいてしまった。
(残念なことに彼女は去年暮れからブログに戻ってこない)

ともかく、私が仮に大学生だったとしても
この作品に興味を持つことはまず無かっただろう。
今年50歳という年齢だから、
そしていまプロテスタントクリスチャンだからこそ
この作品に興味が湧いてしょうがないわけだ。

面白い本に出会うと、私の読書はものすごく遅くなる。
読み終わるのがもったいないからだ。
今年は50冊くらいは読みたいなと思っているのだが
早くも読めそうにない気がしてきた。

図書館の尊い塵

本にまつわる
01 /12 2012
二日前の朝日新聞の朝刊の投稿記事に妙な感じを受けたのでちょっと書いてみる。

それは一般に解放された大学図書館の記事であった。
その人は年間千円ほどの使用料を払い、大学の図書館を時々利用していた様子である。
普通の市民図書館より空いていて静かだらか環境が良いとのことである。

しかしその日、2時間ほど席に座っていると
係員が来て「ここは本を借りるところだ」というようなことを言ってきたそうだ。
つまり「自習室ではないんだ、出ていけ」という意味なのだろう。

投稿者はいう。
学生がだらだらしゃべったりして使っているのに注意されているのを見たことがない。
開放した大学図書館であるなら一考するべきであると。

これはここ数年来、大学図書館の一般開放に関して
自治体、住民、大学側の間でいろいろな意見が交わされていることを踏まえて
取り上げられた投稿なのであろう。
この投稿者の言いたいことはきっと世間一般の意見でもあるのだろうな。

だがこれには私も思っていることが常々ある。

大学が図書館を一般に開放するのは大変結構だし、
近所にあれば私も利用料を払っても通わせてもらうことだろう。
だが、投稿者のように自習のために図書館を利用することはするまい。

私は図書館を「買わない本屋」と同じように考えているので
本屋で勉強をしないのと同様、長々自習を決め込んだことはない。

しかし周囲のみんなは「図書館に勉強しに行く」という。
実際そこは一部の人々にとって快適で勉強が進む場所らしい。
それは私が小学生のころから、当たり前に行われていることだった。

だがその子供のころから「図書館=勉強するところ」という考え方には
私は反発を感じてきた。
もちろん図書館の資料を利用して勉強するならそれは理にかなっているが
だがしかし、自分の本を持っていって勉強するだけなら、
図書館という名前はいらない。
大学や自治体が予算をとって小さな会議にかけて選択し
買って貯め込んだたくさんの本は、
持ち込み自習者にはまったく無意味である。

自分の部屋もなく、勉強のできない環境の人々が
図書館に集い、一生懸命に勉強したというなら
それはもちろん図書館としても肯定すべき行動であるし
それを否定しては公立図書館たりえないだろう。
だが今現在、たかがテレビや娯楽から逃れるために
あるいは本を傷めないためのエアーコンディショニングゆえの
快適さを求めて図書館で勉強するというのは
図書館の存在意義から見れば、本道ではなく脇道なのではないのか。
哀しいことに、図書館はいま
本道を利用するよりこの脇道利用者のほうが多いと思われる。

(20数年前、私は公立図書館に勤務していたが、
図書館は閉館前、本をカビから守り呼吸させるために
空調をきちんと整える仕事があった)

勉強場所の提供という、
日本の公立図書館のゆくたてからすれば無理のないこととはいえ、
それでも本に囲まれた状況に閲覧席が並ぶ、オープンスタイルの図書館においては
自習する側には遠慮があって当然だと思う。
ましてや、席で眠るような自習者にはとっとと出ていってほしい。


一般に開放するならそれくらいは、と投稿者は書くが
許容事項を多くすればするほど大学図書館はその意義を失う。
一般に開放しているからと中学生や小学生が来るようになれば
夏目漱石が三四郎に書いたあの大学図書館は消えるだろう。

大学図書館を一般図書館と同じとは考えて欲しくない。


『 第二の世界のうちには、苔のはえた煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。梯子をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指の垢で、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった塵がある。この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。
 第二の世界に動く人の影を見ると、たいてい不精な髭をはやしている。ある者は空を見て歩いている。ある者は俯向いて歩いている。服装(なり)は必ずきたない。生計(くらし)はきっと貧乏である。そうして晏如(あんじょ)としている。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸してはばからない。このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、火宅をのがれるから幸いである。広田先生はこの内にいる。野々宮君もこの内にいる。三四郎はこの内の空気をほぼ解しえた所にいる。出れば出られる。しかしせっかく解しかけた趣味を思いきって捨てるのも残念だ。 
     夏目漱石 三四郎 より 』



子供相手の達人

出来事から
01 /13 2012
とあるファーストフード店にて。

午後3時前、客はほとんどいない店内。

隣のスーパーマーケットで
おもちゃ入りの菓子を買ってもらったらしい幼稚園くらいの男の子と
その母親がカウンターに並んだ。
小さな男の子は先ほど買ってもらった玩具菓子を握りしめて
最初から興奮気味の様子。

店員の前にトレイが置かれ、レジが始まった。
と同時にその小さな男の子がカウンターの店員数人に向かって声高に叫んだ。
「メテオストライクっ!」

まこと微笑ましい光景であった・・・・・
関東バーション:
店員がにっこり微笑んでみせるだけ。
関西バージョン:
店員はメテオストライクに撃たれたふりをしてあげる。

と予想されるはずが、この日、店員の態度はこれらを軽く凌駕していた。

子供が「メテオストライクっ!」
と言ったら店員(大学生と思しき男子)が
「ふっ、俺はそんなんじゃやられないぜ」
と間髪いれず答えたのである。

子供「じゃ、またメテオストライクだっ!」
店員「まだまだ倒れやしないぜ」

「今度はアームストロングキックだっ!」
「甘いな、それじゃあ俺は倒せないぜ」
「じゃあねじゃあね、ライダー100億ボルトシュートだぞっ!」
「ふっふっふっ、いまのはちょっとこたえたが、まだ大丈夫だ」
「ええーっ、今度はライダードリルキック、ドリルキック、ドリルキック!」
「しまった、さすがに今のはきいた」

別の女子店員と子供の母親がレジを終えて子供は帰りを促されたが

「ねぇ、明日もいるでしょ?いるでしょ?」
と男子店員との別れが名残惜しくてたまらない様子。
「いないんだよ~わっはっは」
「えーっ、また遊ぼうよ、遊ぼうよぅ」
「またね~、毎度ありがとうございました~」

子供と母親が帰った店内、先ほどの男子店員は奥に入って出てこない。
バイト上がり直前だったのかもしれない。
同じく大学生くらいの女子店員が二人小さな声で語りあっている。
「いまのなに?」
「○○君すごいんだけど」
「あれってどういう・・・」
「彼って保母さんタイプ?」
「にしても見事だったよ、あの受け答え」
「子供にやさしいのかな」
「・・・・○○君自身が子供と言うことも」
「あ、そっちだ」

彼自身が子供だったとしても、彼の見事な受け答えは
あの子供と母親のみならず
カウンターの向こうにいた若い女子店員たちにも
高いポイントをつけられた模様であった。

私も彼に高得点を入れよう。


深夜アニメはコワイよぅ

いろいろ感じたこと
01 /15 2012
真夜中から早朝にかけてのテレビでは、
BS、DSともにマイナー局ほか複数の局でアニメーションを放送しているのだね。

再放送もあるが、深夜枠のために作られた新作もたくさんで
しかも夕方やゴールデンタイムの子供向けには厳しい内容のものも
ずいぶんと存在しているようだ。

多くのアニメファンは深夜枠のアニメを好んで見る。
きっと多くが録画して見るのだろうと思うが真夜中に起きていて見る人もいるのだろう。

私は夜中にアニメを見ることはまず無い。
よほど精神的にやられているとき真夜中に起きだしてテレビをつけ、
なんとも形容し難いあの不気味な感覚に陥った覚えはあるが
あれをしょっちゅう経験したいとは思わない。

なんだろう、心と視野と意識とが病んでしまったような世界、
健全さをあえて除去して、漠然と不安感を助長し
時間の流れを昼間とまったく変えてしまう感覚、
あそこにどっぷり自分を投入することは私にはとても出来ない。

お笑い系、明るいエッチ系、ロボット系ならいいが
人が死ぬ、殺される、呪われる系の話は夜中はだめだ。
こそっと書くが、あの時刻あの手のものを見るのは霊的にものすごくよくないと思う。
とりあえず夜は眠ろうよ。
来るよ。

真夜中のコワイ系アニメや、不条理系ドラマなどは
いろいろなよくないものをお土産において行くから、
あの手のものは出来得る限り昼間
明るい光のさす場所で、誰かとにぎやかに見る方がいい。

そういえば私がもうウン十年以上読み続けている週刊少年ジャンプでも
妖怪だの悪魔だの呪いだの殺人だのといった怪奇系ミステリー系漫画は、
夜中に放送していた気がする。
確か、一時期大いに話題になったDEATH NOTEなども真夜中のアニメでやっていたはずだ。

知らないだろうが「魔人探偵脳噛ネウロ」も真夜中だった。
あの漫画も夜でないと放送できない話だったとは思う。

ちなみに私は現在のジャンプでは「ONE PIECE」ファン。

これまでのジャンプで一番好きなのは
みなさんご存じないだろうが「新・ジャングルの王者ターちゃん」である。
最近コンビニでリミックスを見つけて以降
「世紀末リーダー伝たけし!」も面白いと思うようになった。
絵柄でわかるように、ギャグ漫画である。

かなり下品で、いまのジャンプには出せない下ネタ満載なのが特によろしいww

(残酷な漫画や絵柄は今の方が規制が緩いのかな、
殺人だのなんだのは昔のジャンプの方が描かれなかった気がするね。
これも時代なのかね)

どんな犬を飼いたいか

いろいろ感じたこと
01 /15 2012
どんな犬と暮らしたいのか考えた。

犬のしつけ番組を続けて見たせいだと思う。

昨日と今日の正午にはBSチャンネルのFOXで
「ザ・カリスマ・ドッグ・トレーナー~犬の気持ち、わかります~」を見て
さきほどは鉄腕DASHの「ダメ犬デブ犬克服スペシャル」を2時間見続けた。

そして、「いい犬」ってどういうのだろう、と思った。

アメリカでたぶん一番有名なドッグ・トレーナーの
シーザー・ミランが登場する「ザ・カリスマ~」のしつけと
先ほどの鉄腕DASHに出てきたイアン・ダンバー博士の提唱する
犬のしつけ方法との間には、とても大きな違いがあった。

どちらも人間が「怒鳴ったり」「いらついたり」するのをなだめているが
イアン・ダンバー博士が腕力に訴えるのを禁じている一方、
シーザー・ミランは犬の気持ちを変える方法として軽く蹴ってみたり、
暴れ、咬もうと歯をむき出す凶暴な犬には
効果的な程度の力で立ち向かい、コントロールしてゆく。
しかも犬は服従すると間もなく、完全にリラックスして懐く。

いったいどちらがいいのだろう。

子育てでも「子供に手を上げない」主義というのもある一方
「必要な時は叩く」という主義もある。
子供の場合「叩く」=「虐待・暴力」と簡単には決められない場合も多い。
志賀直哉の「出来事」という短編を読むがよろしい。
あるいは映画「Always・三丁目の夕日」のパート1を見るがよろしい。
親に叩かれたからと言って、
子供が親を恨んだり被害者意識を植え付けられたりするとは限らない。

もちろんこれはどう考えても
「親に深い深い愛情があってのこと」でなければならない。

犬の場合はどうだろう。

私は動物虐待に賛同するものではないが
結果的に私は「虐待だ」と言われるようなことをしている。

散歩で犬が拾い食いをしたら口に手を突っ込んで掻きだすし
あまりに強く引っ張ってくると蹴ることもある。
蹴ると言っても、シーザー・ミランのようにそっと優しくではなく
「てめぇこの野郎!」という程度にガッと蹴る。
非常に腹立たしいときは鼻先を蹴ったことさえある。
私は愚かな飼い主なのだ。

ところで飼い始めた頃、私は犬にに引き倒されたことがあった。
用水路から突然羽ばたき出た青鷺に
猟犬の血でも入っているのか、犬が突如猛烈なダッシュをかけたのである。

私は引っぱられてコンクリートの水路縁に正面から倒れ込み、
顔面および体の前面を強打した。
なおかつ犬は鳥を追おうとしたために私は犬のリードを握ったまま
ずずっと一回転させられた。

リードを離せばよかったのだと多くの人に言われたが、
リードを離してはいけないのが
市街地で犬を飼うもののルールだと信じて疑わなかったので
私は見事に血まみれになって帰ってきた。腕時計も割れた。
犬はもちろん転んでやっとこさ立ち上がった私に
相当の怒りを込めて殴られた。
あのときは5~6発やったと思う。

その犬ももう高齢犬なのでかなり大人しくなったが
若犬のころはふと止まった鳩さえ襲えるほど敏捷だったし
蛇を咬んで振り回すほど勇敢で
どぶ川に飛び込んで悠々と泳ぎ回るほど無茶をした。
他の犬と喧嘩もして相手の目を潰しかけたこともある。
(うちは耳に穴をあけられたが)

とんでもないバカ犬だと思われるだろうが人間に向かって歯をむき出したことも
唸ったことも一度もない。
(庭に放しているときには侵入者には容赦なく吠えまくるが)
動物病院での診察台にも「のぼれ」と言えばぴょんと飛び乗るし
注射の際にも決して騒がないので医者にはいつも褒められる。
去年は住宅街を見回りに来た警官から「大変いい番犬ですね」と褒められた。
(・・・・これは家庭犬としてはいいのか?)

書いていて「親ばか」みたいでだんだん恥ずかしくなってきた。

そうだ、結論が一つ出たぞ。

どんな犬を飼いたいのか。

うちの犬を飼っていたい。
血統書もない野良犬上がりのうちの子を飼いたい。
飼い主の基本ができていないから、横にツケて歩くこともできず
ずっと引っ張り癖の治らない子、
宅急便が来ると吠え、他の犬が家の近くを散歩すると吠え
セールスマンが来ると吠える、うちの子を飼いたい。

きれいだった毛並みも年を取ってつやを失い
目にも白い影が映り始めていて
ときどき前足を引きずったりもするけれど
私はうちの子を飼っていたい。

犬のおかげで家はいつも毛だらけ、服も毛だらけ、
正月さえも掃除機をかけずにはいられないけれど
うちの子を飼い続けていたい。
ずっと一緒に暮らしていたい。

お前をしつけようとか、教えこもうとかそんなことはもう考えていない。

ただ元気でいなさい。
ただただ元気でいなさい。

そうしてどうか長生きをするのだ。
長生きをするのだよ。



入試が来るたび感じていること

いろいろ感じたこと
01 /17 2012
今年のセンター試験の荒れ方、乱れ方は、ついに行くところまで行ったという感じだ。

「一生がかかっている試験なのに」という見出しを
ニュース映像でも、新聞でも散見した。
試験場のごたごたやセンター側の不手際で
力が出し切れなかった生徒さんたちには、本当に気の毒だと思っている。


本当に気の毒だと思っている・・・・が、その子たちの「一生」が
たかがセンター試験にかかっているとは
それは少々高ぶりすぎ、意識が過剰にすぎると考える。

「一生」というのは、
受験生たちには今現在から死ぬまでの期間である。
希望の大学ではなく、全然予想外の大学に通うことになったとしても
大学に行くをあきらめざるを得ずに働くことになったとしても
今現在受験生である生徒さんたちは
これから生きていく先に「恋」も「結婚」も「子供」も
「笑顔」も「愛」も「喜び」も失ったわけではないのだ。

もっとも「喜び」や「笑顔」よりも「望み通りの大学入学」のほうが
大事だと言ってはばからない人もあろう。
そういう人にはここから先を読んでいただかない方がよい。



さて「一生がかかっている」などという大仰な言い回しを使う原因は
大人が、特に教育関係者がそれを使うからだと思う。
予備校講師や高校の受験担当あたりは日々に
「君たちの一生がかかってるんだ!」と檄を飛ばしていそうである。

が、あれは職業上の方便で言っているのであって
「いい大学」に行ったら「いい一生」が送れるだなどと
いまだに本気で信じている大人は、まずいないだろう。

「努力は必ず報われる」とか
「望みは必ずかなう」とか、
根拠もないことをしゃあしゃあと掲げて
まだ右も左もわからぬ子供に、その思想を植え付ける大人が多すぎる。

受験に特化して言えば、ものすごく努力して勉強すれば、
成績は確かに上がるだろう。
受験が上首尾に終われば希望の大学に合格できる可能性も高くなる。

だが、試験直前に風邪をひく可能性はないのか。
ノロウィルスにかからない証拠はあるのか。
インフルエンザをもらわない根拠はあるのか。
運が悪ければ
ノロウィルスで上も下も噴水で大混乱になったと同時に生理が来て
下痢のせいで痔が悪化して、便だか血だか嘔吐だか、
もうなにがなんだか、という状態にだってならないとは誰が言い切れるのか。
それに去年の3月11日のような自然災害が受験の日に襲い来ることだって
絶対ないとは言い切れない。

「努力は必ず報われる」というその「必ず報われる努力」は
いったい何に向けての努力なのか。
「志望校に合格する」というその一筋の目標のための努力なのか。
いや、それはおかしい。
志望校に合格するのは、その先の豊かな人生を目的とする一歩にすぎないはずだ。

そうなのだ、「努力」して「報われる」べきものとは
近視眼的な「志望校合格」ではなく、
もっと先をおおらかに見渡したときに得られる
「納得」や「満足感」「充実感」であって然るべきなのである。

志望校を経由してのみ入ることのできる道も確かにあるだろう。
だが志望校に縁がなかったとしても、顔を上げてゆっくりと見渡せば
この先の人生に「充実」や「満足」の得られる道がちゃんとあるのに気がつく。

センター試験が上手くいかなかったからと言って
ずっしりと落ち込んで自分をかわいそうがったりしているより
ゆっくりとでよいから顔を上げて
勇気とともに天を見上げ、新しい道を見つけよう。
そこにはこれまで思っていたような線路も舗装道路もないかもしれないが
探せば美しい花も咲いているし、小鳥も隠れているだろう。

赤毛のアンがものすごい努力を積んで得た大学への進学を、
孤児であった自分を愛し育ててくれた大切な家族のために断念したとき、
アンは勇気を持って胸を張り、周囲の世界を新しい目で見た。

時は春、
日は朝(あした)、
朝(あした)は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。


ロバート・ブラウニング「春の朝(あした)」
 上田敏訳


Pippa's Song 
         Robert Browning                                                     
The year's at the spring 
And day's at the morn; 
Morning's at seven;
The hill‐side's dew‐pearled;
The lark's on the wing;   
The snail's on the thorn;
God's in his heaven ― 
All's right with the world!