私の夫はパンツにうるさい

出来事から
02 /03 2012
うちの夫はパンツにうるさい。

夫は最近までセミビキニブリーフ一筋であった。
彼の学生時代、街にようやくオシャレなトランクスが登場し
友人たちは次々にトランクスを購入して
彼女との楽しいデートの時に使用するなどしていたそうであるが
夫は断固「ブリーフに限る」であった。

セミビキニとはいえ、ブリーフはブリーフである。
私はオシャレで紳士な男子はスマートに素敵なトランクスを履くものだと勝手に信じていた。
びっちりとビキニブリーフを履いている男子に対して、セクシーで素敵などと思える女は
若い経験の浅い少女たちには滅多にいないのである。
(若いころはあまりに露骨で直接的で見たくなかった。今は違うぞ)

しかし夫は頑なに「ブリーフでないとだめだ!」と言い張った。
なんでも彼は学生時代流行に乗って友達同様トランクスを使ってみたのだそうだが
彼曰く、「中で動きすぎる!」。

そうかゆらゆらと不安定だから落ち着かないのか・・・・
と思ったらそれだけではなかった。
「変に擦れて感じちゃう」のが困るのだというのである。

普通に電車に乗りながら妙に欲情したり
授業中に欲情したりしたら、まだ若い青年としては困ることではあるだろう・・・が
ほかの青年たちはちゃんとトランクスを使えるのに
若き日の夫はそれが不可能なほど感じやすかったのか?

そのあたりは今もよくわからないが、
以降結婚しても私は夫にブリーフを買い続けてきた。
3年くらい前あたりだろうか、私はなにげなくボクサーブリーフを買って帰った。
普通のセミビキニブリーフを置く店が少なくなってきていたことも理由である。

夫は意外に素直にボクサーブリーフを履き
「あ、これいいわ」と言った。

あれからふた冬。

いま夫を見ると、ボクサーブリーフはセミビキニブリーフのように
へそ下にゴムが来る履かれ方をしている。
腹が出て、そのあたりに自然とゴムが下がってきてしまうのか?
と思っていたらさにあらず
わざとゴムをへそ下の高さで留めているのである。

その履き方ではもうボクサーブリーフの役目は果たしていない。
ちゃんと腰で履くトランクスよりさらに進んでいる。

擦れて感じて困っちゃっていた、かわいい夫から幾星霜
彼は今やゆるゆるぶらぶらスースーが大変お好みになっている。
いずれはふんどしに趣味を転ずる可能性さえ見えてきた。
ふんどしといってもきりっとした締め込み風ではなくて
ゆるゆるの越中、あるいはもっこふんどしと言った
スースースカスカ自由度高しと言った類に落ち着くのではなかろうか。

かように自由なものが趣味になっている夫はさらにいう。
「このパンツ夏物かな、生地が薄くて寒い」
「生地の感じがイマイチ気に入らない」


夫があまり度々これを言うので昨日ついに娘が切れた。

パンツがパンツがってうるさいなあっ!
もうパンツくらい自分で買いに行きなさいよっ!
寒けりゃ毛糸のパンツでも履いてりゃいいでしょっ!
寒いだの暑いだの緩いだのなんだの言って、
パパのパンツのことなんて知らないわよっ!



「いや、毛糸なんか履いたら蒸れちゃうだろ」
夫は小声で返したが

「履きなさいよ毛糸でもフリースでも毛皮でも、
私は知らないわよっ!」


娘の巻き返しは猛烈だった。
私は聞いていて爆笑した。
娘が言えば夫も怒らないからありがたい。


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13歳の少女

出来事から
02 /05 2012
東京都立川市羽衣町の都営住宅の一室で3日、この部屋に住む男児が死亡しているのが発見された事件で、警視庁立川署は4日、男児の首を絞めて殺害したとして、殺人の疑いで、母親の事務職員、沼田諭子容疑者(44)を逮捕した。同署によると、容疑を認めている。

 逮捕容疑は2月初旬ごろ、都営住宅8階にある自室で、布団で寝ていた長男の瑛(あき)悠(ひさ)ちゃん(5)の首を何らかの方法で圧迫して殺害したとしている。

 3日午後6時半ごろ、帰宅した中学生の長女(13)が、布団の上で仰向けに死亡している瑛悠ちゃんを発見。沼田容疑者が浴槽内で手首を切って倒れているのも見つかり、病院に搬送された。

 同署が回復を待って事情を聴いたところ、「寝ている息子の首をひもで絞めて殺した」と殺害を認めたという。「不安感が強くなった」などと供述しており、同署は動機について調べている。

ソース msnニュース


恐ろしい光景だったと思う。
5歳の弟が布団の上で殺されているのを見つけたのも
その弟を殺して自殺しようとした血まみれの母を見つけたのも
13歳の中学生の女の子だった。

母親の殺人動機「不安感が強くなった」は
発作的犯行と見えるかもしれないが
5歳の子を殺さねばならないほどの切迫した不安感が襲ってくるためには
日頃からの不安の積み重ねがあったからに違いない。

母子家庭ゆえの経済不安が原因なのか
それとも子育てによるものなのか
心に病的な兆しが存在していた可能性も考えられよう。
どちらにせよ、時は戻ってくれない。

殺された5歳の子はとても哀れだ。
殺した側の母親を思っても哀れだ。

だがこれからの人生を想像するとき、
最も厳しい重荷を背負って生きねばならないのは13歳の女の子であり、
私にはその少女が一番痛ましく感じられる。

感受性が一番強いとき、
美しいものをたくさん見て感動しなければならない時期
強く伸びやかで優しい人になれと大人が願う時期
この少女は母親に殺された弟を見つけ
いっしょに死のうとした母親を見つけて救った。

「お母さんは弟を殺した」
「お母さんは死のうとした」
「ひとりぼっちになる私を残して死のうとした」
この女の子の心を思うとどうにもたまらない気持がしてくる。
寝床に入る前にこんなニュースを聞いてしまったから
私は眠れそうにない。

この少女はいまどうしているのだろう。
おじいさんおばあさん、あるいはお父さん方の誰かでもいい
ちゃんとした責任感のある大人のもとで
精一杯守られていて欲しいと願っている。


ブログの書き方

いろいろ感じたこと
02 /07 2012
かなり痛ましい人生を歩まねばならなかった人たち
(現在歩んでいる人たち)のブログをいくつか読んでいる。

だいたいが長文日記であるが
最後まで読み飽きずに読むことが出来るだけのみならず
筆者の苦しみ痛み、心の葛藤が読み手に響いて
読後気がふさぐ場合も多々ある。

実は苦しくて辛かった経験を生々しく痛ましく書くことはたやすい。
出来事とそのときに伴った感情を、
描写できる気力と能力を神様に与えられていればいいだけなのだ。

先日ある人の非常に重たい内容のブログを読んでから
いろいろと考えた。
老人の介護にまつわる下の始末を受け持つ話である。

物故の文学作家がその人と類似の経験を
その人よりも幼いころに積み重ねてきていたことを思い出した。
ブログの筆者はその経験を「怒り」の筆致で描き
文学作家はその経験を「静けさ」で書いた。
もちろん経てきた状況が同じだろうとは思っていない。
描く側の性質も違うだろう。

だが、逃げることの許されなかった介護状況で
汚物を手で受けながら抱いた感情には
少なからぬ類似の感慨があったはずである。
ただ、そこに「ちょっと文章が出来る素人」と
「文学で身を立てよう」と定めた人との差が出来た。
後者は経てきた経験をいったん自己内部に取り込み昇華させたのである。

もちろん強く勢いを持った文章を描く道もあろうが
その作家は介護という老醜の世界に
「死にゆく者=自然と同化してゆく者」という概念を選んだ。

いったん内部に取り入れて昇華させて発表することは実にプロフェッショナルな作業である。
読ませる文章系のブログでそれを出来る人は
まだ現在のブログ世界には多くはなさそうだ。

(だが漫画やイラスト系のブログには、それが数多く存在しているから
ちょっと驚いてしまう。
漫画は実人生そのままで描いてもフツウは面白くないからか?)


ちなみに上述のブログにリンクはしていない。
(だってものすごく激しそうな人でコワイ。
こう感じるのもやっぱりブログの雰囲気がコワクて
筆者の怒りの感情が読者にあけっぴろげで近すぎるせいだろうな)

私も気をつけようっと。

迷惑電話

いろいろ感じたこと
02 /09 2012
迷惑電話検索というものがある。

自宅の電話に番号表示が出るものならばすぐにパソコン検索にかけられる。

で、先ほどかかってきたのがこの番号


「鈴木ですけど○○さんいますかっ!」
と乱暴で雑な口調でかかってきた。

(一つしかない居酒屋のトイレが使用中で
いつまでたっても空かないけれど、もうこっちは切羽詰まってるんだ
はやく出ろよ、すぐ出ろよ、出てこないとこっちが出るぞ
そこまで出てるんだぞ、ドンドンドンドン!的な声の調子とでもいうような)

うちの娘が極めて荒っぽい業界にいたら、
(893さんの業界とか歌舞伎町界隈のお水系業界とか締め切り直前の出版業界とか)
あらお友達かしら? と思うだろうが
一般普通の家庭に育ってきたら、あの口調ではにわかに友人と信じることはできなかろう。

乱暴な口調を電話で受ける場合、私の口調は非常にゆっくりで丁寧になる。
乱暴に乱暴で応えると火に油を注ぐ結果になることを
経験上よく見てきたせいである。
これは相手のリズムを壊して、勢いに乗らないための方策の一つで
わりと成功する確率が高い。
〈ただし相手が本物の893やその道系列の人の場合は
甘く見られてさらに強気に出てこられることもあるので
その際はまた別の手を考えてほしい)

それにしても、である。

迷惑電話というのは検索にかけられるほど山のようにある。
会社相手ならまだ電話も住所も簡単にわかると思うが
個人はいったいどこで名前や年齢性別を入手するのだろう。

でもこれも娘が公の社会の一員であるせいだろうなと思う。
娘あてのダイレクト便や電話は高校受験のころからひんぱんになり
成人式の2年ほど前からはほぼ毎日のようにあった。
娘がお年頃であるうちはきっと、
まだときどきおかしな電話がくるのだろう。

そういえば私個人に迷惑電話がかかってきたことはない。
この30年ほどは。
書いてびっくりしたが、30年ってものすごく長いぞ。
かくも長い期間、社会において名簿に載らない生活をしてきたということである。

迷惑電話が来ないのはありがたいが、ちょっと、
ほんとにちょこっとだけ複雑な気がした。

褒めること、自信を持つこと

いろいろ感じたこと
02 /12 2012
褒められたことがあまりないのでうれしいです、
というお言葉を、私はこのネットの中でよくいただく。

私にはこの「褒められたことがない」という言葉が不思議で仕方がない。
「褒めるに値しない」人に対して賛辞を呈するものがいないならわかるが
「この人すごいよ、かっこいいよ、立派だよ、真似できないよ!」
といわれて当然の人が「褒められ慣れていない」という。

最初に断っておくが、私は「褒めて育てる」派ではない。
私は子育てに際しては「褒めることも」「怒ることも」
その分量や分配をまったく意図せずに、その折々の状況によって無考えに行ってきた。
なので抱きしめてキスして歓喜の涙を流して「もう大好き、最高の娘っ!」と
やることもあれば
靴べらを玄関まで娘自身に取りに行かせて
その靴べらで娘の腕を怒声とともに10回叩いたこともある。
(叩きながら私は泣き出してしまい、娘も泣いて、
最後にわんわん抱き合っていた、要するに馬鹿っぽい)

しかしネット社会では
他者に対するプラスの感情だけはストレートに思い切り大きくする一方
他者へのマイナスの感情の吐露は出来る限り穏便にと心がけてきた。
ネットマナーというものが存在するからである。

私がひと様を褒めるのは「おべんちゃら」ではない。
「いい!」と思えば「すてき~~~」と言ってしまう性質そのままなのだ。
私が「いい!」と思うことが果たして特殊かというと
それはさにあらず、多くの人が「いい!」と感じていると思う。
(もちろん私の趣味に偏りがあることは否定しないが)

なのに「いい! いい! すごい! 立派! 尊敬!」などと
賛辞の言葉を書き込む人は非常に少ない。
これは国民性なのだろうか。

日本人の若者は就職の面接で長所を5つ上げて下さいと言われても
ふたつも言えないらしいが
欧米の若者は5つどころかもっと簡単にすらすら言ってのける。

「私はすごく妹思いです!」とか
「私の作るチョコレートケーキは絶品です!」とか
「○○という作品についてなら余裕で3時間語れます!」とか

そんな「就職面接になんか関係ありますか?」的な返答さえも
堂々と自分のセールスポイントに加えてしまうのだから大したものであろう。

これは親が子育てに際して賛辞の言葉を惜しまなかった証明だと思う。

もちろん言われ過ぎて自信過剰になるおバカさんもいるだろうが
自信を持てないでいじけて小さく固まっているよりは
明るくて快活なだけまだましだ。
(少なくとも人生のとらえ方は明るくなるだろう)

なんの特技も自慢もなくても自信を持ってよい。
みんなそれぞれ絶対に素敵なところ、素晴らしいところがある。

自信がないなら愛されていることに気づけばよい。
愛される者は自信を与えられる。

預言者イザヤが書いたイザヤ書43章4節にはこう言う言葉がある。
預言者とは予言をする人ではなく神様からの言葉を預かって語る人のことである。
神様はイザヤにこう語れと伝えた。

「私の目には、あなたは高価で尊い。
わたしは、あなたを愛している。」

この世に存在するすべての人に向けて語られた言葉である。
神様が愛していると告白しているのだ。
自信を持とう。
私たちにはその存在に価値がある。



犬の聖歌

出来事から
02 /14 2012
ホィットニー・ヒューストンが突如亡くなり
テレビでやたらに「Always loves you 」が流れるのだが、
あの朗々とした「えんだぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」あたりになると
どうしても画面の奥から、チンパンジーのパンくんが
ゆっさゆっさ体を揺らしながらこっちに向かって走ってくるのが見えるのであった。

これはどうも私だけのことかと思ってツィッターで見てみると
私以外にも存在してくれたので、ちょっとうれしくなった。

で、なんとはなしに「パンくん」を検索にかけてみたら
「パンくん吐血」などという物騒なところにたどりつき
驚いて飛んだら、朝の一発目から、
虐待されて保護されて、死んでしまったとても悲しいわんこの話であった。

そこからまた飛んだあるサイトに載っていた文章が、心に響いてきたのでここに揚げておく。
犬の十戒(じゅっかい、ではなくじっかい、と読むこと)はよく知られているが
この「犬の聖歌」は初めて読んだ。


この世の中では親友でさえ、あなたを裏切り、敵となる事がある。
愛情をかけて育てた我が子も深い親の愛を
すっかり忘れてしまうかもしれない。
あなたが心から信頼してる最も身近な愛する人も
その忠節を 翻すかもしれない。

富はいつか失われるかもしれない。
最も必要とする時に、あなたの手にあるとは限らない。
名声はたった一つの思慮に欠けた行為によって
瞬時に地に堕ちてしまうこともあるでしょう。

成功に輝いてるときは、ひざまずいて敬ってくれたものが
失敗の暗雲があなたの頭上をくもらせた途端に
豹変し、悪意の石つぶてを投げつけるかもしれない。

こんな利己的な世の中で決して裏切らない恩知らずでも不誠実でもない
絶対不変の唯一の友はあなたの犬なのです。

あなたの犬は、富める時も貧しき時も健やかなる時も病める時も
常にあなたを助ける。
冷たい風が吹きつけ、雪が激しく降る時も
主人のそばならば冷たい土の上で眠るだろう。
与えるべき食物が何一つなくても、手を差し伸べれば
キスしてくれ世間の荒波にもまれた傷や痛手を優しく舐めてくれるだろう。
犬は貧しい民の眠りを、まるで王子の眠りのごとく守ってくれる。

友が一人残らずあなたを見捨て立ち去っても、犬は見捨てはしない。
富を失い名誉が地に堕ちても、犬はあたかも日々天空を旅する
太陽のごとく、変わることなくあなたを愛する。

たとえ運命の力で友も住む家もない地の果てへ追いやられても
忠実な犬は共にある事以外何も望まず、あなたを危険から守り敵と戦う。

すべての終わりがきて、死があなたを抱き取り骸が冷たい土の下に葬られる時
人々が立ち去った墓の傍らには、前脚の間に頭を垂れた気高い犬がいる。
その目は悲しみにくもりながらも、油断なく辺りを見まわし
死者に対してさえも、忠実さと真実に満ちているのです。


(作者について
19世紀、アメリカ合衆国ミズーリ州で起きた、ある犬の射殺事件をめぐる裁判において、
上院議員ジョージ・ベストが行った弁護論の一部)

           
          犬の聖歌
         http://www5.ocn.ne.jp/~select/sacred_song.html
注:BGMにアメージング・グレイスが流れてます。
(なんでアメージング・グレイス?イメージで選曲されたんでしょうね。ぶつぶつ)

この聖歌読むだけで泣けて来る人がいたら、もう、犬友達だかんね。うわ~ん


         

ぶゥ、という気分

出来事から
02 /16 2012
昨日今日と、少し手間なことがあり、面倒な気分である。

ひとつめは佐川急便の遅配達。

楽天市場で品物を買い、14日に出荷したとのメールがあった。
佐川急便の荷物番号が明記されていた。
佐川急便のサイトで荷物が今どの辺に来ているのか調べてみると
昨日15日の昼には私の地域の営業所に届き、現在配達中になっていた。

ならばもうすぐ届くのかと、その後は家で待っていたが荷物は届かない。
遅いときには夜の9時近くまで配達していることもあるので
大人しく待ってみたが、やはり届かない。

夜10時、地元の佐川急便営業所に電話をすると
すでに電話は「明日おかけください」と音声案内になっていた。
そしてその30分後に、佐川のサイトで荷物の行方を見ると
配達中だったものが「お預かりしています」に変わっていた。

これはつまり、荷物が地方から地元の営業所に届いて
配達員がそのトラックに載せて半日ぐるぐる仕事して回った揚句に
うちに届けるべき荷物を営業所に戻したということになるわけだ。
いったいなんなのだ、これは?

と、いうことで今朝9時、昨夜の佐川急便営業所に電話を入れた。
サイトではすでに荷物は配達中に変わっている。
いつ届くのか、昨日はなぜ届かなかったのか、と二つの質問をしただけなのに
電話に出た係りの応答は少しもはっきりしない。
「係りの者に聞いて連絡します」としか言わない。

思わず聞いてしまった。
「あなたはどういう係りなのですか?」
「はい、カスタマーサービスです」

何度聞いても「係りの者に」としか言わないカスタマーサービス(!)なので大概ブチ切れた。
「いつ届くか聞いてるんですよっ!」

電話に怒鳴ったのは非常に久しぶりだった。
受話器を握る手が怒りなのか震え、心臓がどきどきした。
死んだ父が、よく受話器を握って何時間も怒鳴っていたあの姿が
脳裏に浮かんで浮かんで、自分自身がそれに重なる。
ああはなりたくなかったのに、いまそれと同じことをしている自分がいる。

一度気持ちを怒りに任せてしまうと、自我のコントロールが難しくなり
感情が揺らぎやすくなって不愉快である。
怒ってどうなることでもない、なにより怒りは醜い。

たかが荷物ひとつで人心を奪われ制御不能にされるなど
まともな人間としては恥ずべき状況である。
原因は佐川急便にあるとはいえ、わざわざ事を荒立てて
自己の感情を煽ってしまったのは私自身が悪い。
ちょっと自己嫌悪である。

怒りに任せた電話を切った後、10分ほどで営業所の責任あるらしき人から電話があり
謝罪の言葉を受け、事情を聞いた。
荷物は私の家方面ではない車に間違って載せられ、私とは縁のない担当の地域を仕事して回り
そのまま営業所に戻っていったのだという。
「それに関して電話連絡もしなかったのは私どもの指導責任です」と謝られた。
パートでもアルバイトでもない、正社員がやったことだという。
飛脚も良くなったと思っていたのだが、
これからは出来るだけクロネコを使おう。

荷物は結局その一時間半後、届いた。
配達員は「すみませんでした」と2回言って帰った。

さてもうひとつの手間は先ほど来たニッセイのおばさんである。

ニッセイのおばさんは2週間ほど前にも来て、母の生命保険の確認をやっていたはずだが
「やっぱり代筆でなくお母様の自署がいただきたいので」
とやってきた。

施設に入っている母の自署を取りに行くのは私の仕事である。
まぁ、なんとかいまは自分の名前くらい書けるだろうから
私が面倒くさいのさえ我慢すればよい。

だが認知症状が進めば母は自分の名前が書けなくなるかもしれないし
脳の状況によっては筆跡が変わる可能性もある。

それを自署自署と毎年迫られると思うとひどく負担な感じがした。
「書けなくなったらどうするのか」と問うと
アドバイザーとニッセイのおばさんと私と母と4人で会って
いろいろな手続きを踏むのだそうだ。

世の中寝たきりになって字が書けなくなったご老人はたくさんいるだろうに
そういう人たちにも毎年「自署」を求めるのだろうか。
また、療養病棟には入れない本物の病人でかつ老人である場合は
2カ月ごとに転院を繰り返し、どんどん地方に飛ばされていくが
それでも自署を取りに行ったり、
アドバイザーを連れて会いに行ったりしないといけなくなるのか。

なんと面倒でややこしいのだ。
支払いは毎月当然のように引き落としていくくせに。
どうにも矛盾だらけである。

ああ面倒くさい。
おまけに寒い。ぶゥ

ホーソーンの「緋文字」に関するものすごく長い私見:第1回

読んだ本の感想
02 /19 2012
題名の通りなので、興味の無い方はお読みにならない方がよろしい。
小説に関する考察であるが一般受けしない内容である(そこはすごく自信がある)。

まずこの小説はいわゆる「文学」の系統に属するものであること
さらに、ドストエフスキーほどではないけれども宗教色が極めて強いこと。

この二点を書いただけで、きびすを返す方々のクリック音が聞こえる。

それも仕方がないのだ、実は「宗教色が強い」どころか
「緋文字」のテーマは「ピューリタン(清教徒)社会における律法主義(の過ち)」と
プロテスタントの根幹をなす「神の赦し(の厳粛)」なのである。

ああ、さらに「また今度ふつうの記事のときね~」と去っていく方々が見える。

一人ぼっちでもよい。
これは書くと決めていたのだ、だから書く。
でも内容が大きすぎて頭が痛い。
でも書く、たった一人最後まで読んでくれる人がいることを知っているので書く。

これは1月12日の日記の続き、というか本論である。

ライン

姦通という言葉が当たり前のように「不倫」に言い換えられて久しい。
それはいみじくも「姦通」に対する世間の評価と同一であろう。
「姦通」あるいは「姦通罪(1947年廃止)」のインパクトは
「不倫」よりもはるかに強く、その意味は直接的で重く、生々しい。

この小説の描く時代は17世紀、
舞台はアメリカでもっとも古い地域であるニューイングランド。
その地域に生活する人たちは祖国イギリスとその祖国の命ずる宗教(イギリス国教会)から逃れ
ピューリタン(清教徒)の新たな国を建てるべく、はるか海を越えてやってきた。

物語は、既婚ながら夫が行方不明とされていた若く美しい女性、ヘスター・プリンが
「父親のわからない」赤子を抱きしめて晒し台に立たされている姿から始まる。
ヘスターの服の胸には姦通罪つまり「Adultery」の頭文字「A」の緋色の文字が縫い付けられている。
彼女はこれを一生涯胸につけて生きていかねばならないという判決を受けたのだ。

ヘスターは晒し台の上でどんなに責められようとも「子供の父親」の名を口にしない。
最も精神的で高潔、ずば抜けた存在とされる若い牧師ディムズデールが
その力と霊の限りに震える声を持って命がけで迫っても、ヘスターは口を閉ざした。

晒し台の上に立つヘスターを遠巻きから眺めていた初老の男がここに登場するが
これがヘスターの元夫、チリングワースであった。

物語の主要人物はこの3人。
ヘスター、ディムズデール牧師、老医師チリングワース(本名はプリン氏)である。

私がここに書きたい内容には、チリングワースはほぼ出てこないので
ここでざっとこのヘスターの元夫、復讐の悪魔となった本名プリン氏である
老チリングワースについて書いておこう。

お察しはついているだろうが、ヘスターが産んだのは、
この高潔きわまるとされるディムズデール牧師の子供である。
牧師は罪の意識にボロボロになるほど苦しんでやつれてゆくが
そこにチリングワースと名乗る医師があらわれ牧師と同居して治療をすることになる。
牧師が罪の意識に負けてゆくのを、
チリングワースは復讐の喜びの中で常に観察する。
高潔な牧師が神を捨て、悪魔に魂を明け渡すのを待っているのである。

と、ざっと書けばなかなかに面白そうなミステリー仕立てになるのであるが
私には、チリングワースは読者サービスのためのキャラクターとして作られたように思える。
チリングワースの登場と役回りがあまりに戯曲的なのだ。
彼がヘスターの前で復讐を誓う場面で私は
あまりの劇的な面白さに山手線をひと駅乗り過ごしたのであるが
それはこの極めて真剣でまじめな物語に、シェークスピアの芝居に出てくるような悪役が突如現れて
意表を突かれてしまったからである。
作者ホーソーンの書く小説はほとんど全部「暗い題材」ばかりだそうであるが
それが後述の彼の出自を理由とするものであるにせよ
このチリングワースという人物の創作のテクニックを見るに
ホーソーンは悲劇の中にも「作家の愉快」を持ちこむことの出来る人だったのではないか。
私はその作家の作戦に乗せられ、西日暮里駅で降り損ねたのである。

が、こんな適当な私の見方はどうでもいいので本論に戻ろう。

ライン

生まれてきた女の子パールも重要な人物である。
パールは輝く妖精のように美しく、媚びない自由な魂を持っているが
母へスターは娘パールを深く愛しながらも
娘のその性質に暗く奔放な特性を見つけはしないかと、つねに怯えと言い知れぬ恐怖を抱いている。
太陽を浴びるパールの美しい姿を見てなお、へスターの心に日差しは入り込んでは来ない。
『彼女は自分の行為が悪であることを承知していたので、その結果が善でありうるという信念を持ち得なかったのである。』

へスターは最愛のわが子を見ているときすら
当たり前の母たちのように心平らかに休まることがなかった。
(実際、パールは母以外の人間とほとんど言葉も交わさぬままに
7歳まで過ごした少女であるせいか、少々我が強く、変わっている)

それにしても、である。
罪を犯した者からは罪のものが生まれるというのは、少々異教的すぎる考えではなかろうか。
いわゆる仏教用語の「自業自得」「因果応報」と言っても過言ではない。

新約聖書の最初にあるマタイの福音書を読むと
まずイエス・キリストの系図としてたくさんの名前が登場するのであるが
その名の中にいくつもの罪人の名が混じっているのは
現代の普通のクリスチャンならば知っていることである。
(遊女や姦通妻の名はもちろんあるし、ダビデ王でさえもが部下の妻を奪った挙句に、
その部下を激戦地に赴かせて殺したという、とんでもない罪を犯した。
それらの罪人の混じった血筋に神の子イエス・キリストが生まれてくる)

これはひとえにヘスターが最初から物語の最後近くまで
神を理解できなかったということの表れであろうか。
神は悪の中からも善を生み出すことが出来る、
言い換えれば神は悔い改めによって罪を赦し、悪を善となすことが出来る。
上述のキリストの系図の罪人たちも悔い改めをして許され、
その罪の代価を痛ましい形で払っている。
おや、もはやこの言葉を書くと「緋文字」の大テーマを語ったようなものである。

もっともヘスターの、娘の中の闇への恐れに関しては、作者ホーソーンの血筋に関しても書かざるを得ない。
ホーソーンの父方にはクェーカー教徒の迫害を行った者や、
セイラムの魔女狩りで有名な判事がおり、
母方には近親相姦を暴かれて迫害された親族などがある。
世間的には「血塗られた」あるいは「呪われた」とさえ言われかねない家系、
そこから生まれ出て育った認識が、ホーソーン自身にはどう影響したのかわからないが
彼の母がヘスター・プリンのごとく、
子供の内部に闇が受け継がれていることを怖れていたのかもしれない。


ライン

さていよいよ核心に迫ろう…と思ったが
ずいぶん長くなったので続きは次回。
ああ疲れた。

一人を除くと誰も読んでくれないだろうが、その一人のためにも続く予定 


濃すぎる宗教色と超長い「緋文字」の私見、第2回(了)

読んだ本の感想
02 /22 2012
ええと、この記事を最初に書いたのは昨日の夜(21日)なので
これは21日付で投稿するけれども(読む人も少ないしね)
今は22日夜、先ほどザ・ベストハウス1,2,3で悪魔払い特集を見ていたところである。

はっきり言うが悪魔はいる。
ただ、テレビで安いエクソシストが見せた「安い悪魔払い」もどきで
出て行くような「安い堕天使ルシファー」なんかは普通にいないと思う。

鉛筆あかライン

さてと、前回の続きを書くのであるが、すでに題名だけでまわれ右なさった方々が見える。
(賢明な方々だ・・・・)

前回書いた
『彼女は自分の行為が悪であることを承知していたので、その結果が善でありうるという信念を持ち得なかったのである。』
という本書からの引用文を読んで、今日ふと気がついた。
へスターはつまり神が悪から善をもたらすことが出来る方だということを
知識としては知っていた「けれども」
必ずしも信じることが出来なかった、というのである。

これはなかなか重要なポイントだ。
「知識として」知っていることと「信じること」は、まったく別物だからである。
イギリスから渡ってきた多くのピューリタン(清教徒)の一人であるヘスターに
「信仰心」がないなどと言うつもりはないのだが
少なくとも、彼女の信仰心は「疑いをもたない」までには成熟成長していなかったのだ。

ところで当時のピューリタンたちの信仰は「厳格」と「律法主義」に代表されるものであった。
信仰のために国を捨てて海を渡り、不毛の大地を一から耕していく力と団結のためにも
ピューリタンには律法による方向付けや守護が必要であったのだろうし
完璧さを求めて律法主義に陥ったのかもしれない。
だが長くなるのでこれは少しホッとしながら割愛して…と。

鉛筆あかライン

本書に出てくる「姦通罪」は
「いつまでたっても時効がなく、つねに有効でありつづける清教徒の法廷が下す判決」
としてヘスター・プリンを戦慄せしめた。
これはピューリタンの厳格性とその律法主義そのものを表しているのだが、
律法主義の代表格と言えば聖書に登場するパリサイ人が思い浮かぶ。
そしてそのパリサイ人を忌み嫌うのがイエス・キリストである。

イエス・キリストがなぜパリサイ人を嫌ったのかといえば、これは大変明瞭だ。
パリサイ人は断固たる意思で律法を徹底的に厳守するが
法の遵守はすべてが「外面的な行動・行為」なのである。
神による律法がなぜそう作られたのかその理由を忘れて、
ただ形式的に律法を守るその弊害はあまりにも大きい。
「律法で悪いというなら悪」、
そこには愛も寛容も受け入れる余地がないのである。

実は律法主義は現在も陥りやすい罠である。
たとえばホームレスさんがぼろぼろの服で教会に来た時に
「教会に来るべき服装ではない」と言って追い払うようなものなのだ。
寒さをしのぐために、あるいはお腹がすいて助けを求めてきていても
平然と追い返せる教会が、クリスチャンが、今もうじゃうじゃ存在するのである。

脱線はやめて
もっとも重要な人物なディムズデール牧師について話をはじめよう。

牧師の説教にもいろいろあるが、無知な私たち一般大衆の心に最も響いてくる種類の一つに
牧師自身が「私こそ罪人の中の罪人です」と告白するものがある。
ディムズデール牧師もたびたびそれを使った。
『あなた方が尊敬し信用してやまない、あなた方の牧師であるこの私は、腐りきった嘘つきなのです』

牧師は血を吐く思いで真実の心の叫びを告白しているわけだが、
罪である行為そのものは告白していない。
しかし聴衆は「ああなんと潔白な!」「なんと高潔な魂か!」と感動するばかりである。
しかも牧師は一般聴衆の心がかように動き、
さらに自分の名声と評判を高めることさえ知っている。
牧師は真実の半分のみを告白して、さらなる偽善者となりゆく己を憎悪する。

鉛筆あかライン

牧師はこの物語の当初、ヘスターが晒し台に立った時に懇願した。
『あなたとともに罪を犯し、あなたとともに苦しんでいる者の名を言うがよい!
その男に対するあやまったあわれみや愛情から、口をつぐんではなりません。
いいですか、ヘスター、その男が、高い場所から下りてきて、
その罪の壇上で、あなたの横に立つことになっても、
やましい心を隠して生き続けるよりは、よほどよいはずなのです。
あなたが黙っていることで、あなたが男にしてやれることと言えば、
男をそそのかして--いや、いわば強制して--罪に偽善を加えさせるばかりで、
ほかに何ができると言うのですか?』


牧師はこのヘスターの判決の日に、自己の罪をも晒されることを、半ば待っていたのである。
しかしヘスターは断固口を閉ざした。

牧師はそれを受け入れた、受け入れるよりなかった。
己の罪を隠したままで聖職にありつづけ、人々を正しく導く役目を持ち続けるという
完全に矛盾した状態で生きることを。

ヘスターの黙秘は間違いなく牧師への愛からであろう。
しかし牧師はヘスターの愛によってさらなる刑罰の重荷を背負った。
それにまったく気付いていないヘスターは
森のなかでふたりきりになったとき、牧師に言う。
『あなたは深く厳しい懺悔をなさってこられました。
すでに遠い昔に、あなたの罪は消滅しているのです。
あなたの現在の生き方は他人の目に映るのと同じように神聖そのものです。
この世での善行によって裏づけられ、証拠だてられている悔い改めに、なぜ実がないのですか? 
悔い改めることによって、なぜ心に平安がもたらされないのですか?』


ヘスター自身がAの文字を胸に付けて以来、日々に善行を積み重ねてきたのである。
貧しい人に施し、病む人を看病し、考え得る限りの善を為し
人に仕えることで神の許しを得、心の平安を得ようとしていたのである。

しかしながら神のしもべとして選ばれて牧師になったディムズデールは
「善行」は「罪をあがなったことにはならない」のを厳しく知っているのである。
ここにプロテスタントの神に対する人間の在り方が示される。
唯一の「悔い改め」とは世間や人間に対する奉仕や犠牲的行為ではなく
ただひたすら神の前にすべてを投げ出し告白し、許しを請うことなのである。

紆余曲折、三者三様の内面の画策、戦いがあった後、ついに結末が訪れた。

ディムズデール牧師は自ら裸の胸を晒して衆目の前で自分の姦通を告白する。
その胸には罪の文字「A」が存在していた。
神が与えた激烈な試練を経てついに、とでもいうべきか、
その凄絶な羞恥と苦痛に自己を貶めながらも、ディムズデール牧師は
「為すべきことを為した」勝利と安堵のなか、こと切れる。

鉛筆あかライン

「悔い改め」とか「神の赦し」という言葉は日本人でも知っている人は少なくない。
ディムズデール牧師はもちろん自分の姦通を後悔していて、二度としなかっただろう。
そして当然ながらイエス・キリストを信じていた。
ならば「神の赦し」は与えられていただろうと思う人も多かろう。
ヘスターもそう思っていたはずである。
けれども苦しみを背負ったまま牧師は惨めな最期を遂げたかに見える。

だが、ここにプロテスタントの考える「神の赦しの厳粛」がある。
そしてそれは、まことに正当な論理である。
牧師は人間の目には惨めな終わり方をしたが、上にも書いたように
勝利とともに人生を終えているのだ。
ディムズデール牧師の最後の行為こそが「神のみこころにかなう」ものなのである。
牧師は最後に自ら罪を隠しだてなく投げ出した。
人間の目から見てのハッピーエンドとは程遠いこの結末が
神の望む結末であって、こえによって牧師は天国へと行ける切符をゲットしたのである。

ここでこの悲しい最期すらも「勝利」であるという考え方の理由を述べよう。
神様は罪をお赦しになるが、私たちが犯した罪を刈り取ることも求められるのである。
私たちは犯した罪を刈り取ってこそ、完全な赦し、無罪放免
天国に至ることが出来る。
ディムズデール牧師が、その罪のために徹底的に弱らされ苦しまされ
最期にその罪を自らが刈り取ったように。


だからさ「神を信じるおいらの罪は許された」なんてうそぶいてても
ほんとの意味で無罪放免じゃないってこと。
けっこう厳しいでしょ、これ。
このプロテスタント考え方、意外に現実的だと思う。
「人を殺したけどイエス・キリストを信じた。悔い改めた。神に赦された」
としてもリアル世界でこの人は罪を償わなきゃならないわけなのだ。
イエス・キリストと並んで処刑された強盗の一人が
「あなたを信じます」と直接(!)イエス様に告白して赦されたけど
結局すぐ処刑されたのと同じ。

まぁそうそう都合よく「神の赦し」を解釈しないほうがよいな。
「神は侮られる方ではない」と聖書にもある。

超長くなったが、そろそろ半分くらいは書けた気がするので終えようと思う。
もうでろでろだ。疲れた。
お~しまいっと。

無計画ちゃん

出来事から
02 /22 2012
4月からは大学3年生になる娘や友達は、
この春休みがのんびり出来る最後の休みになる・・・・とばかりに
いろいろと旅行の約束を交わしたようである。

いくつかの旅行の約束をしたのは期末試験も終えた1月終り頃だったそうだ。

娘は数名での北海道旅行の計画を立て、自らがまとめ役になっている。
他人様の金の絡むことなので親としては多少心配だが、口を出さずにいる。

もうひとつスノーボードをしに行く予定があるのだが、そっちは娘が幹事ではない。

それは2月の22日から行く予定になっているのだが
(つまり今日だ!!!)
約束から3週間過ぎても旅行の幹事から連絡が来なかったので
娘も「これは流れた」と思っていた。

それが一昨日、突然連絡が来たのである。
22日に部活の送迎会参加の予定を入れてしまっていた娘は悩んだ挙句に
旅行をとって、送迎会をキャンセルした。

まったくどういう幹事なんだ、ちょっと無責任じゃないか
隣町に遊びに行くわけじゃないんだぞ、振り回される側の身にもなれよ・・・・と
私は密かに怒っていたが、娘はさして怒っている様子もない。

「あんたがいいならそれでいいよ」と私はその日は耐えて黙った。

が娘もアホであるのが昨夜遅く判明した。

集合は今朝の6時10分、新宿駅西口からちょっと行ったところだと聞いた。

「で何時に家を出るの?」
娘は普通に「5時10分の始発だよ」と答えた。

「ご、ご、ごじじゅっぷんってぇ!」
娘はけろっとしている、気付かないのだ、考えが及ばないのだ。
地元駅から新宿まで最速でも2時間かかるということを!

私は鉄砲水のようにブチ切れて娘を詰問した。

疾きこと風の如く、(江戸弁巻き舌超早口で猛烈に)
徐かなること林の如し(顔色は青く、体が静かに震えさえして)
侵略すること火の如く(約束の時点から連絡まで、なにからなにまで)
動かざること山の如し(こうなりゃ徹底的にケリつけてやるわよ!)

娘は問題点にようやく気付き、にわかに焦り始めた。

路線情報だの時刻表だの、なにをどう頑張って調べようとも
地元5時10分発の一番電車では新宿6時10分着は不可能なのである。

ああ、旅行の幹事もアホで未熟で考えなしの無計画のだらしない責任感の無い
とんでもないバカだけれども

娘も相当これまたどうにも結構な確率でかなりあんぽんたんで
イカレヒョウタンのすっとこどっこいのアッチョンブリケなのだ!

せめて途中までパパに送ってもらうしかなかろうと
娘は風呂に入っている夫に頼みに行った。
夫の答えは「えええっ、いやだよー」。

じゃあもうしょうがない、幹事の家にこれから泊りに行け!
と私は命令した。
しかしこの幹事との連絡がまたなかなかとれない。

ああ、もうこんなことをしている間に時間が遅くなるではないか、
もう仕方ない、東京の親戚の家に泊まりに行け!
向こうについたら迎えに来てもらうよう電話しろ!

やいのやいのと言っていると夫が風呂から出てきて
「いや~きっともう電車とまってるよ」とへろへろ言った。
いや、まだ10時ならいくら田舎でも電車くらい動いている。

どうやら親戚に頼まれるのが夫は癪に障るらしい。
親戚というのが、私の姉の家で、そこには非常に心やさしく穏やかな
こういう時にすごく頼りになる上に長身の、ジェントルマンな義理の兄がいるのである。
夫は、この義理の兄に敵愾心でも持っているのか、
(持っているならたまにはもっと紳士になるべきだ)
東京の或る駅までなら送っていくと言った。

娘は「パパありがとう~」と夫の首っ玉に抱きついて、
数年ぶりの「ほっぺにチュウ」をしていた。
まったく親とはありがたいものだ。
夫なんか親の半分ともう半分くらいしかありがたくない。

朝の4時に出るというので私は3時半前にはふたりを起こす役目を
ありがたくも仰せつかって腹立たしい。
あと1時間半後である。

私はたぶん、今夜は寝ない。
2時間後には娘と夫を送り出し、それから3時間寝てやる。
本当は6時間くらい寝たいが、朝は新聞や布のごみの収集日、
このごみ品目は月に一度なのでさぼれないのである。

旅行ってのはもっと計画的に、時間や日取りも全部考えて決めるものだ!
まったくもうっ!
成長してくれ無計画ちゃんたち!