本を読んでもボケます

本にまつわる
09 /01 2012
暑いと本が読めない。

と、読書への興味減退を暑さのせいにする卑怯ものの私である。
この夏は本当にろくな本を読まなかった。
2冊を除けばすべて再読、しかも読みやすいと分かっているものしか読んでいない。
こんな状況であるから認知症になりかけている。
本を読めば認知症にならないなどと思っている人がいるとすれば、
あるいは書いているとすれば、それは誤りである。

私の父は爺さんになって家でぶらぶらしている間、入院するまでずっと
毎日10時間以上は本を読んでいた。
新しい本ではなく、読み慣れた時代小説を毎日毎日読み続けていた。
70過ぎて毎日10時間以上も本を読むことが出来るのは、
暇だからには相違ないが、普通の人間にはなかなか難しいだろうから、
父の場合は、もはや職業病だったのではないかと思う。
活字を読むことで父は「なにかしている気分」になれたのだろう。

でもボケた。
死ぬ半月前にはきれいにボケて、入院中の病室に犬が隠れているとか言いだした。
まぁ、死ぬ前だったので、元気に生きている母が脳だけボケているのとは
ちょっと異なるが、ボケたことには間違いない。

なんでもすでに知っている話を読むのと、知らない話を読むのとでは
脳の動きが違うものらしい。
また、黙読と音読でも、これもずいぶん脳の動きが変わる。
知らない話を音読するのが、脳への刺激にはとてもよいのだそうだ。

私はこの夏、半日で読める文庫本を2冊購入して読み、
あとは全部、山本周五郎の再読で済ませてしまった。
周五郎作品の大半は時代小説で、
この夏私が読み返したもののなかには現代小説は2作品しかなかった。
もちろん音読していない。
死んだ父親と、まったくそっくりではないか。

(父は周五郎でなく、希少な春陽堂の時代小説、山手樹一郎を特に読み返していた。
ちなみに山手樹一郎でよく知られているのは、あの「桃太郎侍」である。
周五郎が好きなのは現在ボケボケになっている母であった。
私には双方に妙な一致がある・・・・(-_-;))

これではいけないと思い、ちょっと文学を読むことにした。
太宰治の薄っぺらい文庫と、森鴎外の薄っぺらい文庫である。

昼寝で夜に目がさえているので、ちゃんと読めた。
だが読んだら疲れた。
再読なのに!!

ちょっと話がそれるが、書きたいので書いておこう。
森鴎外の「高瀬舟」という作品が、安楽死の是非を問う作品だなどと言われて久しいが、
私は昨夜の読書では、この作品のなかに「是非」など見なかった。
鴎外は安楽死に「非」ではないと思う。

なので「高瀬舟」に関して私の感じたことは、むしろ
安楽死、尊厳死、と言った問題うんぬんよりも
(そもそも安楽死ではなく、あの例では自殺ほう助だと思う)
遠島となった喜助が、ちっとも不幸でも寂しそうでもなく、
むしろ恵まれた環境へ向かっていくという喜びに満ちている、そのことのほうに
感じるところが大きかった。
この感慨は、かつて「高瀬舟」を読んだ当時には持てなかったものであり、
脳の動きがおろそかになりつつあっても、
まだ経験による思考の発展があるとわかった。

ついでに、太宰治「駆け込み訴え」であるが、あれを太宰の最高傑作だという人が
私にはちっともわからない。
わが敬愛する亀井勝一郎は太宰の友であるが、その亀井によれば
太宰はキリスト教、聖書に深く通じていたと言う。
しかしながら、聖書に深く通じていたにせよ、
信仰なしに理解してしまった(気になっている)者がよく陥る場所に、
太宰も陥っているようであった。
ユダの始末をきっちり付けずに終わっているのは、
太宰にはユダの死までを描き切る力が(二通りの意味で)なかったのかもしれない。

(太宰は当時病床で、この作品は口述筆記であるし、内容的にも
気力を必要とする作品だったことは間違いがない)

さて、話をまた元に戻すとして、音読、である。
読んだことのない話を声に出して出して読んでいくと脳によいのであるが、
それには新聞を音読するのがよいのだという。

最近は、正直新聞を読むのが苦痛になるようなニュースが多すぎて、
音読したら怒り出しそうである。
怒って読むと脳の刺激にはなるだろうが、血圧と心臓によくない気がする。
むかむかして汗もかくから、暑くなって、余計に腹が立ち、不愉快になる。
テレビをつければ韓国ドラマが全然減っていないので、これにも釈然としない。

そういえば新聞の連載小説なら音読も出来るし、話も新しいじゃないか!
などと思ってみたものの、いま読んでいる「ちょん切られたる美貌の少年」の話は
音読するには、内容的に問題が有るやもしれぬ。

(ちなみに中国の宦官にも性欲はあったのだから、主人公に性欲がないのは
どうも納得しづらいし、私と同時代の少女にシスター傾向があったとは思えないので、
このあたりも釈然とせず、暑さが増しそうである)

夜になって気温が少しは下がってくれた。
さあて、眠るとするか。
あっ、漱石の明暗、まだ全部読み終わっていなかった。
だってちっとも面白くないのだ。
最高傑作だという人もいるのに、私は脳のみならず感性までもが劣化している模様である。





スポンサーサイト

へちまの種とりが好き

ガーデニング
09 /03 2012
育ったへちまをひと月余り水に浸し、ふにゃっとしたら皮を剥く。
この状態のへちまは剥くというより、皮は卵の殻みたいにぽろぽろ取れる。
そして日に当てて乾かす。
で、繊維だらけの乾いたへちまから、黒い種がたくさん落ちるのだけれども
それが非常に面白く感じるのである。

ちょっと揺らせば、ぱらぱら落ちる種もよいが、
複雑に絡み合った繊維のなかに隠れるように、根性で粘るように
実から離れていこうとしない種もあって、
それを探ったり、ほじくったり、へちまの繊維を揉みしだいて押し出したりするのが
癖になりそうにおもしろい。
むふふふふふ、出る出る出る出る、種が出るぞ~~~

あのプチプチつぶしの感覚と似ているのだが、
ふっふっふ、やってみたくても出来ない人の方が多いだろうな。

へちま育てるべし。
1~2か月へちまの実を水に浸すのが面倒な場合は、熱湯で20分くらい茹でるだけで
皮はきれいに取れるのだそうだ。
(卵の殻みたいにぽろぽろ取れそうにはないが)
柔らかいゆでたてを揉んで種を取るのもいいけれど(やけどするが)
やっぱりここは自然乾燥させて、それから種を取るほうがいい。
だって楽しい。
可能なら、種が落ちる場所を、タンバリンの上だとか
あき缶の上だとか、きれいな音のするところにすると楽しい。
種がタンバリンの上に落ちると、軽くて乾いたかわいい音がするだろう♪

今日種を取ったへちまは一番小さい実で、
もっと大きいものも、へちまたわしにする予定である。
短く切ったりしないで、大型の長いまんまに乾かして、
ざらざら種を出してみたい。
ぐしゃぐしゃとモミモミモミモミ・・・・・
で、下を向けるとざらざらざら~~~~~~~と黒い種♪

たっ、たのしいっ!


本気の主婦業とは

いろいろ感じたこと
09 /04 2012
朝のドラマでいつも思うのはわき役の重要さである。

梅ちゃんは努力家で、まっすぐで素直で、とてもかわいいが、
あのドラマのなかで私が好きなのは「お母さん」である。

気難しくえらぶっている梅ちゃんの父と添い遂げて何十年、
あのお母さんはかなり耐えて、いつもニコニコして、
地味に支え役に徹して、文句のひとつもない。
(先日ようやく謀反を起こしたけれどもww)

そういえばカーネーションでも、糸子ちゃんのお母さんののんきさ優しさには
本当に救われた思いがした。
仕事で猛烈に忙しい主人公の代わりに、子供たちと遊んだり、
ふざけ合ったり、笑ったりしていたあのお母さんの存在。
あのお母さんがいなかったら、仕事一筋の糸子ちゃんの家の中は殺伐として、
子供はまともに育たなかったことだろう。

ある人がブログのなかで、
主婦の仕事を「仕事より簡単」ということばを用いて表現していたが
その簡単な主婦業を40年も50年も続けることの難しさには
なぜ気付かないのだろうと思う。

仕事の多くは、給料があり、成績があり、直接的な成果がある。
しかし、主婦の仕事にそれはない。
お給料はなく、褒められることはなく、結果が出るのは数十年後だったりする。
あるいは最後まで結果という形では見えないことさえある。
ついでに言うと、夫には「お前は楽でいいな」と言われ、
働く同性からは「主婦っていいわね」と軽視される。

それらの人には数十年間、一切褒められることのない働きをし続ける忍耐力と、
終わりのない不毛さには気付いてもらえない。
だが、家のなかにそれをする人がいなかったら、子供の育つ家の中はめためたになる。

主婦の仕事はほとんど全部が自分のためではない。
全てが家族のために行われ、就業時間の制限もない。
主婦の仕事は功利性でも合理性でもなく、寛容さと愛情によってのみ、可能なのだ。

さらに、主婦も超一流になると、
その主婦仕事は、世の中の仕事に比肩して遜色がない。
料理にしても、家の中の生理整頓にしても、掃除にしても、
抜きん出れば、世の中はそれに高額な金さえ支払う。

主婦の仕事を「仕事より簡単」という人は多分
本気で主婦仕事をした覚えがないのだろう。
成果のまったく見えない責務に耐えうる力も持ち合わせぬのだろう。

それでもきっと「主婦業なんか」と嘲笑する人がいるだろう。
それらの人たちはきっと、「簡単な主婦業」「手抜きの主婦業」しか見てこなかったのだ。
家を整え、家族のために尽くしてきた、きちんとした母親に育てられた子供は、
主婦業を軽んじるはずがないからである。

相席の下心

出来事から
09 /05 2012
銀行に行き、郵便局に行くためにも車が有ると便利という地域に暮らしている。
(駐車場には困らない地域ともいう)
いつもは頑張って45分歩いて郵便局と銀行を往復するのだが、
昨日は娘が珍しく家にいたので、車を出してもらうことにした。

郵便局に行って、銀行に行って、
ついでに衣料品を売っている「しまむら」もどきの安い店に寄ってもらった。

実はグループホームから母にTシャツを購入してくるよう言われていた。
Tシャツをパジャマの上衣に使いたいとの意向だった。
なんでも母のパジャマの上衣がいつのまにか無くなっているのだそうだ。
実はこれで3着目になる。

母は衣料関係にはうるさい人で、いわゆる高齢者向きのパジャマなどは大嫌いなため
若い子でも着られるような可愛い柄のパジャマばかりを持って行っているのだが、
他の入居者には多分それが目につくのであろう。

ホームの職員は言葉にしないが、多分それらは同じホームの入居者によって
盗まれてしまうのだと思う。
母の荷物にもときどき見知らぬ人の手袋やバッグが入っているのだから、
きっと同じだろう。

(それらは母好みの若々しい柄のものが多い。
毛糸の手袋は一般的に若い柄が多いので、
ホームで目に入る毛糸の手袋は母にとってことごとく魅力的らしい。
でも母は「そんなの知らない」「勝手に入ってた」としか言わない)

と、いうことで、買ったTシャツも当然若い子向きのものにした。
2枚ともスヌーピーがでーんと胸に描かれている。
痩せた老人の体には大きく開いた襟ぐりのものは無理であるし、
すでに半そでTシャツ自体数枚しか売られていない状況なので、ちょっと探した。
スヌーピーの描かれている正面に、
SNOOPYのロゴと同じくらいの大きさで「パジャマ」と書き、
母の名字をでかでかと書いた。

昨日の夜から80代の母はスヌーピーを着て眠ったことだろう。
(ところで高倉健が81歳ってすごい。
どうもジジイだなぁと思っていたが81じゃしょうがないね)

グループホームの後には
ちょっと離れた地域の特大ホームセンターに
年をとってときどきおなかがゆるくなった犬のための薬を買いに行った。
(犬のための納豆乳酸菌の薬で、それを使うとウンチがしっかり固まる。
獣医に行くより安くつく)

売れ残りの犬たちに哀れを感じつつ、
(15万円の柴犬が12万円引きになっていた。
もはや子犬ではなく若犬のレベルだった)
ちょっと歩いてフードコートまで行った。

昼なので少し混んでいた。
娘はすぐにうどんの列に並び、先に購入して4人がけの空いた席にすわっていた。
私は少し遅れておにぎりを買って席に行った。

と、娘の隣に見知らぬおっさんが相席していた。
そして娘にフードコートの無料ドリンクバーチケットなどを渡していた。

混んでいると言っても、相席するほどテーブルが足りなかったわけではない。
空いているテーブルも何卓かあった。
おっさんは40代になったくらいだろうか。
どうみても、選んで、うちの娘の隣に座ったようだ。

そこへ娘の母が(つまり私だ)やってきて、娘の正面に座った。
私の隣にもおっさんの連れらしい、30代くらいの男が座ったが、
おっさんもその男も、以降、娘に視線を向けもしなかった。

私と娘は向かい合って食べ、
くだらないことをべちゃべちゃしゃべって、さっさと食べ終え、席を立った。

「アンタも男に狙われるようになったんだわねぇ~」
「あらそう? なんで隣に来るんだろうと思ってたけどさ」

「まさか母親が来るとは思ってなかったんだろうねぇ、ケケケ」
「だねぇ、なんかそっぽ向いてたよね」

「てかさ、思わず守りの体制に入っちゃったわよ、アンタさぁ隙があるんだよ」
「そうかなぁ、別に狙ってたとは限らないんじゃない? 偶然かも」

「婆さんが一人で食べてた席もあったし、
2人がけの空いたテーブルもあったのになぜアンタの隣に来るのよ」
「そっか・・・へぇ~~~」

「へぇ~~~、じゃないっ! パパに報告したらきっと機嫌悪くなるよ~~」
「そうかなぁ」

そうかなぁ、どころではなかった。
夕食時に、何気なく軽く話してみたところ、夫は憮然として
しばし言葉も発さず、不機嫌極まっていたのであった。

先が思いやられる。
(女に隙がないと男が近づいてこないとは思うのだが、
あんまり変なのに近付かれても困るのであった)





だらだらの朝

いろいろ感じたこと
09 /06 2012
昨夜、北野武の「アウトレイジ」を地上波で見たのだけれど
暴力シーン描写がことごとくカットされていたようだ。
(放送倫理ってやつでしょうね。そもそも、あの映画は地上波向きではないと思う)

それにしても、なぜこんなにひどい暴力シーンばかりの映画が外国で受けるのだろう。
お話その物は面白いのだけれど、やたらに残虐な暴力シーンを描くのは、
タケちゃんの趣味なのだろうか。

タランティーノだってここまでリアルにひどい殺し方はしないと思う。
リアル世界で真似をされたら、非常に恐ろしいレベルだ。
見てしまう私もナンだけれども、この手の映画に拍手喝采して喜ぶ人たちは
いったいどういう感覚の持ち主なのだろうか。
あくまで「作り物」として見ているってことなのだろうけれど、
それでいいのかなぁ・・・・という気持ちがしなくもない。

ところで昨日はいろいろな人に会う日だった。
心に病気を抱えている人にも2名ほど会った。

その人の話を聞いた。
とある大物有名人が自分のことをひどく中傷するのだという。
自分には才能も有るし、努力も怠らないのに、世の中が自分を見捨てているのは、
ある大物数名が自分を目の敵にして、邪魔をしているからだという。
ある宗教団体が自分の成功を妬んでいるとも言った。
その世界的な罠から自分は逃れることが出来ず、もはや死ぬしかないのだという。

こういう話を聞かされた場合、「死んではいけません」などと言えるだろうか。
通り一遍的に「死んではいけない」というのは簡単であるが、
果たしてそれが本心から言えるだろうか。
正直に書くと、私には言えない。
「死んでしまえ」とも言えないけれども。
その手の人の話は、ただ聴くのみである。

ところでところで、最近の私は鼻詰まりがひどい。
最初のうちは風邪かと思っていたが、様子を見ているとどうもアレルギーの気配がしてきた。
今朝起きたら目まで痛くて、涙が出ていたので、間違いなさそうである。

二年ほど前から劇薬を使って病気治療をしているのであるが、
それを始めて以来、いろいろなアレルギー症状が出ている。
まず皮膚に出た。
アトピーなどなかった私の皮膚は、いま部分的なアトピー症状がひどい。
耳のうしろはいつも裂けているし、(眼鏡の刺激もあるだろう)
下腹にあるストーマ周囲はいつも血まみれ、落屑まみれでのバリンバリンになった。
髪のなかにも湿疹が出来て、おかげで少ない毛髪がさらに減っている。
冬二月ごろにピークだった花粉症が、今回夏にも出てきたということは
ヨモギやブタクサといった雑草の花粉症かもしれない。

劇薬の治療をやめたら多分これらアレルギーは収まると思うが、
それをやめて出てくる持病の症状の方が、アレルギーより重篤である。
少なくともこうしてへろへろ家にいることは難しいだろう。

痛いだ痒いだと言いながら、とりあえず普通に近い状況で生活していられるのは
私にとってはとても幸福な状態である。
もちろんどこも痛くもなく、痒くもなく、なんでも食べられる生活は素敵だろうが、
そんな体は35年ほど前になくしてしまった。
無ければ無いで、けっこう満ち足りて暮らしていけるものである。
すべては心ひとつなのだ。

しかし、ああ、目が痒い、鼻が痛い、
おなかの皮が痛い、耳の後ろが痛い、
ストマの中身が邪魔で鬱陶しい・・・・wwww

理解出来ないものはとりあえず

こころ
09 /08 2012
理解出来ないことを、理解出来ないままに受け入れよう・・・・
と、先日ここに書いたような気がするが、
おばさんは、そういうことをするのが苦手である。

理解出来ないものは、とりあえず否定的に見ておくと
なーんとなく心が落ち着く。

(理解出来ないこと、分からないことに出会ったときは、
とりあえず「怒る」と言う男友達がいる、性差かしらん)

で、まず今夜夫と話に花が咲いた一事から。
「電車や道端で、必要以上にべたべたしている男女双方に
『ブ』の文字がつくのはなぜか」である。

夫は今日ラジオでその話を聞き、いたく共感したのだそうだ。
「男の顔はゴジラだった」そして
「女の顔はキングギドラだった」とか。
ゴジラ対キングギドラ!
まったくなんという迫力だろう。
でも個人的に女がキングギドラなのはまだいいような気がする。
東京タワーでさなぎになる前のモスラだったら、もっと怖い、えぐい。

実際、私も最近「ブ」のつく男と、「ブ」の上に「デ」までつく女が
スーパーへの途中の道路で、ぴたっと身を寄せ合って、見つめ合い、
べったべったにいちゃついているのを、目撃させられた。

「ブ」の上に「デ」をつけた女は、いわゆるアヒル口になって
「ブ」のつく男の胸に抱かれながら、
「だからぁ~、今はだめだからぁ~」などと甘ったれ絡みつくような口調で話していた。

・・・・見たくない。
私は、きれいな男女のラブシーンなら許容もするし、
敢えて見つめてくれと言われれば、じっくり観察してもいいが、
なぜ、なぜなのだろう、
電車や公道でみっともないほどいちゃついている連中はだいたいが
「ブ」や「デ」の付く連中ではないか。
そんなものの絡みなんか、私は見たくないぞ。

理解出来ないので、勝手に理屈をつけて考えて、落ち着こうと思う。

「ブ」の付く人たちはきっと、日頃から願っているのだ。
「私だって人にうらやましいと思われたい!」
「おれだって女がいるんだって見せつけたい!」

それ、迷惑だから。
見えないところで幸せをかみしめてくれればいいから。

「私たちの幸せをおすそ分けしてあげようと思って!」

そのおすそ分けいらないから。

あの手の人たちの異常ないちゃつきの見せびらかしは、
まぁ要するにコンプレックスの裏返しなのだろうということにした。
もっと自信を持とう、だから見せびらかすのはやめよう。
もうそれ害毒の垂れ流しだから。

まぁ、今夜はなんて口が悪いのかしら。
調子に乗りすぎかもしれない。
でもついでだからもう一つ。

愛に飢える男性の女性に依存する傾向(いわゆる女性遍歴)について。
たとえば親の離婚だとか、母親がいないとか、愛情を注がれずに育ったとか、
それを「女性に依存する」理由にあげる場合があるが、あれも少し変だと思う。

まことの愛と優しさを求めて女を渡り歩く、などというが、
たかが数回のセックスで、「まことの愛や優しさ」を得られるわけがない。

普通の女は「持続的」「安定的」なものが好きだから
流動的で不安定な、渡り歩く男に「まことの愛」なんか捧げるはずがないのだ。
だって安定持続がないと、人間の女は子供を育てられない。
それは動物行動学的な理由として容認されている。

まことの愛、母親が子供に与えるような無償の愛を求めるにしては、
「女性遍歴」というのは、どう考えても間違った方法だと思うのだ。
子供はなにもしないのに無償の愛をもらえるじゃないか、というなかれ、
子供はその存在だけで母親の喜びなのだから、ちゃんと母親に喜びを与えているのである。
それをあなた、ほかの女を渡り歩くような男が期待したって無理な話なのだ。

女はもともと計算高い生き物なので(その能力に欠けていると子供が育たない)、
安定と保護を持続的に与えてくれる相手を好む。
要するに、大人の男が好きなのである。
いつまでも風に吹かれているような、「愛が欲しい」とか
「孤独なんだ」とかほざく情けない男を好きになる女は
そう滅多にいないのである。

もしもいるとすれば、女は多分、男の幻を愛しているのだろう。
幻を愛されても、生身の男は愛されないわけで、そうなれば男は永遠に満たされることはない。
かくして男はまた、女を求めてふらりふらりと行くわけだ。

なんだかなぁ、こういう男の話を「ロマン」だとか
「理想」だとか言う人がいるのを見ると、
やっぱり男女の間の暗くて深い河は、なかなか飛び越えられそうにないなぁ、
などと思うのであった。

おしまい。









パンくんの心境をハイジに聞いて欲しい

出来事から
09 /08 2012
日本テレビ系列の番組で「志村どうぶつ園」というものがある。

その番組で小さなチンパンジーのパンくんが登場したのは2004年だったそうだ。
たしかそれまでは、同じチンパンジーのももちゃんという女の子が出ていたのだが、
お年頃になったために、小さかったパンくんと交代したのだった。

お年頃というのは「初潮が来た」ということ、つまり繁殖可能期に入ったというのが理由だった。
チンパンジーは繁殖期に入ると感情コントロールが利かなくなるため
首輪をはめなければ外で活動させられなくなる。
パンくんのトレーナーでもある宮沢さんは、
首輪姿のももちゃんをショーに出したくないとのことで、
ももちゃんの引退はいつのまにかすうっと行われていた。

しかし、オスのチンパンジーであるパンくんには、初潮などのはっきりとした境界がない。
体も精神もとっくに大人になって、もやもやしているのに、パンくんは相変わらず
ショーに引っ張り出されていた。

動物園でも、猿たちの飼育員はかなり高度な飼育テクニックを要求される。
トラやライオンなどよりも、猿の飼育員になる方が経験も必要だし、難易度が高い。
猿は人間のように、相手の「格」によって、態度をまったく変えるのである。

ショー直後のパンくんに襲われて顔などに大きなけがを負ったのは
研修中だったまだ20歳の専門学校生、女性である。
とても恐ろしい思いをしたことだろう。
噛んだり引っ掻かれりして、体の数か所を縫合したのだそうだ。

襲われた人は経験が浅く、若く、女であった。
もしかしたら彼女は、月経中だったのかもしれない。
うちでも、普段は決して逆らわない従順な雄犬が、娘に唸ることがあり、
それは100パーセント娘が月経中の時である。
(その際、娘は鬼となって犬を横向きに力いっぱい抑えつけ、
無言で「誰にうなっとんじゃわれ!」とやる。犬はごめんなさいと尻尾を丸める)

このパンくんの事故のおかげで、すごい写真を見つけたので貼っておこう。
これが成熟したチンパンジーだそうだ。

(写真削除:9/14)

毛が無くなるとわかるけれども、チンパンジーのこの筋肉の付き方はハンパない。
肩も腕も、太腿までものすごい筋肉がついている。
さらには手足の握力もすごい。
動画を調べると、チンパンジーに襲われて殺されるとか
手足を引きちぎられるとか、そういったものがいくつもある。
チンパンジーの凶暴性はニホンザルの比ではないのだ。

パンくんもいつかはこうなる定めなのだろう。

私は志村どうぶつ園で一番面白いのはパンくんのコーナーだったと思っている。
本当におなかがよじれるほど笑わせてもらった。
しかしパンくんに関しては日本動物園水族館協会は、
人間の模倣が過ぎるとの理由で、早急の改善を促していたそうである。
(パンくんのいる阿蘇カドリードミニオンは、改善命令を受け入れ難いと
協会を脱退している)

腹を抱えて笑っていた私のような人間の存在が、
パンくんの今回の事故の遠因なのだろうと思うと、本当に申し訳ない。
志村どうぶつ園に出てくる、「動物と話せる(!)ハイジ」に
パンくんの現在の心境を読みとっていただきたいものである。

それでもどうやらパンくんはこれから、やっとチンパンジーらしい生活が出来るのだろう。
そしていずれは、世間から忘れられていく。


もう、チンパンジーを生涯の相棒とする人間は、類人猿ターザン一人で十分である。



先のことを思い煩う

神様
09 /10 2012
ここ数週間、胸によぎる不安感はどこからきているのだろう。

私の体調、親の体調、夫の仕事、娘の多忙と不勉強、
そういう目の前の問題ではない。

1年前の地震からこのかた(もう1年前と言えてしまう!)、人心に染み付いてしまった
実際的な危機を伴った不安感だろうか。

日本の総理大臣がことごとく期待を裏切り、この国の将来が、
すなわちこの国に暮らす私たちの未来が、まったく見通せないからか。

日本と隣国の間にくすぶる過去からの領土問題、及び、
日本が背負うべき責任の期限と限界点の意見相違が
ここにきて互いの国の内政がらみで再燃しているからか。

なかば自己の利益を追求するのみの政治に、何の期待が出来るだろう。
非常な勤勉と努力で培われたこの国の経済にはかつて、
大きな公益性を求める理想があったが、それはすでに過去の話となり、
大企業とて自己を守るに汲々とせざるを得ない。

この国はもう年を取って、成長の時期を終え、老醜のあがきを見せているのだろうか。

正直に言うと、自分が今この年齢でよかったと思う。
20代30代と言った、世の中に出て行くべき年齢であったら、
どれほどの閉塞感を感じ、虚無感を覚えることだろうか。

閉塞感の中で生まれる悪感情、
その露出である犯罪やいじめ。

私たちはもう一度幕末のような、あるいは戦後のような
凄まじい時代を切り抜けて行かねばならないのかもしれない。
そうしないことには、老いたこの国から、新しい命が生まれてこないのかもしれない。

その凄まじい時代は、いわゆる天変地異かもしれないし、
経済破綻、あるいは戦争や原子力発電所のメルトダウンと言ったものかもしれない。

よい時代に生息している時期、私たちは歴史の中の生き物だということを感じないが、
波乱と凄惨の時代に生き抜くときには、過去から繰り返されてきた
歴史の流れを嫌でも感じることになる。

なぜ苦しい時期にそれを感じるのかと言えば、私たち人間が
長く暗いトンネルの中から、一縷の光明を求めるからである。
先へ進めば、苦しくても歩いてゆけば、このトンネルを抜け出られるという、
時間と時代の動きにすがりたいからである。

私がいま為すべきは、
ただ徒に嘆いたり、悲しんだりせぬことだろうか。
そして、ごく小さなことに、しんからの喜びを見出せるようになることだろう。
ちっぽけな自分であることを恥じもせず、卑屈にもならず。


わたしの目にはあなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。(イザヤ書43章4節)


ふっと思うのだ。
本当に素直に、不思議に思えるのだ。
信仰を持たない人々はどうやって、
圧倒的な力を持った耐えがたい苦しみに、耐え抜いているのだろうかと。







虫つながり

いろいろ感じたこと
09 /11 2012
ゲジゲジを目撃したのは2度目であった。
最初目撃したのは、もちろんこの田舎の家に越してきての、数年目だっただろうか。

その頃まだ私はベッドではなく布団を敷いて寝ていたのだが、
ある日押入れから布団を出したら、白いシーツの上に、
複数の足の長さが、トランプのダイヤの形にきっちりきれいに揃えられた大きな虫を見つけた。

並んだ足の作り上げる形があまりに不思議で、魅力的で、
思わず間近で見つめてしまった。

これが有名なゲジゲジという虫なのか。
なんとまぁ整えられた形だろうか!
これはどう考えても、神様が楽しんで作ったんだろうなぁ・・などなど。

(写真を載せようかと思ったが、あまりきれいに写っているものがないのでやめた。
私の見たゲジは、もっとひらべたくて、整っていてきれいだった)

昨日見たゲジゲジは最初に目撃したものの半分ほどのサイズしかなかったが
やっぱりなかなか整っていた。
ゲジゲジは並んだ足の長さが、その美しさのポイントである。(個人的にw)

ちなみにもちろん紙に包んでぐしゃっとやってポイとした。

虫つながりで書くと、先ほど洗濯物を取り入れようとしたら、
バスタオルにセミがついていた。
セミの季節も終わろうとしているのだろう、この頃は瀕死のセミをよく見かける。
いわゆるセミ爆弾と言うあれで、死んでいるかと思って油断していると、
羽音をさせて飛び立ち、私たちをぎょっとさせてくれる。

昨日の夜中、遊びから帰って来た娘が玄関を開けるなりキャーッと声を上げた。
娘の開けたドアから、セミが玄関に入って来たのであった。

虫全般に極度に弱い娘は家に入って来られず、
私は虫取り網を持ってセミを追いかけた。
しかしセミも命がけなので、容易に捕まらなかった。
どおりゃあっ、とやっと網をかぶせそのまま床に降ろそうとしたそのときである。

うちの犬が網のなかのセミにかぶりついたのであった。
セミは1秒くらい暴れたが、あっという間に犬の腹の中に入ったのであった。
「でかした!」
私は戦国時代の武将の気分で手下を褒めた。
ちなみに犬の食べるセミはエビのような味と食感なのだそうだ。
娘はホッとしてやっと屋内に入れた。
そして当然セミを食べた犬をなでまくった。

夏の時期は毎年、散歩の度に犬はセミをよく食べて帰る。
セミ爆弾も素早い犬の食欲にはかなわない。
ただ、夏にセミを食べ過ぎると秋口に登場するコオロギまで食べようとする。
コオロギはまだいいが、先日大きなゴキブリを二匹で追いかけていたので
思わず止めに入った。

さらに虫つながりで書く。
そろそろアサガオに虫がつくころである。
アサガオの青虫はいつも異様に大きいので、あまりお目にかかりたくない。
(長さは人差し指、太さは親指・・・・うげげ)
なので青虫を1匹でも見つけると、我が家はアサガオをひっこ抜く。

毎年、芽が出て育つ時期はわーいわーいと喜んで世話をするのに、
季節が終わるとほいほい抜きたがる私である。
ただ今年は暑さが続いているので、庭いじりはまだ出来ない。
(埼玉は今日34度、あの熊谷も埼玉にあり、あそこは35度だったそうだ)

ああ早く抜きたい。
庭の緑をすっかり空っぽにしてさっぱりしたい。
勝手なものである。






10円でもすぐ売り飛ばしたい小説

読んだ本の感想
09 /12 2012
ずいぶん強いタイトルをつけた。
それだけ腹を立てているということである。

今日読んだ本は2009年の文庫で最も売れたという小説
「向日葵(ひまわり)の咲かない夏」である。
定価は税別で670円、解説まで含めて470ページの文庫本。

私はこの頃、ちょっとしゃれた題名に惹かれる傾向にあるようで、
先月だったか「完全なる首長竜の日」という小説も買ってしまった。
この「向日葵の咲かない夏」も、ほぼ題名だけで買った。

少し離れたところに桜庭一樹の「伏」があったので、それと迷った。
「伏」はきっと漫画みたいなんだろうなと思ってやめてしまった。
もう一つ沢木耕太郎の「凍」が気になり、悩んだが登山に興味を持てそうにないので
それもやめて、
「向日葵の」の方を選んだのであった。

私は「向日葵の」を電車の中で開いて読み始め、2分で買ったことを後悔した。
金を返してもらって、もっと落ちつける小説にすればよかったと思った。
私は一般に人間に対する残虐シーンを読むのも嫌だが、
犬猫が残虐な殺され方をするのはもっと嫌いである。

そんなのがまさか読み始めて2分で出てくるとは思いもしなかった。
私はすぐに本を閉じ、本書を読まずにこのまま売り飛ばそうかと思った。
しかし税別670円がまるまる戻ってくるわけもなし、
いやいやもしかしたら、面白いのかもしれないからと自らに言い聞かせて
頑張って読むことにしたのであった。

そして、読み終えた。
途中確かに、面白かった。
どうなるんだろう、と思い、先が気になった。
なぜ主人公はこんなに親にいじめられるんだろうと、ずっとずっと気になっていた。

ミレニアムシリーズに比較すると人間の殺し方も普通だったので
そのあたりは難無く通過できた。

私は真面目に読んだのである。
ミステリーに対して、非常にまじめに読みすすんだのである。

そして私はこの本を読み終えた場所が帰りの電車の中であることが惜しかった。
家の中なら、床にたたきつけてやれたのに。
10円でも売れるから破り捨てはしないが、火をつけて燃やしたり、
腐った生ごみと一緒にゴミの日に出してやりたくなった。

「首長竜」のときもそうであったが、
オチが「精神世界」である場合の「腹立たしさ」といったらない。
いわゆる夢オチとさして違いがないそれを、
文章表現のうまさ、物語構成のうまさだけで
延々と引きつけてくれたのだから、見事ではないか、と
この作品を高く高く評価する人たちは多い。

そんな馬鹿な、と言いたい。
面白かったらなんでもいいというなら、少年ジャンプの編集方針と同じである。

この「精神世界」オチをして、
「24人のビリー・ミリガン」的な悲劇が原因とする捉え方もあろうが、
私はこの「向日葵の」には「メンヘラ」しか読みとらない。
むりむり読み取ることも出来るが、読みとる気にはならん。

引っ張るだけ引っ張ってくれる筆力があるなら、
なぜもっとましな終わり方をしなかった。
そんな見事な腕があるなら、最初から「読者を騙してやろう」という魂胆を持たないでほしい。

最後に「あぅっ!」と叫んで終わったミステリーも何冊も読んできたが、
こんなに不愉快に読み終えた本は初めてだ。
「してやられた」のではなく「馬鹿にするな!」と言いたい。