最近のこと、今の心

こころ
10 /03 2012
夏にはだらだら過ごしたつもりだったが、これで意外に無理をしていた模様で、
昨日の血液検査は基準値におさまらない数値だらけであった。

検査と診察が長引き、病院からの帰りが遅くなり、
帰宅途中にスーパーで買い物をしていたら夫に会った。
「家に帰ってきたらいないから、そのまま入院したかと思った」
という夫は、自分の夕食を買いにスーパーにやって来ていた。

幸運にも入院しろとは言われなかった。
多分入院したいといえば、即効出来たくらいには血液検査は悪かった。
けれども昨日は、ここ2年ほど頼っている点滴を打ったので
その結果をプラスに期待して、経過観察ということで帰宅した。

とりあえず不調の一晩が過ぎた。
別段変化もないが、格段悪化した様子もないので、現状は明日に続く。
その明日は仕事に行く日である。

明日の夜はのびているかもしれん。
あるいは点滴の効果が表れて見た目元気かもしれん。
基本だらだらしていて大差ないのでどちらでもよい。

私は若いころに病気になって、それ以来健康だったことがないから、
どこか痛い、どこか重い、どこか具合が悪いのが普通である。
頭が思い、お腹が痛い、お尻が痒い、
気持ちが悪い、顔が気に入らない、髪が少ない、
性格が悪い、お金がない、趣味が良くない、
意地が悪い、育ちが悪い、などなど悪いところが次々に並べられるほどである。

性格が悪くて、趣味がよくなくて、ついでに女々しく、よわっちいのは
生まれついてのものだろうと思う。
ただ、それが人間のすべてではない。
(すべてだったら個人的につらすぎる!)

人間は確かに高貴に生まれつく人と、野卑に生まれつく人といるとは思う。
それは出自、環境ではなく、生まれ持った性質であるかもしれない。

けれど、そんなマイナスだらけのものでも、環境や周囲の人々に影響されて
変わってくる部分はたくさんあると思う。
(それがないと個人的につらすぎる!)

私はかつて努力を嫌う癖に自負心ばかりが高い人間だった。
自分という人間が不満の塊であるのを周囲の責任であるかのように感じていた、
いわゆる「痛い人」だった。

かなり昔、まだサイトにつなぐ時間ごとに受信料金がかかったころのことである。
私は誰かに、自分という存在を注目してほしかったがため
ネットのなかでいろいろ悪いことをやった。
荒らし、まではしたことがないが、きつい言葉を掲示板に書いたり、
別人格になって複数の書き込みをしたこともある。
嘘もたくさん書いた。

幸運だったのは、私にはそれを指摘してくれた人がいたことである。
その人は私に「いい加減にしろ」と言ってくれ、
「やったことは全部分かっている」と言ってくれた。

私は複数の掲示板に複数の名前で現れ、場に混乱をもたらす行為を行った。
私は指摘してくれた人に謝り、その掲示板から去った。

私は確かその人に言ったと思う。
「寂しかったんだ」。
その人はこう返事をした。
「だからって、それは駄目だ」。
私は言った。
「うん、そうだね。もうここには来ないよ」
「そうしてくれ」
「ごめんなさい」
「じゃあな」。

私は根っこ自体がどうにもひん曲がっているので、いまでもときどき
「なんじゃこりゃあ!」と思うような記事を読むと
別人格になって「あんた何様!」とやりたくなるし、
えらそうに「それは違います」と説教したくなる。

しかしふと気がつく。
なぜ別人格になる必要があるのだろうかと。
それは簡単だ。報復など不愉快な応戦から距離を保っていたいからである。

私は今も昔も相変わらず自分に自信を持っていない。
頭の中身もお粗末だし、肉体はさらにお粗末で、育ちも悪く、金もない。
(個人的にはだいたいがつらすぎる!)

だが一つだけ決めたら、あの頃の自分より、自分が好きになった。

自分を良く見せようとも思わない。
ことさらに醜く描こうとも思わない。
私はありのままでいい。
あまりに月並みで、魅力のないことおびただしい。
けれども、むかしの私よりは、自分が好きになれた。

ありのままの自分でも、親しくしてくれる人はいる。
このネットの世界にもたくさんの友達が出来た。
私はそれらの人にもありのままで接するよう心がけている。

たくさんの名前で、たくさんの道筋で、いろいろなところに現われるあなた。
あなたはきっと、かつての私と同じだ。
スッピンになると、心がずいぶん楽になるよ。

あなたは気付いていないけれど、
あなたは素のままで十分、友達が出来る人だと思う。
あなたはきっと素のままで、価値があるんだ。
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ヒステリーで腰痛が出た

出来事から
10 /06 2012
ああ・・・・あんまり怒ると腰に激痛が来ることを発見した。
私の腰の激痛はドクドクと脈打つようにくる。
場所柄からどうも腎臓関連かもしれない。
私の腎臓は稼働率すでに半分というところであるから、これもおかしくない。
しかしなぜ激怒で激痛か。
激怒でヒステリーが起きると腰に来るのかもしれん。

どんなヒステリーを起こしたかといえば、
やっと涼しい秋が来て、庭に出せるようになった犬がやたらに吠えていた。
水道の検針員さんに吠えまくっているので止めに入ったが
新しい検針員さんがびくびく怯えているので犬はなおさら吠えるのであった。

ええかげんにせえよと命令しても吠え、
やれやれと口を手で握ったら、犬が振り払って走り、さらにぎゃんぎゃん吠えた。
影響されて普段はおとなしい雄犬まで立派で渋い吠え声を立てた。
雄犬は性格が穏やかなので、やめろと手を出せばすぐに止まる。
しかし吠え声の主体、メス犬は非常にしぶとかった。

うちの地域を巡回するお巡りさんが「大変素晴らしい番犬です!」と褒めるくらい
うちのメスの吠え方は鬼気に迫り、しつこい。
こいつがなんと私の体調がイマイチであることを見抜いて、私の命令を容易にきかない。
むむむむむ、
最近この犬は高齢化でおもらしするようになって私に迷惑をかけているくせに!!!!


ちやこは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の犬を除かなければならぬと決意した。
ちやこにはしつけがわからぬ。ちやこは、村のおばさんである。
テレビを見、ゲームで遊んで暮して来た。けれども邪悪(な犬)に対しては、人一倍に敏感であった。



とおりゃあああっと、わたしは犬の首をひっつかみ、コンクリートの地面に向けて押しつけた。
犬はぎりぎり地面に伏せられつつ、まだ水道検針員に吠えやめない。
犬は押し付けられつつ私を睨みつけ、その目が語った「噛んでやる」。
なんだとぅぉおおおおおお!
よくもよくも10年も飼ってやっている私にそんな目をしたな!

私は犬の鼻づらを拳でがーんと、もひとつおまけにがんがーんと、殴ったのであった。
そして犬の歯で拳を切ったのであった(痛い)。
さらに中腰の姿勢だった腰部がどくんどくん波打って痛くなった・・・というわけである。

へっ、虐待?
そうである、私は酷い奴なので言うことを聞かない犬にはかなり手荒な事をする。
虐待だ、と言いたければ言えばよろしい。
言うだけなら手も汚れない金もかからん、拳から血も流れないし、腰の痛みもなかろう。

ちなみのうちのメス犬は体重20キロ、
大きさは柴犬よりは大きい、甲斐犬、四国犬、北海道犬サイズである。
(あのソフトバンクのお父さん犬は北海道犬)
それに反抗されたので、40キロの体重の私にはちょっと荷が重かった。
私が現在へろへろになっている一方、
メス犬はオスと並んで、うっとりと日光浴をしている。
ああ、私も昼寝でもしようか知らん。

だが今日はこれから本を読む。
先月は漫画を除くと本らしい物を2冊しか読まなかった。
これはもう末期的症状である。
近々10冊読み終えたら、ブログに戻ってくる予定である。

私はボケた

出来事から
10 /18 2012
いや、まだ10冊読破していない。
ちょうどいま8冊目、ドストエフスキーの「地下室の手記」を読んでいるのだが、
ちょっと書きたい気分になっているので書く。

少しボケが始まった気がする。
月曜日の夕方であったか、私は娘にこう言った。

「昨日は学校が済んだら寄り道して友達とオムレツ食べに行っちゃったし、
そのあと夜中はバイトから帰って、(バイト先からでもらった)納豆巻きと、
カリフォルニアロールを1本まるまるを食べちゃうんだもん。
そりゃ体重が増えてても仕方ないんじゃない?」

すると娘が驚きに目をみはって訂正を申し入れてきた。
「学校帰りに寄り道したのは土曜日で、昨日は夜アルバイト行くまで家にいたよ、
納豆巻きとかは昨日の夜なかに食べたんだよ、
おとといと昨日をごっちゃにしちゃって・・・・ねぇボケちゃった?」

うぉおおおおお、この間違いに私は小さく戦慄したぞ

別の日のことを同じ日にごちゃまぜにして、つまりは脳内で架空の世界を作り上げ、
自分自身でつじつまを合わせて勝手に納得して信じ切っていたのだから、
この創話は、どう考えてもボケが始まったとしか思えない。

ボケはまず家族間の誤解から発見されるはずである。
8年前の母「この日に来るって言ったじゃない!」
私「えっ、この日じゃなくて今日来るって言ったよ、電話でも念を押したよ」
8年前の母「いいえ、この日だって言いましたこれこれのときあなたがこれこれで・・・etc」
そうである、これこそ母のボケ端緒の発露であったのだ。

かようにボケ側が自分の脳内で組み立てている論理思考を当然ながら一切疑義を感じずに
通そうとするそのとき、
「あなたがちがうわよ」と指摘された私は
「そうだったっけ? でもなぁ、ちゃんと今日だって二度も言ったんだけど
・・・(うつむく、口をとがらせる、不愉快になる、でも大人なので不承ながら引く)」
となって、これがボケの始まりによる脳内創作の認識作用だとは気づかなかったのだ。

(@_@;)(@_@;)(@_@;)

「あっはっは、そうだっけ、ボケたかしら」
なんて軽く笑って流すなんて行為は、実の母が絶賛ボケまくり中の身にはおよそ出来ない。
私はぐうっと息を呑み、身構え、これからどうするべきか考えた。
まだ指摘されれば昨日と一昨日の違いを思い出せるうちに、
実際の昨日と一昨日が存在していた事実を意識理解出来得るうちに
(本当にボケると例えば「昨日したこと、昨日そのもの」が脳からすっぽり存在しなくなる)、
この進行をなんとか止めなくてはならない。

かくして私はいちいち細かく日記に書くことにした。
あれをした、こう言った、これを作って食べた、これを買った、これを見た、などなど
自分の文字で自分で書けば少しは頭に残り、
記録の運用によって誤解が減るかもしれないと思ったのである。

それから新聞の記事をいくつか音読することも始めた。
これは出来る限り早く読むのが脳の血流にいいらしいが、
新聞においては個人的に一語一句間違えないように正しく読むことを旨とした。
数日これを続けたせいか、久しぶりに「ニンテンドーDSの脳トレ」をやったら
音読だけは奇跡的な速度で正しく読め、2005年の記録よりはるかに速くなっていた。
(しかし計算力は恐怖するほど衰えていた、ドリル買おうかしらん)

もっと書きたいことがたくさんあるのにかなり長々書いてしまった。
今日はこれくらいでやめておこうか。
なぜというに、キーで打ち込んでいく作業の簡便さは、
手書きで日記に記す煩わしさを厭うようになりかねないからである。

手で書くのは良いぞ。
いまは何でもかんでも記録しているので、
これからは多分ブログに書く内容を無理して引っ張り出してこねまわす必要など
なくなるだろう。
字もうまくなるかもしれない。
ちょっと頑張ってみようと思う。

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ボケ防止目的で入ってみたぞ

ホットドッグ(の野菜)に見る考察

冗談もどき
10 /19 2012
ホットドッグの具について考えた。

もちろんホットドッグなので、パンの形や
ウィンナーだのソーセージだのと言った主役について書くことは大切なのだが、
私の事情でパンの形や材質は「そこそこ好みで」で良しとし、
主役中の主役であるウィンナーやソーセージ、はたまたフランクフルトなどについては
魚肉ソーセージだろうと立派なあらびきフランクフルトだろうと、
パリンと音のするやつだろうがそうでなかろうが、これも
「そこそこ好みで」良しとして、
私がいまここで書いてみたいのはひたすらにホットドッグの引き立て役、
いいや、名わき役と言うべき「お野菜さん!」たちのことである。

(ホットドッグに挟まっているお野菜さんについて書くからには
お野菜さんを排除しているドトールコーヒーのジャーマンドッグなどは
今回は脇に置かせていただくとする。

でもさ、あのドトールのドッグパンの程よい噛みごたえと固さは好きだねぇ。
粒マスタードだけっていうのが物足りないんだよね、
ケチャップを常備して好みでかけられるようにしておく店もあるけど
いちいちこっちから「ケチャップください」って言うのもさ、大人だしねぇ・・・・
などとごちゃごちゃ語るのはここではご免こうむることにする。

しかし今ドトールのサイトに行ったら猛然とアイスコーヒーが飲みたくなった・・・
とかいう気まぐれはこの際放置する。

私は断然スターバックスよりドトールが好きだねぇ、安いしさぁ
・・・・などというだらだらしたおしゃべりはこの際無視をする。)

で、ホットドッグである。
いや、ホットドッグに主役とともに挟む野菜である。

ささっと検索にかけてみると出るわ出るわ。

万願寺とうがらしと京茄子を炒めたもの、
ピーマン玉ねぎ茄子、トマト水煮缶、を炒めて煮込んだもの、
ゆでじゃが芋に玉ねぎスライス、角切りきゅうりに、茹で人参をマヨネーズで、
千切り牛蒡をゆでてゴマソースに漬けこんで一晩おいて白髪ねぎをうんぬん・・・

もはやほとんどホットドッグがすぐ作れてすぐ食べられるファストフードの域を抜けて
きっちり料理されたソースや具材を添えられて供されている気配であるが、
それら上等な類はこの際端へ退けていただいて、
私はどこにでもある、家でもすぐ出来る簡単なホットドッグについて
知りたいのであった。
いや、それに挟む野菜について。

ええと、私は先日一袋298円のグリコの朝用ウィンナーを冷蔵庫に発見し、
一袋100円前後で購入した6本入りのパスコ超熟のドッグパンを使って
きわめて簡単なホットドッグを作って食べてみた。

先にも述べたようにウィンナーは「そこそこ好み」なので
短いのを2本縦に挟んでいても文句を言ってきてはいけない。
パンに関しても安すぎるとか言わないように。

まず、私が考えるホットドッグの野菜は千切りキャベツである。
もちろんこれは炒めたものに限る。
炒める際に油は敷いてあってもなくてもよいが、トンカツの隣に置かれているような
元気いっぱいのピンピンしたキャベツであってはいけない。
火熱によって程よく水分を抜かれ、食物繊維が「吾ここにあり」と主張しているやつがよろしい。

これをおもむろに少しばかり温めたドッグパンにはさみ込み
(私は多めが好きなのだ!)
焼き立ての(ゆでたてでもよいが)ウィンナーを置いて、
ケチャップとからしをたら~っとかけてがぶっとやる。
ああ、おいしい・・・・・・と声が出るな、うむ。

やはり炒めた千切りキャベツはなんといっても食感であろう。
この食感によく似ているというか、ほぼ同じである物に
キャベツの酢漬け、ザワークラウトというものがあって、あれもまた当然ながら
ウィンナーやらソーセージと運命的な恋に落ちても不思議ではないほど相性が良いのだが
悲しいことにあの酢漬け、ピクルス系の味を好まぬ人も日本には少なくない模様である。
それにあれだ、酢漬けはどうしても水分があって、
ドッグパンが時間とともにびしょっとしてしまう。

最近ある人が、わが最愛の炒め千切りキャベツよりも「レタスレタス」という。
彼は新鮮レタスとスライスオニオン、そこに5ミリほどの厚さに切ったトマトと
きゅうりを入れ込んだものが「一番おいしい」と主張してきた。
(もちろん主役のウィンナーを入れての上でである)

果たしてそうだろうか、と思って私はそれも作り、
愛してやまない千切りキャベツと食べ比べてみた。

ふむ、確かにしゃきしゃきレタスとオニオントマトにきゅうりも非常においしかった。
栄養的にも、まぁ多少ビタミンなどの面でこちらが有利かもしれぬ。
しかし、野菜全体量から見ると、炒めて小さく縮こまったキャベツの方が
野菜としての分量ははるかに多いと思われた。

さて、どちらがおいしかったか、私は食卓に腕を組みノートを広げて
しばし黙考の末答えを出した。

もう一個ずつ食べてから決めよう。

しかしのどが渇いてしまったので、私は心をこめてコーヒーを入れた。
自分のために心を込めてコーヒーを入れるのはなんとも贅沢な気がする。
心をこめて入れたコーヒーは、インスタントでもおいしい。
(個人的には紅茶の方が好きだけれども)

そのときふと、冷蔵庫にかぼちゃのプリンが一つ残っているのを思い出した。
ちょうど甘いものが食べたいと思っていたのだ。
と、カボチャプリンをおもむろに出してきて、これまた丁寧に
ひと匙ひと匙大事に食べた。
ううん、これを幸せと言わずして何を幸せと言おう。

ではおなかもできたので、夕食の買い物に向かおうではないか。
空腹ではいらない物まで買い込んでしまう危険があるから気をつけなければいけない。
ふむふむ、用意はできている。
キャベツを炒めたフライパンはあとで洗えばよい、皿は流しに浸しておこう。

と、私は意気揚々と夕食の買い物に出かけたのだった。
いや、ホットドッグはやはり炒めたキャベツに限る。
ちょっとしか使わないトマトやキュウリを買い込む必要がないうえに、
キャベツはいま1玉120円ほどなのである。

うむ、やっぱりホットドッグは、炒め千切りキャベツを鉄板としたい。






ああ出会ったぞという本、そして翻訳

読んだ本の感想
10 /20 2012
いや、本10冊のうちまだ8冊しか読み終えていない。
なぜだろう、漫画ならば朝から周囲が暗くなるのも気付かないほど読み続けて
「あっ、夜が来てる!」などという状況になることが多分まだ出来るだろうに、
小説の類をそのように読みふけることが出来なくなってしまった。

文字を読み続けるのが疲れるのである。
もしかすると私は「戦争と平和」とか「失われた時を求めて」とか「チボー家の人々」とかの
いわゆる超大作を読むみ終えるのが出来なくなったかもしれない。
うう、これも老化のなせるわざだろうか。

今回10冊読むぞと意気込んで手に取った本はみな、厚さが2センチ行かない文庫ばかりであった。
10冊を目的に決めたばかりに、なるべく早く読み終えられるよう薄手の本ばかり選択したのである。

ああ、ただでさえ馬鹿が進行しつつあるのに、
努力や忍耐を必要としないような書物ばかり読んでしまった。
ああ、馬鹿が進む、馬鹿が、馬鹿が、馬鹿が進むぅうううう!!!

しかし、だ。
薄かったけれども良書には出会えた。
心が洗われて、目尻にうるうる涙がたまる良い本だった。
(さぁ、テンションを上げていくぞ!)

「スノーグース」ポール・ギャリコ作、矢川澄子訳 新潮文庫、である。

えへん、私は大人に向けた物語の「です、ます」で訳されているものを、
とくに毛嫌いする癖がある。

(これは「指輪物語」の翻訳の「ですます」からはじまった。
あの本にあれはどうしても嫌だ、好きになれない)

なのでこの「スノーグース」を開いてすぐ「あっ、しまった」と感じた。
「です、ます」訳だったのである。
しかしやれやれ、選んだ10冊のうちの1冊だからと、続く2行目3行目を読んだだけで
「こ、これは!」と驚きの目をみはった。

ですます調にして、かくも美しい、かくも格調高い日本語訳が存在したとは。
これは無知にして思い込みの激しかった私の意識を見事にでんぐり返してくれた。

『その大沼はエセックスの海岸にあって、チェルムバリの村と、ウィケルドロースの古来の牡蠣ををすなどるサクソン人の小部落とにはさまれています。ここはイギリスでもいちばん、未開のままのすがたをとどめている土地のひとつで、はるかにひろがる丈のひくい雑草や葦の原と、なかば水につかった牧草地とが、ゆれやまぬ海のきわで果てるあたり、大きな塩沢や泥沼や水たまりをつくっているのです』

うぉおおおおおお!
古来の牡蠣をすなどるサクソン人!
ゆれやまぬ海のきわで果てるあたり!

かような見事な文章使いはどこのどなたさんぞと調べてみたい気持ちを抑えて、
私は瞠目して小説の先を読み続けたのであった。

いや、まいったね。
参りましたよ、ワタクシは。
こんな短い童話を読んで、泣いてしまったのはいつぶりか。
(「切ない」という言葉がこれほどにしっくりくる童話はもはや
「泣いた赤鬼」くらいしか思いつかない!)

ポール・ギャリコといえば猫の「ジェニィ」の物語が有名で、
過去に私も「ジェニィ」を大変面白く読んだ身であるけれども、
この矢川澄子翻訳の「さすらいのジェニィ」で読んではいなかった。

ああ、なんと惜しいことをしたのか、もう地団太を踏むくらい惜しかった!
彼女の翻訳であの「ジェニィ」に最初に出会っていたかった!
ええい、なにくそ、これからでも手に入れてやる「さすらいのジェニィ」。
そして読んでヒクヒク泣いてやると決めた。

この「矢川澄子」という翻訳者であるが、うまれついての天才詩人として有名な人であった。
10年ほど前に亡くなった折には「不滅の少女」という言葉が捧げられている。
(知る人ぞ知る)あの澁澤龍彦の妻だったこともある女性であった。
(二人の関係は非常に濃密だったがゆえに不幸な終わりを招いたが)

私には贔屓の翻訳者が何人かあるが、本書を訳した矢川澄子は、
私の中では翻訳の泰斗とされる中野好夫につぐ位置に着いた。
彼女の翻訳本を見つけ次第、私は片っ端から読むであろう。
ああ新しい目的を見出せた幸いよ~

(・・・本業の詩作を読むかどうかは分からない。なにせ澁澤の元妻だし)

ということで、「スノーグース」ギャリコ作でこの矢川澄子訳の本書を
「切ない」のがとにかく好きなお友達レモンの木さんに強く推しておく。
疲弊した彼女の心に、清らかな涙のうるおいが与えられんことを。

本書に収録された「ルドミーラ」という作品から
思わず唸った文章をここに残しておくことにする。

(痩せた牛が聖女ルドミーラの像をじっと見上げている姿を見て
牛が祈っていると言うのを神父が否定したそのあとに続く:これちやこ説明

『なぜなら祈りというものは、べつに言葉に出して唱える必要はありません。箇条書きで申し立てたり、教会の中で声には出さず唇だけ動かしたり、空に向かってしゃべったりするにも及びません。祈りとは無言の心のねがいであり、にわかな愛のほとばしりでありましょう。それは一瞬のうちに魂を無限なもの、善なるものに結びつける切なる願いであり、言いようもなくいやしめられた者のとる態度であり、すべてが失われたと思ったときの闇をついてよぶ声であり、歌であり、詩であり、なさけある行いであり、美への到達であり、さもなくば内なる信仰の力づよい静かな確認です。』

この箇所はもうたまらん。
明日の礼拝で教会のみんない教えたいほどだ。
ギャリコすごい、矢川澄子すごい!

教会にワンピースが全巻あってたまげた

出来事から
10 /21 2012
私の通う教会の大掃除は年に二回である。
例年はもっと寒くなってから、クリスマスツリーの飾りつけも同時に行える時期に
大掃除と相成るのであるが、今年はどうしてなのだか、今日が大掃除の日であった。

不肖ワタクシも教会のクリスチャンであるので一応大掃除には参加した。
(礼拝後一度帰宅して昼食のおにぎりを食べて早売りの少年ジャンプを読んでから
掃除のためにまた教会に行ったのであった、
ワタクシだってちょっとは真面目なところもある)

ボランティアという言葉を「奉仕活動」という日本語で非常に頻度高く、
ごくごく当たり前のこととして使うのがキリスト教会の特徴と言えなくもないのだが、
今日の大掃除も当然ながら大勢の教会員でわやわやがやがやと行われていた。

朝はこたつを出そうかと思えるほど寒かったのに、
昼は見事な太鼓腹をノースリーブで包み込んで天井の埃をはらっているオジサンまでが現れたほどに暑くなった。
まったくみなさん、呆れるほどに一生懸命で、クソがつくほど真面目である。

という表現だと誤解を招きそうなので、もうちょっと詳細に書くと
ノースリーブ太鼓さん(40代)は、奥様(40代)と一緒に同じ部屋を掃除しつつも
「これはバカボンのパパの真似~」などと物まねを見せつつ掃除しており、
奥様はそれを見てきゃらきゃら笑いながら、楽しげに雑巾を掛けていた。

教会の窓ふきをしている若いママさんたちに「うちの窓なんか1年以上拭いてない~」と言ったら
「うちも超汚れてます~」「カーテン3年洗ってない~」
「今朝布団敷きっぱなしで来たし」「うちの家にも掃除に来てくれないかな~」
などなど大変快よい返答が帰ってきた。
はっはっは、クリスチャンとてこんなものだ。
(もちろん大変立派な人もたくさんいるが私はそういう偉い人たちとは距離がある)

私はというと、
礼拝堂のベンチシート(いわゆる非常に長い座布団)を日に干したり
たくさんのベンチをせっせと磨いたりして、家ではしない拭き掃除などを頑張ったら
予想通り一気に疲労した。

疲労してちょっと休憩したいけれども、周囲が勤勉かつ愉快そうに清掃しているので
いくら図々しいワタクシといえどもさすがに気が引けて、
ひと気のないプレイルームに、そうっと身を避けたのであった。

そこは礼拝堂の本棚に置かない教会員のみの読むことの出来るたくさんの書籍や
子供のためのおもちゃが置いてある場所であるが、
私はそこにかなり意外なものを見出して驚いたのであった。

少年ジャンプ連載中のあの「ONEPIECE(ワンピース)」の単行本
それも1冊や2冊ではない、全67巻、全巻そろっているではないかっ!
さらにワンピースの主人公ルフィの言葉について書かれた本に、
大ヒットした前作の映画「ONE PIECE FILM STRONG WORLD」まであるではないか!

こ、これはいったいどういうことだろうか。
だれか教会員が寄付したのだろうか、それにしたところで教会にワンピース全巻とは、
これを置くことを許可し、貸出自由にさえしているというのはいったい・・・

私は疲労を忘れて教会の古手役員に尋ねに行った。
古手役員はクリーナーで壁をせっせと拭きながら言ったね。
「ああ、それ、先生が大人買いなさったんでしょうね。
いつだったか、説教にもワンピースのことを話されていましたよ」

な、なんとっ!
私が教会を怠けていたこの夏休みの間に、牧師先生はワンピースを大人買いし、
礼拝の説教にまでワンピースを材料にしていたのかっ!
くっ、くやしいっ!
私だってワンピースを愛する一ファンなのだ、掃除の前に今週のジャンプだって読んで行ったのだ、
その私が、牧師のワンピース入りの説教を聞き逃したとは・・・・・むぅうううううううっ!

この牧師先生は結婚以来家からテレビというものを排除しているので
ドラマや漫画と言ったものにほとんど縁がないのであるが
電気系の大学院を出ている関係か、IT,インターネットが大好きで、
そこから各種情報をゲットしている。

牧師は以前なにかの機会に漫画「沈黙の艦隊」を知ると全巻大人買いして、
「問題意識的な紹介」として説教で話していたし、
去年は牧師の趣味である山登りを描いた漫画「岳」も全巻大人買いして、
「主人公はどんな遭難者も責めないで、よく頑張った!というんです」と
説教で力説していたのであるが、
ワンピースの登場人物のだれを、どの台詞を説教に使ったのだろうか。

ああ知りたい、知りたいだけでなく、借りて帰って全巻一気に読みたいっ!
でも70巻近くを持って帰るのはさすがに恥ずかし過ぎるっ!
ちょっとずつ持って帰るのも恥ずかしいっ!
だってこの前トルストイ借りたばっかりなのにワンピってさ、ねぇ・・・

脳内が興奮して疲労が更に進んだので、「お役に立てずに申し訳ない」と謝って、
私は1時間ほどで帰宅してきたのであった。
あーあ。

(いつか借りてやる・・・・・・)

プロがただでいいのかい?

いろいろ感じたこと
10 /22 2012
新たな刺激によって自分の脳の老化劣化認知症化を1ミリでも食いとめようと、
私は1年ぶりに日本ブログ村のランキングに参加し始めたのであるが、
参加カテゴリーをエッセイ、随筆にしたおかげで、
星の数ほどあるブログの中では、
少数派かもしれない「長文傾向」の書き手さんたちの読み甲斐あるブログを複数見つけることが出来、
朝からニコニコニヤニヤしていた。

さらに質の高い方々がふうわりゆるりと書いてひっそりと発表してくれたブログには
時間と空間と空気と水と心と優しさと知性と視線と言った
私には到底持てない高尚で美しいもの、冷静で知性に優れた鋭いものなどが
石ころの中の花のように、そっと咲きつつも目を引くのであった。

ああ、ワタクシもあのような品格ある人になれればなりたいが、
家の中に脱いだパジャマが転がっていても平然と無視できる愚者であれば
その希望はかなわぬと思ってよかろう。

私のようなだらだら系は、たとえ内容が空っぽであっても
十年一日のごとく同じようなことを書けばよいので
やる気になれば(めったにならない)、多分毎日でも書けると思うが
質にこだわると、そう毎日中身のあるものが書けるとは思われない。
(ここ5日間毎日書くワタクシの内容の薄さは保証付き)

で、ワタクシは複数のエッセイを楽しんで読ませていただいているわけであるが、
たったひとつ、腑に落ちないというか、なんだか首をかしげてしまうというか、
それでいいのかい? と感じてしまう部分が、
この「エッセイ・随筆」のカテゴリー参加者に数名存在しているのに気がついた。

それは「自分はプロの作家である」というプロフィールを見かける不思議である。

「私はプロ作家です、ほれこの通り本も出しています」という意味で、
出版された本を宣伝するためにブログを書かれているのならば
私のような者にも、ここに玄人が存在する理由がわかりやすいのだが、
それだけではないように見える。

私の父は昭和30年代から平成の初めころまで、
いわゆるペンで文を書いて収入を得ていたひどいろくでなし男だが、
父はときどきこんな風に言っては、自治会の頼まれ原稿や、学校からの原稿依頼を断っていた。
「俺はロハでは書かん」

ロハだなどと古くさい言葉を使ったが、つまり無料で文章を書くことはしない、
文章は自分の商売だという「職業意識」を持っていたわけである。
きっとこれは、むせかえるほどに昭和のにおいのする、高慢な自負心なのだろうが、
私はこんな思考をいつの間にか埋め込まれて育ってしまった。

だから「プロ作家」と称する人たちが
どんどん自分の文章を無料でブログなどに発表してゆく、その状況がいまだにしっくりこない。
現今のブログの状況を見るにつけ、書くことを職業とする人々が
その作品をあたら簡単に無料で、ネットによって世に出してしまうのは、
それなりに危険なのではなかろうかと案じられる。

さらに、汲めども尽きぬ泉のごとくに書くべきアイディアが浮かんでくるのであれば
それはまこと希有なことで、器からあふれ出る水を「サービス」と称して
ブログ等に発表されているのならば、それはそれでよいのだが、
お金をもらえるお仕事として「完全未発表内容」を求められた場合に
それにすっきりと対応できる完全ストックを、方々お持ちなのだろうか。

それとも単純に、一般素人と同じく
「書く→反響がある→うれしい」から書くのだろうか。

私はそれらプロと称する方がたのブログも喜んで読ませていただいているので
そのようなものが無料で読めるのはありがたいが、
どうにも育った環境による刷り込みから、
プロがただで書いちゃっていいのか? と心配になってしまうのである。

もちろん、プロと言いつつ一番書きたいエッセイのお仕事がなく、
他の記事などを書くことで糊口をしのいでおられるのならば、
書きたい気持ちの発露としてのブログでの文章を
私なんぞはただただ感謝して、読ませていただくのみであるが。



別にそういった人たちを非難するでも軽蔑するつもりでもないのだ。
ただ、いまさらに時代が変わったのだなと思っているのである。







すごい修復をされたあの絵はどうなるんだ

出来事から
10 /23 2012
スペインのとある教会の、古く傷んでいたキリストのフレスコ画を
ただただ純粋な善意から(専門知識をまったく持たぬ)素人のおばあさんが修復して
ぶっとんだキリストにしてしまったニュースが
世界中を駆け巡ったのは8月の半ば過ぎのことであった。



上記動画で見るとわかるが
NHKのアナウンサーが我慢できずに噴き出して笑ってしまうほどの出来栄えで、
この一見の価値あるフレスコ画は当然世界的な大評判となった。

我が家でこのニュースを最初に知ったのは娘であったが
わが娘、テキトウな信仰心からなのか、
美術を尊ぶ心を持っているのか分からないが、
「まるで猿だ! なんてひどい!」と憤慨しまくりであった。

あの絵の題名は「Ecce Homo」エッケホモ、この人を見よ、という。
荊冠をかぶり、紫の衣を着たキリストが裁判で人々の前に引き出された時、
ピラト総督が「私は彼になんの罪も見いだせない、見よ、この人だ!」
とやったときの、そのキリストを描いたものである。

このEcce Homo の場面は非常に有名で、見せ場山場の一つでもある。
であるからして、もともとのフレスコ画に込められた画家の想いも
ひとかたならぬものがあろうし、
この教会に来て目の届く高さにあるこの絵を眺め、直に触れては
祈った人もたくさんあるであろう。
それらの人々にとっては、まぁさぞかし・・・・・・・




このニュースを見たワタクシはというと、単純に面白がっていた。
十字架や尖塔やマリア像や、華美壮麗なキリスト教を尊び好むカトリックと違って、
聖書一本やりで偶像を嫌うプロテスタントのワタクシは、
その手のものに過剰な信仰心を感じてはいないからである。

ワタクシ密かに大笑いした。
こんなに世界中に報道されちゃうと逆に人が見に来たりして。
そんでもってエッケホモ饅頭とか、エッケホモラーメンとか出来ちゃったりして。
でもってスペインの小さな町に観光客がいっぱい来て豊かになっちゃったりしてね。
失業者に仕事が出来て、町が生き生きしちゃったりしてね。
そいつはもう、神様の恵み以外の何物でもないってことで、
そうなりゃもう、ハリウッドが映画化の話をもってくるね。
「笑って見てハッピーになれる映画」ってなもんだね。

が、実際に世界中から観光客がどっと押しかけ始め
町がチョコレートだTシャツだとエッケホモ商品まで売り出し、
飛行機が新路線を設定するなど、本当にすごいことになったので、
正直な事を言えばワタクシ「あ、ほんとに神様の恵みだったのか」ときょとんとした。

神様は確かに不思議な形で恵みを垂れたもうて、
修復の筆の稚拙さから教会や周囲に責められまくった老婆をかばい、
純粋な善意に報いなさったのであるが、
ここから、ちょっと雲行きがおかしくなってしまった。

教会は押しかける観光客から入場料を取るようになり、
(トイレが汚されたり、ものが傷んだりするのだから多少は仕方ないと思うが)
たくさんの金額が教会に入ってくるようになると
純粋な善意から修復を行ったはずの老婆が「私のおかげで教会が儲けている!」と
自分の取り分を要求し始めた。

おいおい、これはいかんだろう。
どうも悪魔がちょっと食指を動かした模様だ。

で、ワタクシはまた思った。(ここから先はワタクシの想像)
ふんふんこれはナニだ。
あれほどひっきりなしに訪れていた観光客が、そろそろ減ってくるだろう。
チョコレートもTシャツも売れ残り、飛行機の新路線もそのうち終了するだろう。
教会は再び静かな日々を取り戻し、おばあさんの訴訟はそのまんま立ち消えになる・・・

かくして何事もなかったように小さな町は日々を過ぎる。
あれはいったい何だったんだろうね、と人々は首をひねり、
「要するに私たちが愚かだったんだな」と照れたり、苦笑いしたりする。

絵の修復をした老婆はどうなるのだろう。
教会と再び綺麗に、感動的に和解出来たらこれもまた映画になるだろう。
和解出来ないままに年月が過ぎてゆくのであれば・・・・・

うーん、それもまた現実、
頑なで愚かな人間たちを描く、いいドキュメンタリーの材料になることであろう。
続報が楽しみである。

幼いころの自分に向けて

こころ
10 /24 2012
尼崎連続変死事件の中身に関する新たな報道を聞くたび、震えが来そうになる。
主犯のあの女の心の中には、いったいなにが棲んでいるのだろう。
人間はどこまで残虐になれる生き物なのだろう。

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子どものころ、性悪説には反対だった。

「だってさ、生まれたばっかりの赤ちゃんのどこに悪があるの!」
というのが嘴の黄色かったころの私の意見の核だった。

悪いことなんかしてない、と子どもの頃の私はずっと思っていた。
「ブス」「バカ」「死ね」やその変化形をクラスメイトや教師や親に使っても、
嘘をついたり他人に責任をなすりつけたりしても、
「私は悪いことなんかしてない」と思っていた。
本気で思っていたのだ。

あの頃の私に、いまここにいる私が説教をしに行けるとすれば、
小学生や中学生時代の生意気盛りの無知な私自身を、
なにがなんでも徹底的に、言葉でたたきのめして、泣かせて、怒らせて、
その傲慢をすり潰し、醜い自己をわからせてやりたいと願う。

「友達の陰口を言うのは悪ではないのか」
「みんなで一人を嘲笑するのは悪ではないのか」
「嫌がることを言うのは悪ではないのか」

女の子なら誰でもが普通にすることだよ、
だからそんなの普通だよ、そんなに悪いことじゃないよと、
少女の私はむきになって反論するだろう。

じゃあちやこ、お前の悪口をみんなが陰で言ってるのを知っているかい、
お前が意地悪で、いやらしいのを、みんなが嫌っているよ。
逆上がりもできず飛び箱も飛べず、走ればいつもビリケツなのに、
偉そうに友達に指図しているお前のことを、みんな馬鹿にして笑っている、
それを知っているかい。
お前はデブでブスで毎日同じ服を着てると、みんなが言っているのを知っているかい。

少女の私は泣きだすだろう。
悔しくって、悲しくって、泣くまいとして、それでも涙があふれ出して
声を殺して泣くだろう。

ちやこ、ちやこ、これはみんなのしていることだろう。
みんな普通にしているんだろう、悪いことじゃないんだろう。
なのにお前はずいぶん泣いているね。
すごくすごく悔しそうだよ、すごくすごく悲しそうだよ。
すごくすごくつらそうだよ。
ちやこ、ちやこ、お前は、これを悪いことじゃないと言った。
いまでもそう思っていられるかい。

きっと私は答えない。
自分の意見の過ちを、認めることさえできないほどに、心が意地で固まっている。
まだ初潮さえみない子供なのに。

ちやこ、ちやこ、お前は悪を順位づけてる。
裁判や刑罰みたいに、ゲームみたいに、悪にレベルをつけてしまっているんだ。
考えてごらん、いまのように、
お前が毎日毎日、何度も何度も、同じように言われ続けたら、
死にたくなったりしないかい。

私はきっとうなづくだろう。
自分の味方がだあれもいない、だあれも自分を助けてくれず、
守ってくれないなら、死にたくなってしまうだろう。

ちやこ、ちやこ、みんながやってる普通のことが、お前を自殺させてしまうんだよ。
みんながやってる普通のことで、お前は追いつめられるんだよ。
それでも言うのかい、そんなに悪いことじゃないよと。

でも、私は毎日言ったりしないよ、
一度悪口を言っただけかもしれないよ、それならそんなに・・・・

そんなに悪いことじゃないと言うのかい。
ちやこ、お前は何回言われれば自殺するね。
10回かい、20回かい、100回かい。

そんなのわからないよ、そんなのみんな違うし。

そうだよ、みんな違うんだ。
ならわかるだろう、たった一度言われただけでも、ものすごく悲しむ子もいるってことが。
死にたくなる子もいるかもしれないことが。
ちやこ、いまお前はようやくわかったね。
お前が普通だと思っても、そう悪くないと思っても、それはやっぱり悪なんだよ。
小さな火の粉も森を燃やすことがあるんだ。

でも、そういうことをいちいち悪だ悪だって思ったら、
なんにも出来なくなっちゃうよ、悪いことだからできないって思ったら、
お肉だって食べられないよ。

そうだね。
やっちゃいけないことをしないと生きられないから、私たちは生まれながらに悪なんだよ。
誰かをバカにしたり、悲しませたり、怒らせたり、
ほかの動物の命を奪ったりしながら、私たちは生きていくしかないんだよ。

赤ちゃんは、そんなことないよね。悪いことなんかしないよ。

そうだね。
でも、赤ちゃんはずっと赤ちゃんのままではいられない。
赤ちゃんに知恵がつけば、いずれは私たちと同じになるだろう。

じゃあ、私たちはみんな悪人なの。

悪か善かでいえば、悪なんだろうね。
でもね、「自分は悪人だ」と知って生きるのと「悪くなんかない」と思って生きるのは、
全然違うんだよ。
私は自分が悪人だと、よく知っている。
だから、常に光のほうを見て、用心しながら生きなければいけないことを知っている。
闇ではなくて光に向かって歩かなければいけないことを知っている。
そうなりたいと思っているんだ。
とてもとても難しいことだけれどね。
ちやこ、小さな私、お前がこのころからこの言葉を知っていてくれたら。
小さなお前の心に届けばよかったんだが。
「謙虚でありなさい」



追記:誰に向けたものでもありません。
私自身に向けたものです。
どうかあまり、深読みしないでください。


胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたが白髪になってもわたしは背負う。
なお、わたしは運ぼう。 わたしは背負って救い出そう。
   イザヤ 46章

シアワセと言っておく

冗談もどき
10 /25 2012
自動車系製造業に携わる我が家に明るく燦然と輝く未来はなさそうであるが、
いまのところ飢えもせず寒さにも震えることなく、
てろてろのんきに暮らしていられるから、これをシアワセといわずしてなんと言おう。

どれくらいのんきかというと、
来月の売り上げが100万あるかないかというくらい、のんきである。
慌てようが焦ろうが、必死に注文を求めて営業に回ったところで、
いまはもうしょうがないのだと言うことが、
ここ数年の経験からわかっているので、
とりあえず夫は(昨日見ていた限りでは)平和そうな顔をしていた。

病み上がりの義父の体調が次第に良くなってきているし、
その世話のために、生き甲斐の畑仕事から遠ざかるしかなかった義母も
少しずつ土いじりの出来る時間と余裕が与えられて、明るい顔つきになって来た。
夫にはこれが安堵材料なのであろう。

3年生の娘はいまちょうど臨地実習とかいうものをやらされていて、
慣れぬ環境にふらふらになりながらも毎朝5時に起き、
犬2匹を連れて散歩に出てくれる。
(私には普通に見えるのだが)夫にはまたこの真面目さが喜びの材料である。

それに、なんといってもこのワタクシが
「もっと金稼げ!」とか「老後はどうするんだ!」とか言わずに
大概いつもぽやんとしているので、これがまた大変良いのだと思われる。
良いに決まっている、良いと言え。

そんなよく出来た妻であるワタクシは、無給に文句も言わず、
昨日も夫の会社の事務を手伝いに行った。
そして帰ってから夕食を作るのは面倒だと思ったので、
帰路の途中のすき屋に寄って「ネギ玉牛丼2個、山かけわさび牛丼1個」を買った。

牛丼を買ったら急にお腹が空いたので、
「お腹が空いた歌」を助手席でやんやか歌っていたら、
夫がすいっとマクドナルドのドライブスルーに入ってくれた。
「おごってあげる」と言ってくれたので、
2人で100円マックを1個ずつ食べた。
もちろん娘には買わない。夫婦の秘密、ということにした。
ほかほか出来たてのハンバーガーは、おいしかった。
夫婦だけの秘密も作ったことだし、ああ、これをシアワセといわずしてなんと言おう。

家に帰ると腹減り娘もくたくたになって帰って来たので
3人でいただきますにした。
少し前にハンバーガーが胃に入っているので、牛丼の並でもさすがに多い。
食べきれないところを会話でごまかすワタクシ。

私「あのねぇ、おじいちゃんに聞いたんだけどねぇ、ヨシワラってあるでしょ、
浅草の吉原、パパの実家から歩いて行ける吉原」
娘「ああ、聞いたことあるよ、近いんでしょ」
私「あそこってね、お祭りの日の夜は普通の女性も通行できるけど、
平日の夜は素人女性が歩くと水かけられたんだってさ」
娘「商売の邪魔だってわけ」
私「いつ頃の話か知らないけどさ~、お酉さまだろうが羽子板市だろうが
いつもパパが雑踏避けて吉原抜けて行くからさ、ママはそんなの全然知らなかった。
きっと時代が違えばさ、ママみたいな清純派タイプは水をかけられちゃうんだわ~」

いや、ここで凍りついたりはしない。

夫は思いっきりニヤつき、言い放った。
「平日だろうが真夜中だろうが、おばさんに水なんか掛けるもんか」
娘も容赦しない。
「おばさんはどこに行こうが現れようが全然平気よぉ」

夫が言い募る。
「50過ぎのおばさんなんか誰も見やしねぇよ」
娘が追い打ちをかける。
「お店のゴミでも出しに来たのかしら、ってなもんじゃない?」

夫がくどい。
「呼び込みのあんちゃんと立ち話まで出来るんじゃねぇの」
さらに娘が。
「お店の中からお姉さんが出てきてさ、おばちゃんおにぎり買ってきて、とかさ」

 清純云々は、もちろん受け狙いで言ったのだが、なんてこった、
そんなに盛り上がられると、悔しいような、おもしろいような、
もっと盛り上がっちまえ的な気分になるではないか。

かくして夫と娘は、平日夜に吉原に現れた清純派のおばさんであるワタクシを
あれやこれやと作り込んで、牛丼をさらに美味しくするのであった。

(平日の夜に吉原に現れた清純派のおばちゃんであるワタクシはお店からゴミを出し、
呼び込みのあんちゃんと「寒いわねぇ」「不景気だねぇ」と話し込み
「あとで食べな」と六区で買ってきたセキネのシュウマイを渡し、
「あんたんとこの子供いくつになった」とやっていると、
お店からきれいなお姉さんが顔を出して「おばちゃんおむすび買ってきて~」。
「あいよ、シャケだっけ」
「今夜はツナマヨと梅がいいー、無かったらシャケと梅でいいよ~」
「あいよ~」と清純派のおばさんのワタクシは風に吹かれて吉原を一人てくてく・・・
そして、ころっとけつまづくのであった。ああ昭和の香りがする)

清純派がばりばりの下町のおばちゃんに、
しかも元吉原勤めみたいな感じになっているが、人柄がよさそうなので良しとした。
人間やっぱり人柄だしね。
これをシアワセといわずしてなんと言おう。
いや、ほかに言い方はないな。ちゃんちゃん。


おまけ:「お腹が空いた歌」 作詞作曲 ちやこ

♪ おーなかーがすーいたー
おなかがすーいたー 
たーべたーい たーべたーい なんでもいいよー
だーれーか やさしい ひといないかなー ♪