争うよりは意気地なしになろう

いろいろ感じたこと
03 /01 2012
ここでブログを書き始めてそろそろ1年になるのか。

1年前と今とでは、ブログに対する自分の考え方が少し変化した。

去年の10月にブログのランキングを抜けた際は
周囲からの批判が鬱陶しいので辞めたつもりだったが
ふと自分の「意気地なし加減」に情けなさを感じることもあった。

だが先月、ブログのランキング上位での激しい諍いを見てからというもの
それが邪に対する正であろうとも
愛するものを守るための剣であろうとも、
争うこと、闘うことの醸し出すオーラとは
決してプラスのものではないことをつくづくと知った。

売られたケンカなら仕方がなかろう・・・・と
ある人々は言うかもしれない。
そうだ、なにも落ち度がないのに、
一方的に言いがかりをつけてくる連中は確かにいる。
いましも、そこに存在している。

それでも、私は出来得る限りケンカや言い争いをしたくない。
私側にどんな真実や正義があろうとも
争いの中には完全な正義などあり得ない。

私は争いに関しては、臆病で意気地なしで行きたいと願う。

こう書くのは、実は私はただ一度、徹底的な覚悟で
全身全霊で闘いの渦に自ら飛び込んだことがあるからだ。
それは裁判という形でのことである。

私はそのとき、なにが何でも勝つと決めた。
結局相手は私の執念深さと怒りの大きさを恐れて和解を求めてきた。
あのときの私は化け物だ。

ネットの中であろうとも、人と争うのは好まない。
私はもう二度と化け物にはなりたくない。
化け物になるくらいならば意気地なしになろうと思う。

いまは去年の10月に、ブログ村をやめたことを本心からよかったと思える。
意気地なしでよかった。
罵倒や言い争いを生み出さなくてよかった。


    
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ひなまつり

出来事から
03 /03 2012
ひなまつり。
娘が小さなころから、この日は毎年ちらし寿司を作ってきた。
絹さやや三つ葉の明るい緑色に錦糸卵の黄色は菜の花のようで
桜でんぶのピンクはサクラソウのよう。
美しい色で飾られたちらし寿司に、いつも娘とふたり「わぁ」と声が出て
そうして「春だ!」と言葉になる。

けれども今年はちらし寿司は作らなかった。
娘は今日の夕方から真夜中までアルバイトで家にいない。
去年は昼にバイトが入って、ちらし寿司も蛤の吸い物も私が一人で作ったのだが
今年は作っても、家族そろって食べることができないから作らない。

私は家族みんなが揃って食卓につき、食事をするのが好きだ。
特になにかの行事の日、
ひなまつりでも、誕生日でも、クリスマスでも、正月でも
家族がきちんと顔を合わせてわいわいがやがや食事をしたいし
そうあるべきだと考えている。

子供が小さな頃は、夫の帰宅が間に合いさえすれば
家族で夕食をするのは普通に可能だった。
しかし、中学生あたりから、塾通いが始まって
子供のいない夕食を摂ることが多くなった。

夫婦二人で、あれこれと話しながら、聞きながら
食事をゆっくり食べるのは大事な時間である。
けれども、子供も加わって、にぎやかに食事をするのも
とても大切な時間である。

子供が成長して、学校だ、部活だ、アルバイトだ、旅行だと
夜に家にいないことが増えた。
これは子供の成長が正常である証で、喜ばしいことなのだろう。

それでも私は、今夜は寂しい。
1年に1度、娘と二人で腕をまくり、ちらし寿司を作る工程。
食卓の椅子に立って、うちわを持ち、
まだ熱い酢飯を、これでもかというほどに一生懸命扇いだ小さな私の娘は
バイト先の男の子と恋をしようかどうかと迷っている。

お雛様は2月の半ばにきちんと出してある。
幅60センチ奥行き50センチ高さ70センチのガラスケースの中に
5人囃子までそろった小さな5段飾りのお雛様だ。

これは娘の初節句に、私の両親がわざわざ浅草橋の問屋まで出向いて
悩みに悩んだ挙句に買い求めてくれたものだ。
(父は大きな親王飾りのお雛様を買いたかったらしいが
母が団地住まいだった私たち夫婦のために
小さくて可愛いケース入りのお雛様を選んだ)

せっかちな私の父は、70センチの高さがある箱入りのお雛様を抱えて
浅草橋から私の住む田舎町まで直行でやって来た。
20年前、父はまだお雛様いりの大きな段ボールを抱えられるほど体力があったし
母は病弱な私の体を慮って、よく娘の面倒を見にやってきてくれていた。

その父も、私が一度も訪れずにいる、都内の共同墓地に眠っている。
母の認知症は少しずつ重くなって、いまは毎晩おもらしがひどいそうだ。

小さな頃、娘はお雛様によく話しかけていた。
箱に仕舞われている長い間、お雛様はみんなで
おしゃべりをしたり、踊ったりしているのだと、小さな娘は信じていた。

「いまもきっとそうだと思ってるよ」
二十歳になった娘は普段の調子でさらりと言った。




      

Memento mori

いろいろ感じたこと
03 /07 2012
去年の3月11日以降に、ぴったりと更新が止まってしまったブログが
今もたくさん存在する。

ここを見ると、そのいくつかに飛ぶことが出来る。
(妙なゲーム絵が最初に出てくるけれどスクロールしていくと記事が出てくるからね)

これらブログを見るにつけ
多くの命が突然に終了させられた現実を思わずにいられない。

いまここに息をしている人のすべてが数分後に死んでしまう可能性だとて
皆無ではないことを、改めて知らされる。

死ぬとはそういうことなのだな。

「mortal」という英単語を最初に習ったのは高校生のときだった。
「死すべきもの」という名詞で使われていた。
たかだか高校のリーダーで、かくも哲学的な、あるいは宗教的な単語を
普通に習うのかと、妙に新鮮で、不可思議な思いにとらわれたことを覚えている。

そうか、死ぬのか。
あたりまえの事実ながら、まだ15や16の生命のはちきれんばかりの年頃の子には
「死」はただの言葉ヅラでしかなかった。
去年の震災に遭うまでは
東北の多くの子供や若者たちにとっても「死」は「言葉ヅラ」での理解しかなかっただろう。

死は年よりや、病人のものであっても、
健康な若者や、校庭で元気に遊ぶ子供らのものではなかっただろう。

しかし、死は本当はとても身近なものなのだ。

Memento mori「死を思え」と言うラテン語もよく知られている。

日本にこれに類した警句、熟語はないかと探してみたが、
私の浅い知識では見つけることが出来なかった。
「盛者必滅」とか「栄枯盛衰」とか滅びゆく必定はいくつか思いつくことが出来たが
「必ず死ぬ」という意味の語句は思い浮かばない。

あえて言えば「必死」だろうか。
必ず死ぬ、という意味で使う場合は「命がけで頑張る」意味で使うときと
イントネーションがかなり異なるように思うが、どうだろう。

「mortal」や「Memento mori」に対応する語句が日本の一般には
あまり使われないのかもしれない。

けれども死はやはり、すぐそこにいる。
死はある日突然に、盗人のようにやってくる。
そのときにあわてても、泣いても、もう遅いのだ。

でも私はきっとあわてるし、泣くし、恐怖する。
キリスト教徒は、
「終りの日がいつ来てもいいように」生きなければならないと教えられるのだが
きっと絶対無理だろう。

大地震が来る来ると、学術誌からゴシップ雑誌までまことにうるさい。
来るのだろうなと思うしかない。

私が死ぬときはころっと逝けるようにと願う。

近いうちに日本に「Memento mori」に類する新しい語句が生まれていて欲しいと思っている。
それが不可能だとしても、毎日毎日
今現在を尊び、充実させていこうと思えるかもしれないから。

5万円の使い道

出来事から
03 /08 2012
先日、義理の父が「よくやってくれているから」という
よくわからない理由でおこづかいを5万円くれた。

自分の手でお金を稼がなくなってずいぶん長くなり、
5万円ももらったのは非常に久しぶりだった。

どう使うか、すぐにその場で決めた。
決めたというより、最初からわかっていたような気がする。

もらった額が3万円なら、まるまる教会の献金に出しただろう。
これまでもたまに1万円もらったりする場合もそっくり教会の献金箱に入れていた。
今は特に復興支援関係の献金も募っているから、考えるまでもなかったと思う。

しかし5万円まるまるそっくり献金する気持ちが、今回は出てこなかった。
献金は半額の2万5千円と決めた。

その日、私はたくさんのご馳走を買い込んで帰った。
節約続きの我が家の夕食が、その夜は華やいだ。
何回「おいしい!」の声を聞いただろう。
家族がニコニコ笑いながら、豊かな食卓を囲むことは、なんと幸せなことか。

そういえば夕食のご馳走を買う前に、
ユニクロをさらに安価にしたg.u という店で私は娘に春用のスカートも買った。
たしか1990円だった。
大学生になってから、服はすべて自分で買わせていたから
久しぶりのお土産に娘はうれしそうにはしゃぎ(安物でも!)、すぐに鏡台の前に行った。

「たまには自分のものを買いなよ」と娘が言った。
考えてみたけれど、別に欲しいものがなかった。

新しくてきれいで流行に乗った服を買っても、私には着て行くところがない。
靴は現在2足あるからそれで十分である。(長靴を含めると3足)
パソコンやプリンターはまだ使えるし
ゲームソフトを買うときは入院する予定がある場合に限ると決めている。

犬のソフトゲージも買いに行った。
車に乗せる際に犬を入れておく布製のボックスのようなものだが
中型犬2匹をギュッと押し込むサイズが必要なので1万円ほどかかった。
それを買いに行く際に娘と二人でトンカツ屋に寄った。
新しい店で、いつか入りたいねと言っていたが
入ってみれば作りは「山田うどん」や「すき屋」のようなチープイメージで
お会計もお財布にやさしいものだった。
(でも家で作るトンカツと似たような味だった・・・)

なんだかんだで私の手元に残ったお金は2000円ほどになった。

一昨日、病院に行った折に、電車のなかで読む文庫を1冊買った。
残りはもう1000円少々になった。
次回病院に行く際に、また文庫を買えば、それでほぼ使いきることだろう。

欲しいものが特別ないのは、とても幸せということだと、
私は考えている。
そうして、ちょっとだけニッとしてみたりする。



アニマルセラピー

いろいろ感じたこと
03 /09 2012
犬だの猫だのといった動物を、とにかく怖がる人であった。

犬がこわいという人は多いが
私の母ほど怖れ、恐怖していた人をいまだ知らない。

たとえば母は、私のうちの庭の柵のなかに放してある犬を見るだけで
家の中にも入ることが出来なくなった。

リードにつながれた犬が、はるか50メートルも先から飼い主と歩いて来ても
母は凍りついて、必死でその場から逃げようとした。

父は鳥だのリスだのをよく買ってくる人であったが
子供のように大抵は世話をしなくなったので
仕方なしに母が面倒を見ていたのだが
母は鳥かごの外側からホースで水をかけたり
(鳥はかごの中に入ったままなのに!)
エサもかごの外からざざっと落としたりしていた。
(見殺しにするのは忍びなかったらしい)

父がたまに室内で鳥を放したりしようものなら
母は悲鳴というより、怒りのこもった野太い声で怒鳴るように絶叫し
逃げまどってテーブルの上に飛び乗ったりしたものだ。

猫を飼っている親戚の家に泊まりに行った折など
母は猫がいるなら帰ると言いだし、
哀れな猫は母が泊っている間中、車の中に閉じ込められていた。

なので、母の入居しているグループホームが元野良猫を飼い始めたときには
母がさぞや大騒ぎをするだろうと思っていた。
しかし予想に反して、母は大して騒がなかった。
「猫なんか嫌い」とただ言うだけで、その辺にあるものを投げたりはしなかった。
狂ったように棒きれを持ってきたりはしなかった。

慣れというのはすごいな、とだけ思っていたが、今日知った。

母は猫に慣れたわけではなかったのだ。
動物全般が怖かった、その感覚を失ってしまっていたのだ。

今日私は介護保険の更新手続きのために母のグループホームに行ったのだが
犬の散歩のついでにと娘が中型犬2匹を連れてついてきたのである。
以前の母なら、犬を連れて立っている娘に近づくなど考えられない行為だった。

しかし今日、母は平然と犬2匹をお供にしている娘に近づき
一向に気にすることなく普通に話していた。
怖くないのかと聞くと、
「私は犬の尻尾が嫌い」とわけのわからない返事をしたが
怯えたり凍りついたりする気配は全くない。
ホームは猫を飼っているが、犬は飼っていないので慣れているわけではなかろう。

母はいずれ、平気で猫を抱いたり、犬をなでたりするかもしれない。
小鳥を手に乗せることも出来るようになるかもしれない。
これだけは母に関しては、想像すらしたこともなかった。

認知症とはまことに不思議な病気だと思った。

   

保証された人生

いろいろ感じたこと
03 /10 2012
保証された人生、という言葉をある人が使っていた。

厚生年金や、社会保険がきちんと整えられた大きな会社に勤めて
老後の安心が出来る人生のことだと思う。
でも、そんな人生、まだあるのだろうか。

日本航空は、10年も前には大卒社会人の「入りたい企業」の上位にいたはずだ。
倒産した「そごうデパート」や「マイカル」「千代田生命」も
私の高校時代の友達が入社していたと思う。

こうしている間も、倒産していく企業は存在する。
その名前は各所に報告され、インターネットの中にさえも
今日倒産したばかりの企業を、いくつも見つけ出すことができる。

世界的な経済危機は当分収まることはないだろうし
さらに酷くなるかもしれぬ。
それでもまだ、「保証された人生」などを私たちは探し
求め続けるのだろうか。

鉛筆あかライン


仮に経済が安定していたならば、去年の大災害の復興も速やかであっただろうか。
今頃はあらゆる場所に新しい家が建っていただろうか。
がれきの処理は進んでいただろうか。

経済隆盛期ならば復興財源は確保できたかもしれない。
しかしあの19年分という量のがれき処理は、いまと同じく
「うちの県には持ってこないで」と拒絶されるだろう。
金にまかせて船で海外にでも運んでしまうだろうか?
そんなとんでもないことを、金持ち日本は考えそうで怖い。

鉛筆あかライン

今日テレビでこんな意見を見た。
「自己中心からではありません。
がれきに含まれる放射能が日本中に拡散したらいけないから
がれきを各県で処分するのには反対です。
復興支援にはがれき処理以外のこともあるはずです」

ならば問う。
宮城県ひとつにがれき処理を19年間させ続けて
土地も使えず、財源もそこにつぎ込ませて
宮城県の人々の生活は誰が支えていくというのだ。
19年間、宮城県民の生活に必要な財源を、他県が支払ってくれるのか。

「自己中心ではない」などときれいごとを言うな。
外にいる人々は絆だ、絆だときれいごとばかり言う。
人のやることはいつも矛盾だらけだ。

鉛筆あかライン

「保証された人生」には誰しも憧れる。
私だって憧れをもっている。

でも、そんなものが存在しないことはずいぶん前に知った。
倒産や経済破たん、地震や津波だけではなく、
病気だって事故だって、事件だって、人の人生を簡単に狂わせる。

私たちが切実に求めるべきは、もっと別のものだろう。

「私たちが選択することは、何が起こったか、または何が起こるかではなく、
人生の節目や状況において、どのような態度でのぞむかです。
別な言い方をすれば、人生に対して、
恨みがましい思いでかかわるか、感謝の思いでかかわるかということです。
             ヘンリ・ナウエン    」

40代の妊娠出産

いろいろ感じたこと
03 /12 2012
日本ブログ村というランキングサイトで見たのだが
40代女性が妊娠を希望して、さまざまな治療を受けていることに対して
いろいろ失礼なことを各所でお書きになる方々がおいでのようである。

40代で子供が欲しいと願うことはそんなにおかしいことなのか?

答えはただ一言、「否」。

女が「子供が欲しい」と思うのは自然な感情であって、まったく正常な思考だろう。
障害児の生まれる確率がどうのだとか、
子供が二十歳になったら親が還暦だとか、
そんな文句はわざわざ巨大掲示板に書かなくとも
妊娠をしたいと思っている40代自身が一番よくわかっているだろう、
だがそれでも子供を産みたいと決断するだけの意思があるということだ。

40代という年齢を舐めるな。
子供は産んでこなかったかもしれないが
20代や30代の女とは人生経験が違う。
40代になって子供が欲しいために行動することの覚悟の深さを舐めるな。

・・・・ところで40代の不妊治療者のブログにいろいろ文句を書きこむ人は
子供のいる人なのだろうかと疑問に思う。
子供が小学校などに入ればわかるが、小学校1年生の親御さんのなかに
50代を越した方々は数こそ少ないけれどもいらっしゃる。

私の知るそれらの方がたは上の子が既に大学生だったりしていたが
私などはむしろ「立派なお母さんだ」と思ったりした。
なぜなら40半ばを過ぎて妊娠した子供を、堕したりしなかったからだ。
実際周囲を見回すと、30代から40代なかばにかけて堕胎を経験せざるを得なかった
お母さん方が複数存在する。

経済的なことだったり、年齢的な問題だったり、体の事情だったり
堕胎の理由はさまざまであろうが
それらお母さん方は、堕胎の後大抵泣くそうだ。
生まれていれば、抱きしめられた命、
まるまる太った赤ん坊の重さも手触りも知っているお母さん方が
殺してしまった子にそれを思わないわけはなかろう。

話が少し本線から外れたので戻す。

40代女性で妊娠を希望する女はモンスターだという人がいる。
それに反論する当事者がいる。
あえて中傷発信者を呼びつけるようなブログを書く人がいる。

私は40代女性の不妊治療も妊娠希望も非難しない。
だが、不毛な舌戦や、釣りブログを書くような軽薄なことを
あえて行うような真似はやめて欲しいと思う。

妊娠出産は女性にとって、もっと大事なものであるべきだ。
間違ったことをしているわけではないのだから
もっと自信を持って、外野は徹底的に無視すればいい。
いらいらしたり、好戦的な感情のままみごもるのは
胎教にいいはずがない。

先日私の友達が赤ちゃんを産んだ。
41歳で初産だった。
25歳で流産して、以降妊娠せずに15年。
とてもかわいい赤ちゃんだ。

成人したら親は還暦だなんて、誰ひとり言わない。
ただただ、みんな喜んでいる。

    

旅行に無縁です

出来事から
03 /12 2012
先月に続き、娘が旅行に出かけた。
今回は北海道だそうだ。
2泊3日、ニセコヒルトンに止まって3万円を切るというが
いったいどういう計算でそういう金額になるのか、私には謎である。

私自身は旅行というものに、この5年以上無縁である。
夫も娘もそれぞれ旅行に出て行くが、私だけは残る。
残って犬の面倒を見ている。

どこかに旅行したいかと言われれば、実はそうでもない。
旅先でぐっすり眠れたことはないし
帰ったその日から洗濯だの風呂だの飯だのと動くのは非常に苦痛だ。
翌朝仕事だなんて私にはトンデモである。
旅行とその後に無理をすると、虚弱な私の体はたいてい音を上げて故障する。

私はある難病持ちなのであるが、同じ病気になった20代後半の女性の母親が
私にびっくりしたような眼でこう言ったことがある。
「この病気になると旅行も出来ないんですか?!」

いや、病気だって旅行は出来る。
ただ、私はもともとそんなに旅行に興味がないだけなのだ。

旅行が趣味と言う人や、旅行こそわが楽しみと言う人たちにすれば
「旅行はしません、体調が悪くなりますし」という私の言葉は
大変な不幸に聞こえるらしい。
しかも上述の同病の女性の家族の趣味が旅行だったらしいので
なんたる哀れやわが娘! と落涙しかけたのであろう。

どうも旅行というものは、その楽しみを知ると
「旅行に行けない苦しみ」が感じられるようになるらしい。
ちょっとした禁断症状、煙草や酒と同類のものなのだろうか。

きっとその様な人は、他人様の旅行ブログなどを読んでも
羨ましく思い、もしかすると嫉妬心さえ抱くのかもしれない。

そう思うと、私などは旅行の楽しみを知らない人生のままでよい。
羨望嫉妬の種など最初から持たないに限る。
井の中の蛙、市井の小市民でいるのが、私の身の丈に合っている。

それにしてもわが夫は、娘がいない夜であっても
平然と酒を飲んで、爆睡している。
夫婦も20年が過ぎると、「ふたりきりの夜」など、どうだってよくなるようだ。

ま、これもきっと私の身の丈に合った男なのだろう。
おかげで今夜もこうしてブログが書けている。

お迎えなし

出来事から
03 /14 2012
娘が2泊3日の北海道旅行から帰るのは、カレンダーでは今日ということになっている。
が、もしかすると明日の午前中になるかもしれない。
飛行機の羽田到着が22時40分。夜の11時前なのである。

田舎住まいの我が家にはこれが痛い。
終電が間に合わない可能性が高い。
ヤフーの路線で調べるとうちの地元駅到着が朝の5時台になっていた。
つまり朝まで帰れないわけだ。

格安ツアーにはこれがあるということを、娘は出立間際に知った。
果たして娘はどこで一夜を過ごすのだろう。
都内に住まう友達の家か。
それともどこぞのカラオケで時間をつぶすのだろうか。

「彼氏に迎えに来てもらえば?」と言ったら
「車乗れないもん」と返事が返ってきて、思わず言ってしまった。
「使えねーなー!」

いやはや、自分はこれまでバブルの恩恵を受けたことがない、などと思っていたのだが
やはり少しはその思考がこびりついていた模様である。
彼氏というものは、女の子が帰ってくるときには、空港でちゃんと待っていて
「きゃあ、ありがとぅ! うれしぃ!」
と抱きついてもらえる特権をもっているものだと思いこんでいたようだ。

しかし最近の男子は、車に興味を持っていないし、
必ずしも18歳ですぐに運転免許をとりに行ったりもしない。
娘のボーイフレンドはいまのところふたりいる様子だが
どちらも車を運転しない。

うう~ん、やっぱり使えねぇ。
空港に迎えに来るのは、とてもポイントが高いのに、もったいない。
もっと欲を持って欲しいものだ!

だがな、だが、彼氏にばかり文句は言えない。
普通ならば夫が迎えに行くべきなのだ。
だが夫は間違いなく迎えに行かない。
朝送りに行っても、夜は迎えに行かないのが酒飲みの流儀らしい。
まぁ酔っ払って運転されるよりは100倍マシだが、
娘のために酒を我慢することはしないのか、このオヤジは?

うむ、彼はそれをしない。
彼は製造業に従事するおっさん、酒飲んでがーがー眠らなければ
体がもたない。
夫が壊れるのが家族としては一番困る。

第一娘はもう大人、自分の責任で行動させるべきだ。
娘よ、ちゃんと考えて行動するのだぞ。
明日の朝でも今日の25時でもかまわん、ちゃんと帰ってくるならば。

    

懲役30年で

出来事から
03 /16 2012
2010年当時、1歳と3歳の幼い子供を部屋に置き去りにして餓死させた母親が
大阪地裁で懲役30年の刑を言い渡された。

2010年の真夏、あの暑さの中、食べ物はおろか
水すらも与えられず、窓も扉も閉め切られた家の中で
小さな子供は飢えて飢えて死んでいった。

被告の母親に当たる人物も虐待をされて育っているから虐待の連鎖だとか
周囲が一切の経済支援や人的支援をしなかったとか
ひとりでの育児に負担を強く感じていただとか

そんな理由で弁護側は情状酌量を求めた上、
保護責任者遺棄致死罪であるとしていた。
保護責任者遺棄罪は上限が5年、それに致死罪が重なった場合
最高で20年ということになっている。

今回は「遺棄致死」なんて生易しいものではなく「殺人罪」が適用された。
子供2人を殺して30年というのは、多分これまでの実子殺し判例よりも厳しいものだ。

これまでは、殴ったり蹴ったりして死なせた場合の傷害致死では
長くても7~8年の判決で、
殺人と認められても懲役14年程度が最長であった。

しかし今回は期限が決められている刑の中では最も長い懲役30年。
これまでの倍長の懲役刑である。
これは裁判員裁判による厳罰化の表れであろうが
一般庶民の制裁心情とある程度距離が近いと思う。
これで7年とか5年とかいう刑が出ていたらやりきれない。

被告はまだ24歳である。
懲役がきっちり30年間あったとしても、すでに2年近くが過ぎているから、
残り28年間塀の中にいても、出所するのはまだ50代初めである。
ちょうど今の私くらいなものだ。

(しかしまず実質そんなに塀の中にはいないだろう、
半分ちょっとくらいで出てくるのではないだろうか)

「生きて償いたい」と語っていた死んだ子らの母親である被告には、この言葉を守ってほしい。
上告して刑の短縮を望むとあらば
彼女の母親としての自覚の無さそのものが変化していないのだ。

あの夏に閉じ込められた部屋の中で死んでいった子供のことを思う。
凄惨な状況はいくらでも想像できるし
ネットにはこれでもかというほどに酸鼻きわまる状況を書き立てる文章があるが
私はそうではなかったんだと思っていたい。
暑さの中、喉が乾き、飢えて、1日ほどで天使が連れに来てくれたと。
人には見えないなにか優しいものが、あの子らを最後に包んでくれたと。