それまでしばし

いろいろ感じたこと
05 /03 2012
じつはひと月くらい前から、こころがおかしい。
自分の手に負えなくなってきている。

こころよ
では いっておいで (八木重吉)

という状態である。
戻ってくるなら良いけれど、いったん手放したら
戻ってきそうにないくらいによくない気がして

だらだらとくだらぬ愚痴やためいきを

ここに書くだけで わたしのこころが
 
こわれてこわれて戻ってこなくなりそうなので
なにも書けなくて 困って 困って へらへら。

こころがしっかりわたしのなかに
根を再び張ってくれるまで
へらへらうつうつしながら待つことにする。

それまでしばし、ごきげんよう。


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私は馬鹿で単純だ

いろいろ感じたこと
05 /17 2012
ばらが咲いた

今年もマリア・カラスが咲いた


15日過ぎあたりには、また書き始められるとよいなと思っていた。

今日は17日だから二日ほど遅れた。

なにを書こうか。
書かなかった間に起こった出来事やあったこと、読んだ本、観た映画
考えたことなど、思いめぐらしてみたが
これこそといったものは、飛び出してきそうにない。

とりあえず今日は、まず朝のうちにやるべき家事を全部済ませて
それから取りかかろうと決めていた。

起床、家族の朝食作り、行ってらっしゃいと送りだして
そのころには1回目の洗濯が終わっているから洗濯物を干し
それから「梅ちゃん先生」を見たら外に出て家の周囲を掃いて、
燃えるゴミを出し、洗い物を片付け、麦茶を作って掃除機をかけて
2回目の洗濯を終えて干して

ようやく現在に至って午前10時35分。
ちなみに起床時間は5時45分であった。

この一連の朝の家事を一気にやってからでないと
パソコンの前に座ってはいけない。

なにしろ私はパソコンの前に座ると長いのだ。
朝6時に座って、気がつけば昼なんてのはざらである。
(さめがめやスパイダソリティアだけでも3時間は出来る=もはや病気)

特にブログを書き始めたりすれば、それはさらに長くなるから
順当にやるべき家事に手をつけるのは遅くなり
だらだらやっているうちに面倒になり
昼間にするべき家事(主に買い物や銀行など)が押してきて
夕方にするべき家事(主に夕食作りと風呂の準備と犬の散歩)が差し迫って
特に目立ったなにかをしたわけでもないのに夜になって
ああまた無為な日を過ごしてしまったと思うことになるのだ。

この状況が私自身を自己否定的気分に追い込んだ理由の一つでもあろう。
無目的、無為に日々と時間を消費しているという感覚が
自己否定、自己嫌悪につながるらしい。
(私の場合は)

必ずしも無為ならず、実際的には家族のために
掃除洗濯食事つくりくらいはやっているのだが
そこに到達感、満足感がない場合に自己に否定的になるような気がする。
(私の場合は)

必要なのは行動に対する目的意識と
達成した時に抱く満足感や喜びである。
義務感のみで、刺激の少ない主婦業という日常業務をこなし続けていくのは
正直かなりの忍耐を必要とすると思う。
(私の場合は、と、くどい)

ブログを休むひと月以上前から、私は心を闇に向け始めていたのだが
その自覚をあえて否定し続けたがゆえに
心はかなりひねくれ歪んでしまった。

だがそれもどうやらとりあえず回復し
心が光の方へ向き直った感じがするのは
家族がここしばらく、私に徹底的に気を使い
やたらに優しくおおらかに接してくれたおかげである。
(もちろん家族は大変な被害者であった)

特に夫が私にやさしくし、
ポケットマネーを惜しまず使ってデートに連れ出してくれた
功績が大きいような気がする。
(やはりなにごとも金は大事だ)

要するに私は馬鹿で単純な女だと言うことだ。
「大事です、大事にします」と扱われることで
俄然元気が出て、浸っていた赤い水からホイホイ上がってきてしまう。

声を大にして言ってしまおう、その方が気が楽だ。
「私は馬鹿です、単純です」


そうして優しくされたので私はいま、加齢臭持ちの、腹の出てきた
酒飲みで煙草中毒の亭主を、本気で恋しがろうと決めた。
もちろん昔のような激しい恋ではなく
ゆったりした、落ち着きとユーモアのある恋、
限りなく「この人好きだなぁ」に近い「恋」ではあるけれども。

青臭い話題でお恥ずかしいが
「恋」と「愛」では絶対に「愛」が上なのは百も千も承知であるが
「愛」には忍耐も練達も品格も必要とされるので
馬鹿で単純な私はエンジンのかかりやすい「恋」のほうがいい。
エンジンがかかれば、私はきっとそこそこ快調に動くだろう。
(だが燃費のいいのは「愛」である)

相変わらず支離滅裂な日記となった。
そろそろ昼だし、ここまでにしておこう。
私のブログは素人のままでいる。
読み手におもねる文章は当分書かないことに決めた。

そのほうが心によい。
それに気が楽だ。

独り言みたいなものを読んでくださって、あなたもとても優しい、
そんなあなたに感謝します。

黄色いバラ

ゾンネ・キントも咲いた

今年もグリーンカーテン計画中

ガーデニング
05 /18 2012
東京が27度にもなった16日、強く思った。

「今だ! ゴーヤの苗の植え付けは今だっ!」

その3日前の母の日には、
花屋に大量に在庫余りしていたかに見えたゴーヤの苗が
3日後16日の午後2時過ぎには花屋の店先から完全に消えていた。

ああ、誰しも考えることは同じかっ!

仕方がないので、きゅうりやトマト、バジルの苗と並んで置かれていた
へちまの苗を2ポット買った。

ゴーヤの苗はまた来ますかねと尋ねると
あらもうなくなってますか、と店員は言って
「はい、今度は98円が来ますね」と答えた。
ついでに
「今日までは50円だったんですけどね、次は98円なんですよ」と、
一足遅かった悔しさを上塗りしてくれた。

ちょっと歩いて国道沿いのホームセンターに行けば
間違いなくゴーヤの苗は入手できるだろうが
家の近所の花屋が50円で売っている苗と、素人にはそうわからないレベルのものが
298円で売っているのだから、質素倹約を旨とする一主婦である私は
買いたい心をぐっと抑えたのであった。

ゴーヤの苗が飛ぶように売れている理由は、
夏のスタミナ源だから・・・・ではなくて
もちろん、節電のためのグリーンカーテン作りのためである。

去年実際やってみたが、グリーンカーテンは確かに気温を下げる効果がある。
さらに朝顔などと一緒に育てると、とても美しく
目にも心に非常によかった。

ただ、ゴーヤが大量に収穫されるために、多くの家庭が消費に困り
ゴーヤ配りがそこらじゅうで散見され、
「(ゴーヤ嫌いですから)結構です」と言えずに(ゴーヤだけに)苦り切っているお宅も
あった模様である。

ちなみに私も、ご主人が単身赴任されている家庭と知らず、
特大ゴーヤを3本もお子さんと二人で暮らすご家庭に
さし上げてしまった失敗がある。

収穫

これは去年の7月ごろの収穫、8月は毎日もっと獲れた・・・・そりゃ困るよね


と、いうわけで今年はゴーヤ苗を二つしか買わない予定である。
もちろんゴーヤ苗ふたつではちゃんとしたグリーンカーテンにならないので
そこをへちまに頼るつもりだ。
へちまは食べられるそうだが、その予定はなく
大きく育てばへちまたわしにする。
弦をちょん切って、へちま水などを取るのも楽しいかもしれない。

さらに美観の問題から朝顔ももちろん育ててからませる。
虫の付きやすい朝顔であっても
ゴーヤの近くに植えると、あまり虫がつかないようだ。
もちろん夏の終わりにはきっちりぶっとい青虫が朝顔にはついているが
ゴーヤの苦さを虫が嫌うのか真夏は青虫も来ない。
(ま、去年は見なかったな、真夏は)

朝顔

これは去年の朝顔、種から育てた、この子たちの種をことしも撒くぞ


へちまもゴーヤもウリ科であるから連作を嫌う。
なのでプランター土は全部新しく購入せねばならない。
(去年の土を混ぜ込むわけにはいかない)
さらにゴーヤもへちまも野菜なので痩せた土ではあまり育ってくれない。
地植えならまだしも、プランターとなれば、
きちんと肥料の入った土でないと、実が大きくならない。
さらに根が大いに張るのでプランターの大きさも深さも必要である。
近所の家が、子供の小学校理科用の植木鉢にゴーヤ苗を植えて
ネットを張ってカーテン作りを試みていたが
ひと夏終えても、弦が数本巻きついているだけの姿にしかなっておらず
人心にもののあはれを催させた。

と、いうことで私は野菜用の45リットルプランターをふたつと
10リットルの深型植木鉢を数個用意している。
25リットル×2個1400円と言う格安の野菜用土をネットで見つけたので
二口注文しているのだが(計100リットル)届くのは1週間も先らしい。

1週間の間に98円のゴーヤ苗が、花屋の店先に出てくることを願っているのだが
もしも土の方が先に届いて、ゴーヤ苗が売り出されていなかった場合は
努力型節約主婦の私もホームセンターに走ってしまうかもしれない。

ガーデニングと言うのはふと無性にやりたくなることがあるのだが
今の私はその時期だと思われる。
すでに100円ショップでガーデニング用ネットは複数個しっかりと購入した。
(去年は100円だったのに今年は158円に値上がりしていた。ダイソーめ)

かように「ガーデニングやりたい病」にかかっているため
待ち切れずに今日は地植えをしてみた。
去年植えて大いに育った風船かずらの種がたくさんあるのだ。

風船かずら

去年の風船、今年はこの窓には朝顔の予定


風船かずらは土質を選ばないとのことで、乱暴にチューリップの跡地に撒いた。
少しだけ気が済んだ。
早く芽を出してどんどん伸びてほしいものだ。

今年も気持ちのいいカーテンをつくるぞぅ

グリーンカーテン



早起きして見たもの

出来事から
05 /21 2012
月曜日は夫の会社を手伝いに行く日なので
朝はだいたい忙しい。
特に今日は金環日食のせいで、わき見による交通事故遭遇にも注意が必要で
家を出るのを早めるため、さらに忙しい予定であった。

だが実際はかなり余裕しゃくしゃくの
上首尾で朝の時間を使うことが出来た。
これはひとえに私の「ガーデニング熱」のおかげである。

実は昨日、私は真面目に教会の礼拝に行き、
不真面目に礼拝後のミーティングをさぼり、
その足で教会に近いスーパーマーケットに寄ったらば
ゴーヤの苗が数個だけ売っていたのであった。
もちろん喜び勇んで買った。
(ちなみに1ポット98円)

ご機嫌で帰宅すると
注文していた土100リットルも到着しているではないか。
これはもう
「ガーデニングしてよろしい」という神様のミココロ(*`д´)b OK!
と、そそくさと庭いじりを始めたのであった。

ゴーヤとへちまはプランターに植え終わり、
一番大きな窓の全面に、ネットも張った。
夜には去年とれた朝顔の種の一部をちょこっと爪切りで傷つけて
脱脂綿の上で水を含ませた。

今朝はその発芽処理した朝顔の種をプランターに蒔きたかったのだ。
ほかの用事だったらかなり難しかったであろう朝4時45分、
朝顔のために私はぱぱっと起床したのである。


かくして今朝、朝顔の種はプランターと、ほか2か所に蒔くことが出来た。
起床と同時にスイッチを入れた洗濯も6時前には修了して
燃えるごみも余裕で出した。
6時半いつもより30分早い出勤も、もちろん楽勝であった。

車の窓からは家の車庫にパジャマ姿で日食用観測メガネを手にした一家や
土手に集合して空を見ている人々などが見えた。
それらの人々を見るにつけ、わくわくした空気が濃くなった。

特に一家のお父さんが中心になって
じいさんばあさん、幼稚園や小学生の子供らと一緒に
家の前に椅子を持ちだして、お母さんの運んできたおにぎりを食べながら
家族みんなで空の同じ方向を見、
あれこれおしゃべりしている図を見るのは
「いい家族なんだな」という思いがほんわかと湧いて、
心にいいものを見た気がした。

会社に着いたのが7時15分過ぎであったので
どれ、私もちょっくら金環日食でも見てみようと思ったが
観測メガネなどというものを用意していなかった。
なにせ普段は天文に一切興味を持っていない。

今回も別にどうでもいいはずだったが
会社に来る途中に見た「わくわくどきどき待っているたくさんの人々」のせいで
私も急に金環日食見たい病に感染していた。
しかし、これもまた
「金環日食を見てよろしい」という神様のミココロd(≧▽≦*)OK!!、
会社には「金属溶接用」のマスクがあったのである。

というわけで、私はすっくと大地に立ち
頭には金属溶接のマスクをかぶり空を見あげたぞ。
(とてもすごいかっこうだ)

おお、太陽が欠けていくお月さんのようだ。

金属溶接のマスクをかぶっていても、太陽観察専用ではないので
そう長くは見ていられない。
私は近くの畑をぐるっと回ってきぬさやを収穫したり
伸び始めているきゅうり苗を見たりしつつ、
また太陽をマスク越しに見詰めるのを数回繰り返した。

金環には確かになった。
ちょっとだけ世界が灰色の夕暮れっぽくなった。
竹やぶでホーホケキョと鳴く鶯の声、
「早く来ないと日食終るわよ!」と子供を怒鳴りつけるお母さん方の声、
眠いのをたたき起されたのか泣いている子供の声などがBGMであった。

ところで江戸時代にも日食の記録が残されているが
あれは学者などがあの眩しい太陽を必死で裸眼で見つめて
書き残したのであろうか。
その後、あれらを記した学者の目は光で焼けてしまったりしなかっただろうか。
それほどに太陽は眩しい。

小さな子供のころには、太陽を見上げて焦点を合わせてみたこともあったが、
まともに見つめたのはいつ振りだろうか。
多分数十年ぶりではあるだろう。

まったくいい朝であった。

(しかし今さら猛烈に眠い)

溶接面の子

一夜が過ぎ、世界的な勢いで「かわいさ」が話題になった「手持ち溶接面」をつけた女の子たちの画像。
このクラシックな溶接面と、幼稚園の制服の田舎っぽい青がたまらない

晴れた日のいのち

いろいろ感じたこと
05 /23 2012
ああ、今日もしっかり働いたぞ、と思わず言いたい感じがする。

なにを働いたのかと言えば、
普段やっている家事の他には
母の施設から引きあげてきた冬の毛布と敷き毛布ほかの大量の洗濯と
グリーンカーテンのネット張りふた窓だけであるが

洗濯機を6回まわしつつ
激臭い犬の長座布団2枚を風呂場で踏み洗いし、
庭に梯子を出してのネット張りなので、妙に頑張った気がするのである。

銀行にも仕事にも母のところにも行かないで
近所に買い物のほかは家の中だけで済む家事は
自分のやりたい時にやりたいだけ出来るから
頑張って片付けたあとには気分がいい。

こんな日には会社の税理士から
「23年度の消費税の支払いがウン十万円」で
「今月中に支払っておくように」などという電話がかかってきても
なんとかなるだろうと思うことが出来る。

手形を現金化できるのは今月末だから
今はウン十万も税金を払ったら、社員のお給料がなくなるけれども、
そういう鬱陶しいことは、
こんないい天気には考えたりしない方がよいに決まっているから
スカーレット・オハラを決め込むことにして
ああいい天気だわねぇ
洗濯物がよく乾くわぁ、などとのんきに構えてせいせいしている。

で、先ほどその大量の洗濯ものを気持ちよく取り込んだのだが
毛布を取る際にふっと背伸びをしたら
ああ、見つけてしまった。

あしなが蜂の女王さんが、物干しの屋根の隅の方にせっせと巣を作っている。
ああ、なぜこんな人間の目につくところに巣をつくるのか
毎日上がる物干しに巣など作られては危なっかしくていかんではないか。

もしこれがもっと目立たないところであればよかった。
あしなが蜂は庭の緑の毛虫や幼虫をガンガン食べてくれるので
むしろ歓迎する。

2年ほど前には家族の気づかないままに、
車庫の天井にかなり大きくなるまで巣営されていて
「今年は幼虫が出ないわ~、いいわ~」なんて喜んでいたこともあった。

背黒あしなが蜂とかいう大きい蜂でわりと危険な種類だったのだが、
朝顔やツバキの幼虫食べ放題でつねに腹いっぱいだったのか
うちの人間は誰も襲われなかった。
このごろ蜂が多いな、とは思っていたが
巨大スズメバチもときどき現れるこのあたりにおいては
スズメバチでないならわりと平気なのである。

先ほど物干しで、かなり近くまで顔を近づけて観察しても
あしなが女王は攻撃してこなかった。
ネットで調べてみたのだが、以前うちに泊めてやっていた背黒ではなく
鮮やかな黄色だったので、黄あしなが蜂だと思う。
しかも巣は背黒よりも巨大化するそうだ。
申し訳ないが場所が悪いので、お気の毒と思いつつもアースジェットで吹き落した。
巣を調べてみたが、当然まだ卵も幼虫も入っていなかったので
指先でつぶした。

ああ、一瞬にして薬剤の竜巻で追われ
彼女が唾液と木くずで大事に大事に成形していた家が
巨大な生き物によってぐしゃっとつぶされた。

もしもこの蜂が人間だったら、これはかなりな悲劇だ。

先日、トム・ソーヤを書いたマーク・トゥエインの
「不思議な少年」と言う作品を何の予備知識もなしに読んだ。
(翻訳が中野好夫だったから読んだだけ)
舞い降りた美しい天使の少年は、子供たちの見ている前で
不思議な力で粘土から小さな人間を作りだし、
それら小さな人間たちは畑を作り、
町を作り、それはそれは美しい城、美しい小さな世界を作った。
もちろん子供たちは大喜びする。
だがちょっとしたことでそれら小さな人間たちが争い始めて、
ついに大きな戦争になった。
はらはらしながら見ている子供たちの前で
天使の少年は面倒くさくなったのか、それらの小さな世界を
ぐしゃっと破壊したのである。
小さな粘土でできた人間たちは泣き叫び、恐怖の声を上げ逃げまどうが
美しい天使の少年は面白がってそれらをひねり潰していく。
それを目の当たりにした子供たちは、ショックを受けて泣くが
天使には子供らの涙の理由もわからない。

女王蜂を追い落として、巣を潰したとき
私はきっとこの天使と同じだったろうなと
ふっと思った。

こんなにいい天気には、命の躍動を感じると同時に
命や運命のもろさを思ってみるのも、ちょっといい。

こちらは原作
 
これは上の作品をモチーフに生まれたらしい漫画

未来の小説家さんたちへ

いろいろ感じたこと
05 /25 2012
これまで過去、ブログを3度ほど作ってきたが
その中で出来たお友達には文章の上手な人たちが多かった。

私は読みがいのある内容が好みなので、必然的に長文のブログを選んでいるようだ。
長文は、長くなればなるほどにあっちやこっちに逸れて
テーマが散漫になりがちで、きっちりとまとまった形で終えるのが難しくなる。

であるから私が好んで訪問する方々の文章が上手なのは
ごく自然なことなのかもしれない。

何度となくお邪魔するようになるとわかってくるのだが、
私の好んだそれらの方のほぼ半分が、文章に携わる仕事をしていたり、
アーティストであったり、
あるいは小説家になりたいという希望を持つ方々であったりした。

ブログを(写真の魅力などではなく)文で魅力的に書ける人々の多くは、
自分の文章センスに対する自負心を持っている。
自負心があるからこそ小説を書いてみたくなるのかもしれない。

鉛筆あかライン


編集の世界にいて、有名な作家さんとのつながりもお持ちだった面々で
(例えば編集者・横溝正史がそうであったように)自分もいつかは小説を書き、
世に出したいと思っている人たちとのブログでのおつきあいは
残念ながら、全部私のほうから離れてしまった。

それらの人々は編集の仕事という性格上、作品の客観視を大切にするので
第三者の意見をやたらに聞きたがった。
「複数の人々に読んでもらっています。読んで忌憚ないご意見を聞かせてください」と
自分の作品をメールにどかんと添付して、送ってこられても、困るのである。

向こうは常に多くの文章を読む仕事なので慣れていても
私は一介のおばさん、自作長編小説を突然読んでくれと送りつけられ、
正直に「全然つまらなかったので途中で放棄した」などとは言えるものではない。

とりあえず私はそれらの経験上、学んだ。
出版社で小説家を生み出す編集能力を持っていて
しっかりした随筆や評論が書けるにしても
読み手を感動させたり夢中にさせたりする小説を書くことは非常に難しそうだということを。

逆にその世界にいるために、そこで得た知識が創作上の邪魔をして
社会の世相や読み手の性別におもねっていることさえある。
「評価されるためにはうんぬん」
「多くの読者を獲得するためにはうんぬん」
「売れるためにはうんぬん」
といった縛りを自ら枷にしているのである。

鉛筆あかライン

本を読まないから小説が書けない、という言葉を、私はあまり信用しない。
本を読む人と、書く人は、必ずしも等しくない。
編集者と小説家が違うのと同じである。

たくさんの本を読んでも、文章が上手でない人々はいるし
漫画しか読まなくても、文章が上手な人々はいる。
そして編集者の例の繰り返しだが、いくら文章が上手でも
読み手を感動させたり夢中にさせたりする小説を書くことは非常に難しそうである。

小説が「ただの読み物」「とりあえずおはなし」
「時間つぶし」「ひまつぶし」「ごくつぶし」のレベルならば誰でも書けるだろう。
ただしそれらは「雑文」という。
作家によってはかつて「紙くず」と言った人もいる。

水○ヒロという俳優がポプラ社の小説大賞をとったとき
「この人には書くことに対する恐れがない」と辛らつに言った批評家がいた。
逆にいえば、書くことに対しての恐れを持つ素人は
上述の俳優よりも大事なことを知っているということだ。

怖れを持ちつつ縛りをもたない。
きっとそれは大事だ。

ともあれ夢は大きく持っていただいて結構、
私は将来それらの方がたの作品を指さして
「この人がまだ素人だったときにさー
私この人とブログで仲良しだったんだよー」と自慢するつもりである。





哀しみのときに思うこと

神様
05 /26 2012
FC2ブログの訪問者リストの記録を消したことがなかったので
どれちょっときれいにしてみようかと足跡をのぞいてみたら
全然知らない人がいたので
なんとはなしに興味を感じて飛んでみた。

そしてとんでもなく後悔した。
今まで見たことがないほど、醜く恐ろしいものを見てしまった。
アメリカの学生が面白がって投稿したのであろう、いじめの動画であった。

話に聞いたこともあるし、テレビドラマで見たことはあっても
実際に起こっているその状態を見たことはなかった。
書くこともはばかられるほどその方法は残酷で
人間の尊厳を完膚なきまでに踏みにじるものであった。
その下劣きわまるいじめの後の、
被害者の悲しみと諦めに満ちた表情を、私は一生忘れないかもしれない。

私は席を立ちあがると、こんな祈りを口にしていた。

あの少年がどうか、もう二度とこんないじめに遭いませんように
彼の傷ついた心と自尊心が出来るだけ早く癒されますように
どうかあの少年を助けてあげて下さい。
非道ないじめをした少年たちには、あなたの正しい裁きがくだされますように。



私は右の頬をたたかれたら左の頬を差し出すべきクリスチャンである。
7回の70倍、人を赦せと、イエス・キリストに教えられている。
しかし、私は動画の中に見たあまりの行為を許せなかった。
クリスチャンとしては不合格である。

だが私は、許せない自分をなぜか反省できない。
いじめ被害者のあの孤独と悲しみのまなざしを見て、
いじめた側を本心から赦すことなど、私には到底できないし
強く言えば、「赦そうとも思わない」。

「いじめた子たちをお赦しください。
彼らはなにもわからずにやっているのです」
なんて祈れる人がいたとしても、私は同意もできないし
もちろん否定もできないだろう。

ときどき神様の与えたもう試練は、人間の小さな器と弱い体には大きすぎると思う。
その試練がなんのために与えられるのか、
小さな人間たちにはわからない。

あんな酷いいじめに遭わされている子が存在し、
世にはいたるところにとてつもない苦しみや辱めや痛みがある。
とどまることを知らぬ人間の文化文明のたどり着いた
ネットの中に平然と、当たり前のように存在する
悪意と敵意、醜い言葉と徹底的な嘲笑。

そんな汚れに日々にまみれつつ
「神に栄光あれ(ハレルヤ)」と賛美するしかない私にとって
神様の意思は多分死ぬまで分からない。

この世があまりに分からないから、天国はある。
すっきりと、すべてが澄み渡った天国がある。

茨の冠

小説を書くこと読むこと

出来事から
05 /28 2012
リクエストをもらえれば、それに沿って小説を書いてくれるというので
私の読みたいものをリクエストしたら、(やっぱり)いじわるだ、と言われた。

私は掛け値なしに意地悪な人間だと思うが
リクエストは意地悪をする気持ちも、無理難題を吹っ掛ける気持ちもなかった。

私はまず、自分の読みたくないものを考えた。
仮にその原作小説を漫画化したとして、
漫画になっても全然違和感のないものは、読みたくない。
もしそんなものならば、私は最初から漫画を読む。
漫画の方が読むのは早いし楽だ。
文章でしか描き得ないものがそこに存しないならば、そんな小説など私は読みたくない。

それと、私はキャラクターだけに頼った小説は読みたくない。
だから美男も美女も出てくる必要はない。
登場人物は美男でなくても美女でなくても全然構わない。
読んでいるうちに登場人物が魅力的に思えてきて
読みたい気持ちがどんどん引っ張られていくくらいの方が、読書体験としては幸福だ。

セリフだらけの小説は読みたくない。
セリフで話が進んでいくくらいなら、いっそ戯曲や脚本を読む。
三島由紀夫や森鴎外のごとく、ぎっしり書きこんで欲しいとは言わないが
セリフでスカスカな小説は読み手のレベルを低く設定しすぎだ。
地の文とセリフとの不協和音に関しては、もう蹴り飛ばしたくなるほどいやだ。

(例
午後からの雨は渋谷の街の軽薄な空気を押し流していく。
憂鬱という漢字をスマ―トフォンで調べてから、テーブルの上に指で書いた。
もう、賢治と会うことはない。
そのアドレスを消す勇気が持てさえしたら。
スマートフォンが美由紀の手から上にふっと引き抜かれた。
「みゆき~マジうっとぉしぃんですけどぉ、アタシ削除してあげるしぃ!」
「うわぁ、サキじゃん、誰かと思ったょ、それやばいっしょ、それないっしょ!」

・・・・ああこの落差。こんな小説読みたくないけど素人さんにはいまも見かける)


とまぁいろいろ負の要因を考えてからこうリクエストしたのだった。

美男美女なし、セリフの多すぎるものはNG
恋愛モノや学園物は個人的に嫌いなのでこれも嫌。
枚数は原稿用紙400字換算ならば100枚以内(これは短編の範囲だ)
テーマは「人間の精神の回帰・回復」とし、
願わくば、実物大の人間の苦しみ、葛藤、矛盾、内面の闘いを描き、
それらを経てテーマにたどりつくようにと注文した。

・・・・これはそんなに難しい注文だろうか?
正直な事を言えば、私はそれほどこれを難しいものとは思えない。
むしろありふれた小説のテーマではないだろうか。
この手の物語は本当にたくさんたくさん存在するのだ。

ヴィルドゥンクスロマンの本場、西洋にはことさらに多いが
日本にもずいぶんたくさんある。
下村湖人「次郎物語」、山本有三「路傍の石」、井上靖「あすなろ物語」
灰谷健次郎「兎の眼」や壷井栄「二十四の瞳」もそうだ。
実篤の「友情」や志賀の「暗夜行路」、
あさのあつこや重松清もヴィルドゥンクスロマンをたくさん書いている。
露骨に言えば
主人公がくじけずプラス方面に成長して行く話というだけである。

注文された側のお友達は「全然読みたくない内容」だと感じたそうだが
私はその系統の話が好きなので、書いてくれればきっとじっくり読む。
そこは約束できる。絶対だ。


さて、私も過去30代のはじめ頃、小説を書いていた時期があった。
二年ほどだろうか、同人誌にも所属していた。
同人誌では批評会のようなものもあって、私が言われることはだいたい決まっていた。
「文章が固い」
「キャラが立っていない」
「読みづらい」。

表現者というのは自信があればある程バカになるらしく、
ケチをつけられての取っ組み合い、殴り合いなんてこともしばしば起こった。
もちろん私は批判を謙虚に謹聴していたいい子であった。

書くことは私にとっては血の為せる業であるので
それはもちろんたいそう楽しく、充実した日々であった。
24時間小説のことばかり考えていた。
物語の展開もさることながら、推敲して推敲して推敲して
納得いくまで10回でも20回でも書きなおした。
1000枚以上の小説を最後に書いて、私は同人誌の世界から抜けたのだが
それに費やした労力は生半可なものではなく、
すでに無理に無理を重ねて壊れていた私の体は、ついに死ぬ一歩前まで行った。

死ぬかもしれないと思いながらも、
書くことが楽しすぎて辞められなかったが、
ある日まだ小さな娘の前で倒れて意識を失い、以来筆を折ったのである。
私の存在は、小説を書くためにあるのではなく
家族のためにあるから、というのがその論拠であり
今もその意思は続いている。

最後の長編は同人誌で珍しく非常に褒められた。
メジャーな出版社勤務の同人に
「これだけ書ければすぐに本になる」と言われたのが最後の勲章だと思っている。
思えばその長編もヴィルドゥンクスロマンであった。

書いてくれるという人に「書いて書いて」とお願いしながら
ふっと自分も同じように書いてみようかな、と一瞬思ったことを白状しよう。
だがいまはその気持ちもきれいに掃除された。

先ほどNHKBSでオースティン原作の映画を放送していたので
なにげに見てしまったのだが、それがおもしろかったのだ。
原作をぜひ読みたい!
(映画「いつか晴れた日に」=小説「分別と多感」)

ジェーン・オースティンの小説は「自負と偏見」しか読んだことがないが
それはもう名訳の力もあってめっちゃくっちゃにおもしろかった。
ちなみに世界十大小説のひとつである。

(実は「自負と偏見」はセリフだらけの小説である!!
ぎっしり書き込んであるけれども。
そういえば同じく世界十大小説「カラマーゾフの兄弟」もセリフだらけだ、
恐ろしいほどぎっしり書きこまれたセリフだらけだwww)

今は小説を書くより読む方が、きっと楽しい。
小さな世界に住み、もう50歳にもなる私には
世の中の多くを見せて教えてくれる読書の方が魅力的なのである。
(しかも読み過ぎて体を壊すことはまずない)



スイトピー

庭で咲いたスイートピー。赤いスイートピーってあんまりカワイクナイ


わかってほしい報いてほしい

いろいろ感じたこと
05 /30 2012
月曜日には母を病院に連れて行った。
移転して新しくなった病院は、母の暮らすグループホームからはうんと遠くなり
大きくきれいになって、患者も増えて、待ち時間も増えた。

おしゃべりな認知症患者と
3時間も4時間も、病院の待合室で隣同士に座っているのは忍耐が要る。

いまや母の過去の一番大事な思い出、
大好きな父親との戦争前の楽しかった記憶も
いまやほとんど後付けの創作だらけになった。
すでに自分の名前も正しくは書けない。
ひらがなでさえも。

そのくせ母はしゃべり通すのである。
話の内容はだいたいが自分のことであるが
社会通念や世論関連であったりもする。
追及すれば全然筋の通らないことを言っているのに年寄りの利点か、常識的に聞こえ
なおかつ諭すように語られるのが、なんともこれが・・・・・むぅ
3時間を越すとどうにもこうにも腹立たしくなってくるのが困る。

(年寄りの利点と入れたつもりで「年寄りの流転」と打っていた。
おもしろすぎてもったいないから残しておこう
ヾ(∇・〃)キャハハハo(__)ノ彡_☆バンバン!!)


思いきり矛盾を突いて突いて
なぜだ、今さっきはこう言った、ああも言った、
どっちが本当だ、はっきりしてくれ、さぁさぁさぁさぁ
と、とことん苛めたくなるのだが、
これをやると認知症患者はパニックになって過激な症状を見せたり、
過度に感情を失ったりするので、絶対にやってはいけない。
要するに話を聞いているふりをしながら適当に相槌を打って
「はいはいそうですね」とやっていればいいわけだ。

・・・・マシンガントークの認知症患者の隣に3時間以上も座っていて
それが出来続ければ、プロの域だろうが。

ライン2

火曜日は夫の仕事で会社に行った。
経理の決算が税理士の事務所から返ってきたので
それをパソコンに移し、4月以降にたまっていた各種必要なものを入力した。

前にも書いたが、今義父は胃の切除手術後なので、まだ来月までは会社には来ない。
主に食事や雑用(趣味の畑仕事)のためにきていた義母は
術後の義父が大いに甘ったれて依存してしまったために、会社に出てこられない。

なので私は義母のやっていた洗濯とか掃除とか洗いものとか、
そのようなものまでやったのだった。
(ついでに畑の絹さや、トマト、ほうれんそう、新玉ねぎを収穫して家に持って帰った)

ライン2

そして今日、私はまた夫の会社に来ている。
今日は大事な届け物がある日なのだが、夫は仕事で出張、
受け取れる人間が誰もいないから、私がそれをやるしかない。
今日は伝票を数枚書いて、あとはパソコン入力をするのみである。
それと、とりあえず作業服などの洗濯もした。

しょっちゅう書くけれど、私は無給労働に文句も言わず賃金要求もしない、
義理の両親にとってはなかなか(便利な、あるいは都合の)いい嫁である。

戦後の昭和を作ってきた義父義母は
「野菜も持って帰っているし(もらいものの)お菓子やおかずも持たせてあげているし
ちやこにはよくしてやっている」
と思っているのだろうが、どうかお二人には私が特別仕立ての人間なのだという事実に
一刻も早く気付いてほしいものである。

もしも私が、この世の富に仕える側の人間を軽蔑する
まっとうなクリスチャンでなかったら
「野菜やコロッケやつくだ煮でごまかされたりしないわよ!」と
労働に対する正当な報酬として、金銭支給を要求するだろう。
(だが真夏のなすやキュウリも捨て難い、真冬の白菜、大量のネギも捨て難い。)

・・・・・うむ、やっぱり私は愚かだ。
この3日間を見ただけでそれはわかる。

あれもした、これもした、してやった、代わってやった、と
恩着せがましく自分の行為を数え上げ
その業績(言葉が立派過ぎて赤面するが)を自分で再三眺めては
「こんなに頑張ったのだから」とか
「ここまでやったのだから」とか言いたがる。(書きたがる)

周囲が私のしたことをわかってくれて、
それがなんらかのわかりやすい形で
報いとして自分に返ってくることを求めているのである。

アアモット小サナトコロ、見エナイトコロデ
誰ニモ知ラレズ、神様ダケガ見テイラシッテ
「オマヘハマッタクヨクヤッタ」
ト云ッテクダサレバソレデイイト
思ヘルモノニワタシハナリタイ。


(宮沢賢治か八木重吉かという感じですぜ)

ライン2

えっへっへっへ

いろいろ感じたこと
05 /30 2012
えっへっへっへっへ

夫がさっき、仕事の出張から戻ってきたところ。

車から降りるなりミニストップのアイスコーヒーと
バリちびタコマヨポン酢をほいっと差し出した。

おみやげ!!!


30日だから道路も混んでいたそうで、
夫はかなりぐったりして
しばらく事務所のソファで転がっていた。

ちゃんと淹れたコーヒーがいい香り、
揚げたタコ焼きがパリパリ、
席に座ってニコニコもぐもぐ食べていたら夫が言った。

「ママちゃんが待ってると思うと
事故起こさないで帰らなくっちゃと思えた」


なんかワタクシしあわせ~~~~~

ああお仕事に来てよかった、
単純ににこにこしたのであった。




ふたり

気前のいいblue-greenさんの素材より
ブログふたつも書いて仕事さぼりすぎの気配