営業による順位は信用しない

いろいろ感じたこと
07 /05 2012
いつまでも素人小説の話ばかりしていたくないので、無理に更新することにした。
内容がないよう・・・・平にご容赦を

ええと、ブログのランキングについて書いている人がいたので、
私もそれについて書いてみようか。

ブログのランキングの最大手は多分ブログ村なのだろう、
私も昔属していたことがある。
そこにいたからネット上の友達も出来た。

でもこれはコメントというものをして初めて端緒が開く。
何度読みに行こうが、コメントもせず相手がこちらを知らなければお友達ではない。
コメントも1度や2度ではなく習慣的に残すようにしなければ
お友達と見なされない。

ブログ村の各カテゴリーで上位にいる人たちはみなほとんど
お友達が多い。
そのお友達もブログを持っていて、お互いに訪問し合うことが多い。
コメントもまめに書いたり書かれたりすることが多い。

友達が多いゆえにブログ村の上位になっている人が少なくない。
私の目から見ると
「なんじゃこりゃ、どこがいいの」というブログが各所の1位とか2位とかになっていたりもする。

私がどう感じようと、ブログ村の各カテゴリーで1位になれば
みんな嬉しいし自慢だし、達成感もあるだろうし、満足も出来るのだろう。
内容は10位20位であっても訪問客は1位なのだ。

しかしこれってもはや営業成績ではないのだろうか。
特にここしばらく読んでいたブログ村小説カテゴリーの上位ブログの
リンクの膨大さと行ったら、もはや一日で回りきれないだろうと言う数だった。
訪問ごっこをしているのだろう。
だから順位が上がるのだ。

内容よりも営業成績で順位が決まると言うのは、社会の縮図と似ている。

私個人としては営業成績よりも内容で勝負しているブログの方が好きである。
内容、営業ともに頑張っているブログも複数あるが
これが2年3年と続くことはまずない。
ブログ主が疲弊してだいたい消えていくか方針を変える。

順位も高い方がいいし、訪問客も多い方がいい。
だがとりあえずクリックして行くだけの義理友達は無理やり作る必要はないと思う。
義理を通せば窮屈になるので、住みにくくなる。
ブラウザの中まで住みにくくする必要はない。


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真夜中のこころ

神様
07 /06 2012
会社には検収書が毎月10日までに届くのだが
週一日勤務の私が不在のときに届くことが多いため、
自宅で請求書を作成して送付可能なように、
帳簿やら伝票やらいろいろなものを持って帰ってきている。

検収書が届いたと、夫がそれを自宅に持って帰ったのが今夜。
なんやかんやで夜は主婦業が多忙で帳簿につけることが出来ず、
零時を回ってからようやく帳簿をつけることと相成った。

そして気がついた。
自宅に持って帰った帳簿の種類が違う。

ミスは痛手だが、帳簿に書かなくとも検収書だけで請求金額は出せると思いなおし、
ちまちま電卓で計算する。

金額が出たので、二度ほど確認のための計算をして確認し
請求書に書こうとしたときに気がついた。

手形分割に必要な数件の金額の書かれた帳面を忘れた。
(うちが請求しする金額は先方から約束手形の形で払われる。
うちはその手形を分割して支払う形にしてもらい、
回し手形にして各支払いに充てているのだ)

ここで、すべてはおじゃんとなった。

会社で金額を確認しないと、分割を頼めず、請求書を送ることは出来ない。
つまり私は明日会社に行かないとならなくなったわけだ。

今月はまだ6日だが、私はすでに2日間仕事に行った。
明日行けば週3日勤務になる。
週3日も朝の8時から夜の8時まで拘束されて無給というのは
さすがに人のいい私でも嫌になる。

クリスチャンはボランティアに利益を求めることはしないが
労働に対しては正当な報酬が与えられるべきだと主張する。
だって聖書にそう書いてあるのだ。

けれども私は今回も主張しない。
主張したって会社が私に払えるようなお金はない。
自分が経理をしているからよくわかる。
ただ働きは神が私に与えられた役目なのだろうと思うことにする。
これを通して忍耐とかなんとか、そんなもんを養うのかもしれない。

人間は神の作った土の器で、
土の器は何度も削られ削られ、形が出来上がって行き、
最後には焼かれて完成する。

私は現在ちょこっと削られているようだ。


鬱陶しいとか、嫌だとか、休みたいとか、金もくれない癖にとか
いろいろマイナスなことを思ってしまうが、
もしかすると、明日は意外に楽しい日になるのかもしれない。
行って良かったと思えることがあるのかもしれない。
たとえば家じゃないからずっとエアコンが点けられるとか。

もとはといえば、忘れ物をした自分が悪い。
ここのところ、いろいろあって仕事に対する誠実さが足りなかった。
そこに気付け、と神様が伝えてきたのだろう。

明日また、私は仕事に行くのだ。
非常に面倒である。
だがきっと、必ずいいことがある。
嫌なことから逃げないのが、一番の解決法なのだ。


やれやれ、おやすみなさい。
明日はきっちり誠実に仕事をするぞ、見ててください、神様。


コンプレックス

本にまつわる
07 /07 2012
むかしむかし
佐藤愛子のエッセイにはまっていたときに、父とこんな会話をした覚えがある。



佐藤愛子ってすごいね、なんでも書いちゃうんだね。
ありゃあもう、豪傑だよ。
そうなの?
そりゃ中途半端じゃ書けるもんか、あんなものは。
へぇ。
いいことも悪いことも全部書くのは並みの人間にはできんのだ、ワシもできん。



父の言葉にしては正鵠を射て深かったと、記憶に残っている。
全部書くと言うことは
読み手からのどんな毀誉褒貶にも受けて立つ覚悟があると言うことだ。
自分の悪いところを非難批判され、中傷され、
馬鹿にされても一向構わないと言うことだ。

佐藤愛子は本名である。
文藝春秋社の文藝手帳を入手できれば、たいがいの作家の住所はわかる。
(あるいは事務所の場合もある)
実際、どうにかして愛子さんの住所を突き止めて、押しかけてきたり
電話をかけてきて苦情を言ったりする人がいたらしいが、
女史はそれさえエッセイのネタにして、
例のごとく「ケシカラン」とユーモアを交えて怒ったりしていた。

並の人間ではない集大成が、後年発表された「血脈」という作品だったが
あれは読者をして「ここまで書くのか」というほどに
自分の家族親族までも赤裸々に綴ってあり、
「読んでいて不愉快になる」中高年者も少なくなかったという。

というのが今日の書き起こし文である。
思いがけず長くなり、さらに長くなりそうになっているので終了してと。

佐藤愛子をわざわざ持ち出したのは
私は佐藤愛子と違って、書いたものと「リアル」とを隙なくつなげられるのが
あまり好きではないと言うためである。

ブログのお友達でも「リアルな友達」にブログの存在を話して
友達が「毎回読んでくれている」という人がいるが、
私はそういうものが異常なほど苦手である。
リアルな友達にコメントされたりしたら、すくむ。
すくんでしまって、書きたいことの半分も書けなくなる。

私のこの窮屈な性向は、多分子供時代のある経験から起こったものだ。
漫画家を夢見る小学校1年生の私は、毎日漫画を書いていたのだが、
ある日書いていたものを母に取り上げられた。

それは子供がよく想像する身近な世界、
雲子、お湿子、沈子、万個が面白おかしく出てくる漫画で、
ターザンみたいな主人公が、
アフリカで蛇に巻かれて沈子を咬まれて大きく腫れると言う
相当みょうちくりんな代物であった。
主人公が大げさに「うお~~~」と痛がり涙を流し、
腫れてしまった沈子に包帯を巻いていたのだが、
母はその漫画に「複雑な感情」を覚えたのだろう。

私の手からそれを取り上げ、「パパに見せる」と言ったときの母の
怒っているような冷たい目つきを、
小さかった私は恐れ、自分の書いたものが「よくないもの」
「うしろめたいもの」なのだと心に刻み込んでしまった。

それ以降も私は漫画を書き、
やがて大人になってからは小説を書いたりしたけれども、
私は作品を自分と直接関係のある人に見られるのが嫌だった。

小説同人誌に参加していられたのは、
その仲間が私の日常生活とは縁のないところにいてくれたからで、
彼らが普通の毎日に身近にいられると、やっぱり駄目のようだ。

書いた小説やブログを家族に見せたり、
実際の友達に読んでもらったりできるその人たちは
私の抱えるコンプレックスとは縁がないようでちょっとうらやましいのであった。



※文中の文藝手帳は一般に売られていないが、
業界関係者には毎年配布されている。
父親が出版業界にいたのでうちにはそれがあった。
遺品を全部すてたりせず、あの手帳1冊くらい残しておけばよかった・・・

犬が教えてくれるもの

こころ
07 /08 2012
人さまの犬には触らない。
これは鉄則である。

人さまの犬に触りたいときは、飼い主が近くにいて、
「触っていいですか?」と確認し、
「大丈夫ですよ」と答えてくれてなおかつ、
飼い主がしっかり犬をコントロールしている状態でしか触れてはいけない。
これも鉄則である。

犬を飼ったことのない人は、あるいは経験の浅い人は、
「この子は人に慣れてる」と思い込んで
よそ様の犬を撫でようとして、かぷっとやられる。
犬飼から見るとGABUではなくKAPU程度であるが、
初めて犬に咬まれると、痛みと恐怖でその後犬が恐くなる場合が多い。

テレビで人気のあるZIPPEIやだいすけ、まさおくんなどは
他人が突然手を出して来てさわっても、
100パーセント咬まない犬に徹底的にしつけられているが、
基本的に普通の犬は、慣れない人に突然触られたらびっくりし、
場合によっては咬むこともある。

人間が知らない人に突然なれなれしく体中触られて
大人しくしてたらおかしいように、
犬の防御反応もまったく普通のことである。


さて、こんなことを書いているが、私は犬を飼い始めて10年ほどである。
信じられないかもしれないが、犬が我が家に来るその瞬間まで
私は犬が怖かった。

私の母がすべての動物を病的なほどに恐れたため
その子供の私も犬を恐れて育った。
私が子供のころはまだ野良犬がそこら中にたくさんいて、
通学路に犬が現れるたび、走って逃げたものである。
以前に書いたが野良犬が来たので道路に飛び出して私は車に撥ねられた)

そんな私が突然「犬を飼いたい」と言いだした。

なぜ飼いたくなったのか、自分でもわからない。
なにしろ犬を撫でたことさえないのだ。

飼いたいと思ってからペット屋を回った。
私の希望は「ジョジョの奇妙な冒険」にでてきた「イギー」、
犬種はボストンテリアである。
イギージョジョの奇妙な冒険より

犬を飼ったことのない素人はなんでも言う。
「ボストンテリアって外飼いできますか」
と、2ちゃんねるの「ボストンテリア」板に質問した。
当然「お前なんか犬飼うな」の嵐であった。

数名が親切に「ボストンテリアは外で飼う犬ではありません」と
説明してくれたが、まったく心底優しい穏やかな人たちだ。
いま私が同じことを質問されたら「おまえなんか犬飼うな」だ。

とにかくボストンテリアは、うちのあたりのペット屋にはいなかった。

その後、私はなんの気なしに県の愛護団体に電話をした。
すると電話に出てくれた女性が、驚くほど親切に犬の里親団体をいくつも教えてくれ、
今度はそれらに電話をすると、どこもやっぱりとても親切に
すぐに候補の犬の写真を送ってきてくれた。

愛護団体に子犬は初心者には難しいと言われたので、
じゃあ大人の犬でいいですといったのが効いたのだろうと今はわかる。
子犬はすぐにもらわれるが、成犬はなかなかもらってくれる人がいない。
成犬をもらってくれると聞けば、そりゃあもう気合も入ろうと言うものだ。
なので最初の犬がうちにお見合いに来るまで、4日ほどしかかからなかったと思う。

その最初に来た犬が、そのままうちの犬になった。
写真で見たとき一番魅力のなかった犬である。
賢そうでも綺麗でもない、いかにも野良犬上がりと言った犬。
遠くから車に揺られ、げーげー吐きながらやっとうちに連れてこられたが、
やっぱり私は全然魅力を感じなかった。

しかし夫と娘が「いいんじゃない?」と本当に軽い気持ちで言って
「もしだめならすぐ呼んでください、引き取りに来ます」と
里親さんはくどいほど念押ししてゲージごと置いて行ってくれた。
里親さんの車が去っていくとき、犬は引き裂かれるような泣き声をあげたのを
娘も私もいまだに忘れられない。
里親さんも車の中でわんわん泣いていた。

犬が来たそのとき、私は度胸を決めて犬の顔を両手で挟み
ぐしゃぐしゃぐしゃっと撫でた。
あの撫で方を見たら、多分今の私でも「この人犬に慣れてるな」と思うだろう。
なぜあんなことが突然できたのか、やっぱりわからない。

犬を飼いたくなった理由もわからなければ、犬を遠慮なく触れた理由もわからない。
ただ、ことはすべて計画されたように、何の障害もなく速やかに運ばれ、
速やかに決まった。

だから私はこの一連の出来ごとに「神様」がはっきり介入されたと信じている。

いま我が家に犬は2匹いる。
どちらも定まった家のなかった犬だ。

私は数年間愛を注いできた花咲く庭をつぶし、コンクリートで埋め立て
柵で囲んで犬の庭に作り替えた。
なんの抵抗もなかった。

2匹目の野良犬がきたとき、最初の犬が興奮して娘の指を咬み、
娘の爪が剥がれるほどの怪我を負ったが、娘は痛さで泣きながら
「捨てないで捨てないで、保健所に持って行かないで」と必死で訴えた。
(もちろんそんな気はなかったが)

娘の人生に犬は不可欠なものになった。
育てた動物の解剖があると聞いて獣医の道を断念したが、
娘は高校時代まで獣医になるつもりでいた。
朝の6時に学校に行かねばならないときも、娘は5時に起きて犬の散歩に行く。
雨の日も風の日も、台風のときでさえも、もう10年ずっとである。

いま足元にいる犬がもし死んだら、私は学校も仕事も休んで泣き暮らす、
と娘は宣言し続けている。
底なしの愛と、癒しと、面倒な世話と、笑顔を教えてくれた犬だから
最後に厳粛な死と喪失をも娘に教えてくれるはずだ。

とりあえずそれが遠いといいけれども。

リアルな女

いろいろ感じたこと
07 /09 2012
「それだけは勘弁して下さい、無理ですって言いますね、私なら」
と、昨日の礼拝の説教で牧師が言った。

「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ」と
神様に命令されたとおり、そういう女を妻に持った男ホセアの話が
説教中に出てきた、そのときの発言であった。

神に従うホセアは猛烈姦淫女と結婚し、他の男との子供までも育てることになる。
しかも姦淫妻は夫と子供を置いて愛人を追いかけて出て行った。
しかし愛人に逃げられた姦淫妻は夫ホセアの元に戻ってくる。
ホセアは散々な苦しみの後、微笑んで妻を迎え入れる。
しかしまた妻は愛人を追いかけ出ていく。
ホセアは妻を待っている、苦しみ悲しみながら、許そうとして待っている・・・

というようなわけで、こんな状況は誰だって避けたいのは当然であろう。

ところで私は牧師の話を聞きながら、
「姦淫女」と知りながらその女を愛してしまう男の苦しみとは
やっぱり相当大変なのだろうな、と思っていた。

(聖書はホセアのように、浮気女イスラエルをいまも愛し続ける神様、
自分の元に戻ってくるのを忍耐強く待ち続ける神様を書いているわけだが)

ちょうどいま知り合いが書いているネット小説が似たような状況で、
お尻の軽い女と知りつつも、
その彼女に完璧に心を奪われてしまった主人公の苦しみが描かれている。
主人公と作者である知り合いが激しくダブるので、読んでいて心配になるので困る。

人間の苦しみにもいろいろあって、
私はその手の苦しみに出会ったことがないので、それがどれほどのものか
全然わからないのだが、
牧師が「できません!」ときっぱり言うほどに、
それは、自尊心と支配欲からなる男性諸氏にすれば、
自身を打ち砕くほどの苦痛、悲しみなのかもしれない。
(もちろん純粋な愛情の悲しみもあると思うけどね)


ええとそこから話を展開させて・・・

小説と言えば、女の描く男、男の描く女は、
どちらも「想像上の異性」になりがちだというが本当だろうか。
以前新聞で宮部みゆきの小説について書かれた論評に
「現実にはこんな男はあり得ない」が「話として楽しめる」とあった。

なんだか宮部みゆきをけなされたようで、嫌な感じがし、
男が書く小説に出てくる女のありえなさについて、
「こんな女ありえない」が「しょうがないか、理想化してるんだから」と
上から目線で斎藤美奈子、上野千鶴子あたりにやっつけてほしいと思った。

まぁ実際、異性がリアルで無い小説はざらである。
私は女なので、女を描いている男性作家の小説の「作り物の女」にはよく気付く。
だから女を描いてリアルな男性作家のものには非常な敬意を感じる。

リアルな女をリアルに描ける男というのは
やはりそこそこ女で痛い目を見てきた作家だと思うのだ。
トルストイの描く女が「これマジ男が書いたんですか」というほど
リアルで見事なのは
(アンナ・カレーニナのアンナの心理描写を見よ!)
トルストイの妻が有名な悪妻だったからかもしれない。

トルストイをはじめ、スタンダール、フローベールなど
わがままで自己中で浮気性の女を描くとなぜか筆が冴える。
彼らにはそれぞれ、個性的な女性との恋があったらしい。

ドストエフスキーなんかは女ではさほど苦労していないのだろうか、
いくら浮気女を描いても、ほかの登場人物に比較すると、
登場シーンは多いくせに、「こりゃすごい」というほどには女の心理をつかんでいない。

と、自分を振り返ったところ、
浮気男とつきあったことが一度だけあるが、
恋よりも自尊心を選んでこっちから捨てたので、それらしい苦労はしていない。

だから私がもし小説を書いたら、本当の男は書けないんだろうと思う。
書けないくせに、本屋で売ってる小説に
あんまり都合のいい女が出てくると、作家に向かって
「バカ野郎」と思ってしまうのである。

わっはっは、とりとめがない。
自分が出来ないことを当たり前のように強気に他人に要求して平気。
間違ったこととも思っていない。
これぞリアルな女である、わっはっは。


一生続く趣味が欲しい

ハンドメイド
07 /10 2012
きりえ1

切り絵をやってみた。
右から柳と燕、左はもちろん朝顔である。

うまい。
天才かもしれない。
隠れたる才能が今開花したところ・・・・というのは嘘で
これは100円ショップで売っていた切り絵の本を買ってきて、
点線の通りに折りたたんでハサミやカッターを入れて作っただけである。

10分くらいで出来上がり、しかもけっこう素敵に出来上がるので
大変うれしい。
暑中見舞いに貼ってみたりすると、案外素敵なカードになりそうだ。
(暑中見舞いそのものを出さないけれども)

私はこういうチマチマした趣味が好きである。
モンゴルのいろいろな刺繍をテレビで見て、刺繍をやりたいと思い
若いころに腕に覚えのあったクロスステッチを始めたが、
この年になるとさすがに目が疲れて続かない。
2時間でお手上げであった。

刺繍は大概細かい趣味であるが、もっと細かくて遅々として進まないのは
レース編みだと思う。
有り余るほど時間の合った入院時代でさえも
レース編みには非常に根気が必要であった。
私の場合、レース編みに比較したら、極細毛糸でセーターでも編む方が20倍くらい楽である。

私は趣味に憧れる人間なので、いろいろなことをやってみたがる。

入院中に覚えた手芸の他には、
一戸建てに引っ越してしばらく夢中になったガーデニング、
それから一時短歌にも凝っていた。
書道はこの6年ほどならっているが、家で練習しないのでうまくならない。
ペン習字を通信教育でやっていたが、日頃手書きをしないのですぐへたくそに戻った。
ジグソーパズルに燃えたこともあって、一日10時間でもやっていた。
ドールハウスを作りつづけた時期もあるし、
ブライスというお人形の服を縫っていた時期もあった。
刺し子もやった。
もちろん洋裁もやった。

しかしそのどれも一生続く趣味ではないような気がする。
思い出したように励むこともあるが、それが続くことはない。
飽きっぽいのだな。

だから鉄道模型だの草野球だのを生涯の趣味と出来る男性が、ちょっとうらやましい。
なにか一生続けられるような趣味を今現在も探している。

切り絵は楽しいけれど、これは趣味にはならないと思う。
きっと切り絵の本の全作品を終えたらそれでおしまいになるだろう。

この趣味はどうだ!
というのがあればぜひ教えていただきたい。
ただし運動系は除外。

疲れたる夫に

こころ
07 /12 2012
現在職場。

職場にいると夫がかわいそうに思えて仕方がない。

彼の仕事は車の部品を作って納めること。

切断し、曲げて、溶接して、トラックに乗せて2時間かかるメッキ工場まで運ぶ。

雇っている工員はたった一人になった。

5月まで配達や一部の仕事を引き受けていた義父はもはや隠居状態で会社にも来ない。

夫は黙々と真夏の工場で長袖を着て溶接をする。

汗で作業着が濡れて、日に3回も取り換える。

いつも納期に追いかけられている。

借金はない。

でも儲けはない。

ボーナスももらったことはない。

今年に入ってから休みらしい休みがない。

平日は朝の7時には会社に来て夜の8時まで働いている。

残業手当なんかない。

誰も偉いとほめてくれない。

頑張ってるねと言ってくれない。

男の人はきっと多かれ少なかれ、そんな風に身を削って働いているんだろう。

夫はいつまでこんな日々を続けられるんだろう。

ただ健康であってほしいと願う。

こんな日々がいつか終わるとして、彼が倒れて終わるなんてことがあってはならない。

お酒もたばこも過ぎているけれど、
お酒を飲んで機嫌をよくして、げらげら笑う夫を見ると少し安心する。

かわいそうだなぁと思う。

かわいそうだなぁと思う。

むかし私が恋をした、元気で明るい青年は、
いまいつも疲れて、溶接焼けをした赤黒い顔をしている。

彼はもはや私を抱きしめることも、キスすることもしないで、
ただ眠りと休息を求めて家に帰ってくる。

たぶん眠っている額に私が手を当てることさえ嫌がって、
疲れてる、というのだろう。

かわいそうだなぁと思う。

休ませてあげたいなぁと思う。

あとどれくらいこんな日が続くのか。

ただただ健康で、ただただ健康でいてほしい。

いまはもうそれだけしか思えない。





疲れたる夫(つま)の背を見る 夏あらし ただ息災を願ふ夕暮れ

私の居場所はどこだろう

本にまつわる
07 /13 2012
内容:要するに寂しいよ~、誰も自分と同じところにいないよ~というもの。

後記:あっぷるパイさんがコメントをくれて、なんだかすっきりした。
自己を満たすものを探すのは自分であって、見つからないとしてもそれも自分の責任。

そもそも自分の求めるものを他者に依存する思考がいけない。

読み返してみて、なんと甘ったれた青臭い記事を書いたのだろうと思う。
ご迷惑不愉快を感じられる人がいるかもしれないので削除。

ただ、求めるものそれ自体が驕慢な思いから出たものであるとすれば
求めることは間違っている。
求めるものも、求めることも、求める相手も、そもそも自分も間違っているのだ。

後記の後記:ただしく公正な思考によって注意される、
間違いを指摘されるというのは嬉しいことだ。

この年になると、周囲の人が私を諭す教える注意するということをしてくれなくなった。

だから今日さっき私の陥っている甘ったれた依存嗜好を
自主自律自制によって諭されたのが、大変新鮮で嬉しかった。

わけのわからない日記になった、すみません~



「高慢と偏見」に見る愚者の存在

本にまつわる
07 /15 2012
イギリスでは今もジェーン・オースティン作品のための「読書会」が
当たり前のように開かれている。
参加者は男性ももちろんいるが、主に女性で、
作者のいわゆる「結婚物語」と言ってもいい作品群を読み、
意見の交換をするのが目的だそうだ。

先日ネットのお友達のUさんがオースティンの代表作「高慢と偏見」
(あるいは邦題「自負と偏見」)を読んでくれた。
私が「おもしろいおもしろい」と言うので、なんだか仕方なく着手してくれ、
意地で読み終えて下さったが、「あかんわ、読むの辛いわ」だったそうだ。

Uさんの書いた感想やコメントから察するに、
作中に登場する複数の「教養ある振舞い方の出来ない人たち」に対する
強烈な揶揄、皮肉に非常に「きつい」ものを感じられたようだ。
(きっと不快の感覚なのだろう)

イギリス文学には伝統的に「間抜けな悪役」「愛すべきおバカさん」
「手に負えないおバカさん)」「意地の悪いおバカさん」
などの愚者が登場して、読者を笑わせたり、
「いるいるいる、こういう人!」と思わせたり、
「邪魔くさい、早く消えてくれ」などと思わせてくれたりするようだ。

ハリー・ポッターにもこの手の登場人物が複数作られていたので
そのあたりを想像していただけるとわかりやすいかもしれない。

Uさんは、そういった「愚者」の役をする人たちに対して
「作り出して笑いものにするってのが・・・」と述べ
私はなにか彼女の経験による思考(嗜好かも)があるのだな、と思った。

フランスの文学作品群、あるいはロシアの文学作品群において
愚者は社会にはじき出され、どん底を味わい、最後は殺されたり、
のたれ死んだりもするひどい扱いを受けることが多いのだが、
イギリスの作品群における「愚者」の扱いは
むしろ世の中に花と色と面白みを添える存在として重宝され、
作中での彼らはさして苦境に陥ることがないものも多い。

私はオースティンの「高慢と偏見」において、
数多くの愚者をありありと見せつけられ、「もうおなかいっぱいです」状態にはなったが、
彼らが最後の最後まで「愚者」を押し通し、
しかも本人は自分たちを「賢くてそこそこ立派な生活者」と自認していることに
世の中にある「リアル」を感じ、
作者オースティンが苦笑しつつも彼らを受け入れ、
やれやれと仕方なしに愛おしんでいる感を覚えた。

私は「高慢と偏見」に、そのような愛すべきジェントリ社会の鷹揚さを見、
「これからもきっと少々問題があるし、それは決して解決しないだろうけれど、
人生は意外に楽しいものよ」と言った楽天的で前向きなメッセージを受け取った。

ただしである。
本作品は1800年代イギリスの地主階級、あるいは貴族と言った人々が描かれており、
そこに依存するゆえの楽天性は否めない。

(フランス、ロシアは革命によって地主、貴族の階級は没落する場合もあったので、
従って文学作品中の(元貴族の愚者も含め)愛すべき愚者に貧しさや死という
社会の厳しい鉄槌が下されることも多い)

さて、話がどんどん堅くなるので(もはや読むのを辞めた人がたくさんいるに違いない)、
方向を変えようと思う。

作者が愚者を作り出してそれを笑いものにすることが、
優しいUさんにはたまらなかった。

では、作者が登場人物をぱっぱと殺していく小説はどうなのだろう。
あるいは主人公がとんでもない試練に遭い、最後に救いのないまま命を落とすものは。

私はUさんが小説をお書きになるのを知っていて、
彼女の作品をいくつか読ませてもらっているが、確かに愚者は出ない。
意地の悪い人も出ない。
みんな優しいのに、誤解やすれ違いで悲しい状況になったりする。
けれども確か、死は出ている。

Uさんは以前ブログに夫婦二人で飛行機で死ぬのが一番いい、
(旅行保険、保障、散骨もしないですむ、子供に老後の面倒をかけないですむ)と書くような、
そんなニヒルな事を本心から考えている人だから、
「笑いもの」になるよりは「死ぬ」方がマシと思うのかもしれない。

Uさんのこれまでの人生経験が、そういう答えを出したのだと思う。
私はそれを尊重しよう。
Uさんはいわゆる弱者(あるいは愚者かもしれないね)と呼ばれる人たちに、
いつも優しい、柔らかな視線を注ぐ人なのだ。
私のように面白がったり「しょうがねぇなぁ」と笑ったりはしないのだ。

ただ、私はどれほど恥をかこうが、バカにされようが「生きる」人たちが好きだ。
だから「高慢と偏見」の愚者たちが、
相変わらず愚かなまま、逞しく賑やかに生活をしていく終わり方は、大好きである。



(大方の人間は神様の前では馬鹿以外の生き物ではない。
けれども神様はこの馬鹿たちに対して尊い価値を持つ者としてくれる。
でもきっと「やれやれ」なんだろうね)





ちょん切る

本にまつわる
07 /17 2012
新聞小説を連載最後まできっちり読んだことがない。

荻原浩「愛しの座敷わらし」も吉田修一「悪人」も
宮部みゆき「理由」も桐野夏生「メタボラ」も
み~~~~~んな途中で飽きて辞めてしまった。

私は新聞連載のような少ない分量を、日々に読み続けるのがとても苦手らしい。

先日まで連載されていた奥田英朗の「沈黙の町で」も
とりあえず読み始めたのはいいが続かなかった。
(奥田英朗だからもっと軽いかと思ったんだが・・・)

というわけで「沈黙の町で」がいつの間にか終わっていて
昨日見つけた。
とっくに筆を折ったとばかり思っていたが筒井康隆、
また書き始めていたのか。
で、筒井康隆の軽妙洒脱当意即妙を期待しつつ読んでみた。

昨日は連載の第4回目、
話はたいして進んでいないだろうと思っていたが、
読んだ途端にげげげっとなった。

天使のように美しい美しい美しい5歳の少年が
変なオヤジに押し倒されて、
変なオヤジは「切断したばかり」の「子ネズミの死体のような」ものを
持ち去るのである。

げげげげげげげええええええええええっ!

思わず遡って4日前の朝刊から読んでしまった。

「夢のようなボーイズ・ラブ=BL」に対する「リアルな男色」でも描いて
あくまで嘘の世界を慕う乙女たちの
「綺麗なボーイズラブに対する夢」をぶち壊すつもりかな? 
などと浅薄なことを最初は考えたのだが、
そんなくだらないことのために
筒井氏は一度折った筆を再び握ったわけではないだろうと思えて来た。

切断されたその部分のことを成長した主人公は「聖痕」と呼ぶ。
しかも主人公の言葉から伝わる重々しさは、怪しい宗教の教祖にでもなるんかい、
と質問したくなるほどだ。
どちらにしても天使のような美少年は、相当危険な人物に成長しているのだろう。

これまでも筒井康隆は「ちょん切られる恐怖」を作品化してきたが、
今回最後の長編と銘打って、「ちょん切られたその後」がどうなっていったのか、
を描いてくれる模様である。
非常におっかないものになりそうで、
今回こそは新聞小説を最後まで読み切ってみたいものだと思っている。
(それを裏切って楽しむのも筒井氏にはあるかもしれない)


話変わって。

帰りが遅くなりピアノを弾く時間も確保できない娘のおかげで、
ピアノがさびしそうに見えたので、私が弾くことにした。

家にある楽譜を引っ張り出して、簡単でゆったりした曲を探し、
松任谷由美「優しさに包まれたなら」に決めた。

半年くらいですらすら弾けるようになることを目指し、
のんびりやっていこうと考えている。

新しい趣味になったら、うれしい。
(無理だろうな)