21年目のパジャマ

こころ
12 /01 2012
先週だったか、着ているパジャマを夫に示して私は言った、なにげなく。

「これ、パパちゃんが買ってくれたの覚えてる?」

「うん」
別に興味もなさそうに、テレビを見ながら夫が頷いた。

「妊娠した時に買ってもらったマタニティ用なの、覚えてる」

同じように「うん」。

「毎年冬に着てるんだよ、だからね、もう21年着てるの」

「うん」。

「いいパジャマ買ってもらったからさ、色も模様も褪せてないのにさ、
ゴムのところだけ布が擦り切れてバーコードみたいに薄くなったよ。
21年も着てるってちょっとすごくない?」

「うん」夫はちょっとすごいな、という顔をした。

実は21年も毎冬着ているとは、自分でも気付いていなかった。
ゴムの部分の布地が擦り切れて、はじめて、ああもう21年も着ていたのかとびっくりし、
急に嬉しくなって、二階の夫にわざわざ報告しに行ったのだった。

21年前お腹にいた娘にも言ってみた。
毎年私が着ているのを見ていた娘はちょっとどころかかなり驚いた。
「に、にじゅういちねん!」
私はなんだかニコニコした。えへんえへん。

21年も着られるパジャマを、若い日の夫は喜んで買ってくれていたのだ。
そのときお腹に宿っていた娘が、元気にこうして成長してくれているのだ。
50歳まで生きられるとは到底想像も出来なかった私が、こうして生きていられるのだ。

このパジャマ、もうあと10年着たいな、などと、
ひとりにやにやほくそ笑んでいたら、夫が二階から降りてきた。

「今度新しいパジャマ買いにいこう」

いやいや、そんな意味ではない、と私が言うと、夫も頷いた。
そんな意味じゃなくて、買いたい気分になったから買ってあげる。

へえ、そうなんだ、パパちゃんも少し、私と同じような幸せを感じてくれたのかしらん。

ねぇ、でもさ21年着られるパジャマって、いまもきっと高いわよ、万よ、万するわよ。
いいよ、それでも。夫はそれだけ言って二階に上がって行った。

そして今日の午前中、私は夫に連れられてデパートのパジャマ売り場に行ったけれど、
21年前と違っていまは、20年も着られそうな、
しっかりしたネル生地のパジャマは見つけることが出来なかった。

ママちゃん、いいじゃん、安いのでもいいじゃん。
もう20年も着なくたっていいじゃん。
うん、そうだよね。

催事場で安く売り出していた婦人用パジャマ2枚、ふたつで5000円しない。
迷いに迷っている私を、夫は大人しく待ってくれ、買ってくれた。
うん、うれしい。ありがとう。


多分来年には毛玉だらけになりそうな、合成繊維のパジャマだけれど、
私は風呂上がりにそれを着て、またトコトコ二階に上がり
テレビを見ている夫に見せに行った。

よく似合ってます。
夫が少し笑って言った。

合成繊維は慣れてないので、少しちくちくするみたい。
でも、生地がふんわりしていて、温かい。
できるだけ、大事に着ようと思う。

21年着たパジャマも、もちろん着よう。
大事に着よう。もうこれは、捨てられそうにない。
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専業主婦と仕事についてだらだら考えた

いろいろ感じたこと
12 /05 2012
純粋に自己実現のために社会に出て自分を試したい専業主婦は
この現在の日本に、どれくらいの数いるのだろう。

私個人の感覚としては、それほど多くないように思う。
専業主婦が仕事を持つ理由の多くは、自己実現のためというより
家庭経済のためである場合が主ではなかろうか。

夫が500円玉で昼食を済ませているのに
妻が2000円も出してお友達とランチをしているなどというのは、
マスコミがいくら煽ろうとも、やはりごく一部の人々であって、
実際は残りもので済ませるか、
贅沢をしてもせいぜい398円のお弁当を買ったりする程度にとどまるものだ。

少なくとも88円の卵を買うために、
遠くのスーパーまで行く労力を惜しまないタイプの主婦は、
そういう小さな節約を日々に重ねている。

妻がそういうちまちました生活をしているのに、
夫が「俺が稼いでいるんだ!」などと短慮な言葉を吐いて、
「稼ぎのないお前なんか」的見下した態度を取るなどするから、
妻が「だったら私だって働くわよ」と歯をぎりぎり言わせてしまうのだ。

専業主婦なんかに何ができるんだ?
という人は専業主婦のだらしのない世間知らずの面しか知らない人だろう。

世の中には私のように完全な阿呆の主婦もいるが、
子供を育て老親の介護をこなし、町内会の役員をやり、
PTAのうるさがたさえ納得させる采配力を備えた、実力派の主婦も存在する。
そういう人が偶然パートに出て、突如大出世をしたりするのである。



というわけで、
かような人材が専業主婦として一生を終えるのは社会の損失である。
・・・・・・と、様々なところで語られているのであるが、
果たしてそれは本当に社会の損失なのだろうか、と私は常々思っている。

出来る主婦が力と能力を世に求められているのはわかるが、
別に出来る主婦のままでいるそのことがイコール社会の損失になるわけでもないだろう。

できる主婦は出来る主婦としてガンガン主婦力を発揮して行くという道もあるはずだ。
別に経済社会に進出しなくても、出来る主婦を必要とする媒体は
家事全般に介護に子育てボランティアにと・・・そこいら中に存在している。

しかし、だ。
私たちの世代あたりはすでに評価主義に毒されてしまって、
能力の評価としての金銭収益を求められないものを軽視しがちだ。
「仕事でもあるまいに、どうせお遊びだろう?」
という失礼千万なセリフに代表されるあれである。

金銭収益がある業務、世に出る仕事が上で、
金銭利益が無く世に出にくい家庭内や狭い世間での主婦業務が下という考え方は
金銭至上主義的思考で、ともすれば倫理観さえ押しのけかねない。

だから上述のような嫌味皮肉にむっとして反応する必要などない。
世の中や男が、夫が、ばりばリキャリアの同性がどう思おうがなんと言おうが、
専業主婦は平気で笑って受け流せばよい。

仕事を失えば自分自身さえ失いかねないそんな貧しい思考の連中に
専業主婦は今日もほかほかのうまい飯を炊き、洗濯物を洗ってやる。
まぁいいさ、それくらいの懐の深さがあってこその専業主婦だ。
暮らしの中の愛というのがなんなのか、どんなものか、
一番良く知っているのが専業主婦なのだから。

純粋な女

本にまつわる
12 /06 2012
なにをどう書いていいのやら全然気持ちがまとまらず
この感覚をどう整理するべきかもわからないのだけれども、
このばらばらのままの感情でも、それがとても大切だと思えるので
順番にただただ書き留めておきたいと思う。

だからこれは意見でも考察でもない、
読み終わった小説の、観終えた映画のあらすじでしかない。
それでも書き留めておこうと思えるのは、
いずれは曖昧になり、忘れたり、勝手に脚色したりしたくないからだ。

以下、京極夏彦氏「死ねばいいのに」と
ラース・フォン・トリアー監督の映画「奇跡の海」に関するネタバレを含んでいます。


ライン


買った文庫を開いたら
暗闇の中に薄布をかけた程度の裸体の女があおむけに横たわった絵があり、
乱雑に「菩薩」と記されていた。

物語を読んでいくと、ある女性が殺されたらしかった。

それは
誰からも尊敬されず重んじられてもいないと感じている中間管理職の男性の
ただ一人の真面目な部下として、
ときに愛人として存在していた女性だった。

それは
能力は高いのに仕事にあぶれ、恋人ともうまくいかない30女の隣人で、
その30女から脅迫メールを送りつけられながらも
彼女の仕事の能力の高さを尊敬していた女性だった。

それは
たった二十万の借金のカタに彼女をもらいうけたヤクザが
弟分にお下がりとして与えた女性、男の所有物、人格のない「モノ」と言われた女性だった。

それは
母親に愛されもせず、母親が男を変えるたびにおまけのようにくっついて、
子として愛されようと一生懸命になって見せ、最後に売り飛ばされた女性だった。

その女性は、誰のことも恨まず、だれのことも憎まない。
ひどい目にあっても、意地悪をされても、淡々と受け入れて怒らない。
いろいろあったけれどいまはとても幸せだから、
だから今なら、死んでもいいよ、と静かに笑って殺された女性。
どう考えても不幸に思えるのに、彼女自身は心底幸福そうに笑っていた。

だから、菩薩、なのだろうか。



もう一つのお話はヨーロッパが舞台。

厳しい長老派教会の、敬虔で純粋な娘ベスがよそ者ヤンと結婚した。
ヤンが恋しくて恋しくて狂おしいほど恋しくて
海底油田の仕事で数カ月も帰らないことに耐えられないベスは神に祈った。

もう待てません、ヤンを返してください。

ヤンは帰った。
仕事で怪我をし、いつ死んでもおかしくない重症の身に、
首から下が動かない寝たきりの体になって。

ヤンがこうなったのは自分の祈りのせいだとベスは思った。
それでも愛する男が生きていて、その近くにいられる喜びを持って、
ベスは看病するが、ヤンは違うことを考え始める。

俺はもう彼女を愛せないが、彼女は自由であるべきだ。
それがヤンの考える愛だった。

だから誰かとセックスしてくれ、俺はそれを聞いて、
心でお前とセックスできるから。
俺に生き甲斐を与えてくれ。

ベスは彼のために生きていた。
ベスの愛は彼にすべてをささげることなのだ。
神に祈り、愛する証拠を見せようと決心したベスは、
吐き気を催しながら、半泣きになって、犯されるようにほかの男にセックスをさせた。

そして寝たきりのヤンにそれを語った。
さも良かったように語って聞かせた。
私が抱かれたのは他の男にじゃない、「あなた」になのだと。
そしてベスの話を聞く度に、ヤンは命の危機から戻って生きながらえた。

ヤンの具合が悪くなる度にベスは知らぬ男に身を提供し、
娼婦とみなされてついに教会から追放された。
子供らに追いかけられ、母親も彼女を家にいれず、
ベスは哀しみと疲労で教会の前で倒れてしまう。

だが愛する男がついに危篤だと教えられ
ベスはまた彼の命のために、だれかとセックスをして助けなければと立ち上がる。
もはや彼女は、自分のこの行為が彼を救っていると信じて疑っていない。

ほかの娼婦たちさえもが避けている危険な連中のところに彼女は向かった。
そして彼女は犯され、傷だらけの瀕死の状態となって、病院に担ぎ込まれた。

愛する男のためにしたことだったのに、ヤンはいまだ危篤のままだと知ったベスは
「神様ああ、全部間違っていた」とつぶやいて息を引き取った。

寝たきりだった男は奇跡的に歩けるまでに復活した。
教会によって地獄に送りだすとまで言われたベスの遺体をヤンは盗み出し、
油田近くの真夜中の海に沈めた。

その朝、海の真ん中ではっきりと大音声で響き渡る鐘の音を聞くヤンと油田の仲間。
ベスの純粋な魂が天国へと迎えられた祝福の鐘であった。
ライン


どちらも男の考え出した話である。
そういえば、古くはモーパッサンの名作「脂肪の塊」も
善良で気高い精神を持つ娼婦が主人公だった。

果たして実際にこんな女たちが存在するのかどうかは知らない。
私はこれほどに純粋な人を知らないが、
この世界のどこかにはこんな人がいるのかもしれない。

ある人は読んでいて腹が立ったと言い、ある人はこの監督は女嫌いに違いないと書いた。
どちらも愚かな女が死んでいく話だ。

その愚かさを「馬鹿げている」とみるか
「純粋だ」と見るかによって、受け止め方はまったく違う。



私はというと、最初に述べたように、よくわからない。
京極氏の「死ねばいいのに」では
すべて受け入れ許す女性が菩薩とされているように感じるが、
その菩薩が自分を他人に殺させるのである。
殺した側は殺人者になるのだ。
菩薩が人殺しを作るという結果に、私はもやもやする。

「奇跡の海」にももやもやする。
どんなに純粋でも一生懸命でも、彼女の行為は罪なのだ。
罪であっても、神を信じて告白しているベスは当然天国に行く。
地獄落ちだと宣言する教会がおかしい。

それにしても男にとって女の純粋は、性を抜きに語れ得ぬものなのだろうか。

このふたつの話を見知って、立腹を覚える者の多くが女性だという事実の底には
男の性の道具とされることを一切否定しないどころか、
むしろ進んで身をゆだねて甘んじる、同性に対する怒りと嫌悪がある。

女性がそのあまりの優しさと寛容、純粋の故に落ちゆく果てに
男性は美と感動を見出すが、そこには男性が上から下を見る視線が存在している。
一部の女性たちはそこに耐えがたい侮辱を読みとるのだろう。

女が性に絡めとられてなお、自分であることを毅然として維持しようとする
描き方の方が、私としては納得できるのかもしれない。
カンピオンの「ピアノ・レッスン」のように。




・・・・・書くものがだんだんエッセイではない気がしてきた。






 



地震が来たときのこと

出来事から
12 /07 2012
久し振りに携帯電話からあの音、キューインキューインという
あの嫌な音が響いて来て、うっ、来るのか?
と、退路を確保しガスの元栓を閉めテレビをつけるなどしていると
犬が怯えて吠え始めた。

その頃はすでにぐらぐらと揺れていたが、
とりあえず2匹の犬の首にリードをつなげた。
持って逃げるべきものは、たくさんあったはずなのに
あの日の地震の記憶以来、揺れにおびえるようになった犬を落ち着かせて
連れて逃げることしか思い浮かばなかった。

3月11日の揺れに比較するとまだ歩けるし作業ができる程度だった。
あとで情報を見ると、うちのあたりは震度4だったらしい。
NHKはBSも教育もすべて、殺気立つほどの強い言葉で津波から逃げろと繰り返していた。
民放局が冷静な対応を呼びかけているのに比較して
NHKはあからさまに必死な声と迫力で、数十分も逃げろ逃げろと。

「決して立ち止まったり、物を取りに引き返したりしないでください!!
警報が解除されるまで高台に逃げてください!!命を大事にしてください!!
3月11日を思い出して下さい!!今すぐ避難してください!!」

これはあの大地震大津波の日、危機感のスイッチが入らないままに避難せず
津波に呑まれていった人々が非常に多かったことを教訓として、
人々に危機感スイッチを入れるための手段としてNHKが採用したのだろう。
たしかに、NHKの緊迫感と必死さを見れば、危機感スイッチがカチッと入る。
私などは、あの放送によって思わず震えが来そうになった。
声の調子がとても怖かったのだ。

3月11日の地震の日にその存在価値を世に知らしめたツイッターでは
あの緊迫感ある放送によって、津波の被災者たちの心に
フラッシュバックやトラウマによる傷のぶりかえしを案ずる人も現われた。

また、目の見えない人は津波警報の文字が見えず、聞こえない人は津波警報の情報が聞こえない、
動けない人は逃げられない、だからなにが起きたのか、声をかける、筆談をするなどで
なんとかして伝えてほしい、という作家、大野更紗のツィートが一気に広がって来た。

料理研究家のこうちゃんは3月11日も被災したけれど
今回は仙台空港に着陸した途端に地震に遭い、空港に缶詰めになったそうだ。
いま、地震から1時間経過したが、
仙台空港内ロビーは到着者もそうでない人もごちゃまぜになっている。

国産シャープのテレビでDVDを見ていた人は
テレビ放送を見ていたわけでもないのに緊急地震速報が割り込んで入ったそうで、
さすが地震国日本製品はモノが違うようだ。

そろそろ私の気持ちも落ち着いて来た。
NHKもすでに落ち着いている。
大きな余震が来ないことを希望したい。

夫は相変わらず深く考えない性格そのままに、会社帰りに温泉に寄ってくると連絡があった。
娘は都内で帰宅時に地震に遭遇し、乗った電車が目的地を変更したり、
下りのはずの電車が上りになったり、いろいろな混乱にふりまわされている模様だ。
犬はすでに落ち着いて眠りこんだ。

ちなみに地震直後の在京キー局の放送はこんな感じだった。
これもツィッターから。
『NHK「津波です!避難してください!」日テレ「地震が発生しました!」テレ朝「津波が発生しています!」TBS「津波警報です!」フジ「津波警報です!逃げてください!」テレビ東京「見てくださいこのプリップリのヒアルロン酸コラーゲン!」』

さらにテレビ東京はこんなことまでやらかした
https://twitter.com/naz0maju/status/276973976209719296/photo/1

まぁこれは、ある種関東人の鎮静剤でもあるけれども。
ある人がこうツィートしていた。
「テレビ東京を確認。大丈夫だ!テレビ東京が通常番組を放送している時は、日本は安全!伝説の放送局だからね。」

とにかく、余震が小さいことを。
年末に酷い災害が来ないことを。

障害者と平等についてちらっと思う

こころ
12 /08 2012
むか~し昔、あまりに昔でものすごく曖昧になっているので
間違っていたらごめんなさい、
というか正しい話しを知っている人は教えてください・・・・
と前置きしてはじめよう。

とにかくすごく昔、
NHKで「大草原の小さな家」という洋ものドラマがあって、
そのどのシリーズだったか全然わからないのだが、
主人公のローラの体がしばらく悪くなって(もしかしたらローラのお姉さんかな?)
それでも学校に頑張って通っていると、
みんなが優しくかばってくれるので、勝気なローラはそれが悔しくってたまらない。
「前と同じように仲良くしたいのに」

しかし意地悪ネリーはローラが調子が悪かろうがなんだろうが
以前と変わらず平気でガンガン意地悪をしてくる。
するとローラは言った。
「ひどいわネリー、わたしこんな体なのに」

(どちらもセリフはものすごく適当です、
覚えてないので、ローラのどこが悪くなっていたかさえも)

そのことをベイカー先生はこう言って叱った。
「優しくされれば、以前の通りにしてほしい、特別扱いは嫌だと言い、
いじめられれば、私は弱いのにひどいと言う。
ネリーは君を前と同じように扱っただけじゃないか、
君はどっちがいいんだ」

深い。
うーん、まったく深い、さすが大草原の小さな家は深い・・・・
と書いていて改めて思っちゃう私である。

なぜこんな話を持ってきたかというと、
全ブログ村の注目記事のトップにある記事を読んで、ふとそれを思い出したからである。

察しのつく方は当該ブログを数日さかのぼって読んでみることをお勧めしたい。

で、当該ブログの筆者は堂々と言ってのけている。
それはブログ記事の題名にもなっている。

ざっと説明すると、
「障害者に付与される生活保護費を生活のためでなく、
他者へのプレゼントや娯楽のために使用する障害者がおり、
そのことに対する納得できない感覚をブログ筆者は持っている。
そこに第三者的障害者から、
生活保護費を受ける側の使用目的は制限されていない旨の書き込みがきた。
以降ブログ筆者とその第三者の障害者間において、
いろいろと不快な感情が飛び交った模様である。」という感じ。

そこであの強烈な言葉をブログの筆者は堂々と公開した。
でも私にはあの言葉を書く勇気はない。
というか、私にはその資格がない。

あの記事を書いた人はまさしくベイカー先生的な立場にいるのだ。
筆者は障害者ではないが重い障害のある女の子を母子家庭で頑張って育てていて、
母親としてのその努力には、私など読むたび頭が下がる思いがしている。
だからブログの筆者はあの言葉を書けた。

相手が障害者であろうと、対等な人間として扱ったのである。
自分の障害ある娘にも人間としての自由な権利を持つ者として思考し
現にそのように行動しようとしている人だからである。

第三者的障害者が人間として当然のこと
「もらったものは何に使ってもよい、障害者だから遠慮しなければいけない、というのはおかしい」
を言ってきたのだから、同じ人間としてはっきりとものを言っただけのことである。

さて、どちらが正しいのだろう。

平等な人間として自由を欲するのに、障害あるものとして保護してほしいという考え。

これは矛盾しているのだろうか。
それとも両立するのだろうか。

両立させようとするのが世の中の建前ではある。
しかし実際にそれは非常に難しい。
自分の娘の記事を書く度に
いろいろな場所で凄まじい悪意や批評にさらされているあのブログの筆者であれば、
その厳しさをいやというほど経験しているに違いない。

だからそういう人の言葉はとても重たい。
重たいけれども間違っているのかもしれない。
間違っているかもしれないけれど、一面の真実かもしれない。

正直なところ私はわからない。
ローラのときもわからなかったし、いまもわからないままだ。
そういえば私もあのブログに筆者に嫌われるかもしれない知的障害ではない障害者である。
(生活保護は受けていないけれども医療費の助成は受けている)

私は、うん、世の中に甘えている。これは事実だ。動かしようがない事実だ。
それだけは確かに認識している。








話を聞くこと

こころ
12 /09 2012
あれはたしか私が21歳の時だった。
まだ5歳前の男の子のお子さんを持っている30代前半の女性が
病室での会話の中でこんなことを言った。

「子供のことしか話さない女って大っきらい」

その話しを受けてふんふんと相づちを打っていたのは
やはり入院中の、歌舞伎町のスナックのママさんだった。
歌舞伎町のママさんは40代ほどだったが、
ふんふんと相手の話を促すばかりで、内容に関しては是とも非とも言わなかった。
歌舞伎町にはいろいろなタイプのママさんがいるけれど
このとき同室だったママさんは、常識的で穏便なタイプだった。

「子供のことしか話さない女が大っきらい」な女性のほうは
どちらかというとエネルギッシュにバリバリ仕事をしている人で、
いわゆる「竹を割ったような」物言いをする人であった。

まだ若い私は「子供のことしか話さない女」がどういうものか知らなかったが、
発言者の侮蔑的な言葉つきから、そういう女にならないようにしないといかんな、
と胸にたたみこんだ。

で、あれから30年が過ぎた現在。
私は、子供のことしか話さない女に出会ったことが無いのである。

小学校のPTAの役員をさせられていた折りですら、
子供のことしか話さない女性には、ついぞ出会うことがなかった。

世代的に子供に一番興味がある年齢の人には、そういう人がいるのかもしれないが、
私はふんふんと聞きながら、このブログのように話を次から次へと広げてしまうので、
子供の話から夫の話に移り、仕事の話になり、最近のニュースの話になり、
テレビの話になり、お天気だの、植物だの、本だの料理だのの話になるので、
子供の話オンリーだった人を知らないのである。

そういえば子供の話で始まって、サッカーの話になり、ドイツの壁の崩壊の話になり、
しまいには毛沢東批判と近代中国に関する講義もどきを受けてしまうはめになったこともある。

だから私は「子供のことしか話さない女って大っきらい」と言ったあの女性にこう思う。

それはね、当たり障りのない話題を持ちかけてただけですよ。
あなたはそれがすべてと思って軽蔑したんでしょうが、
どうしてどうして、みなさん結構いろいろ面白いですよ。
申し訳ないけれど、それはあなたに聞き役としての才能が無かったと言うだけのことでは。

とはいえ、「~しか話さない人」というのにバチッとはまり込む対象も、
この世には絶対に存在している。
私が何度も出会って来たのが、「自分のことしか話さない人」である。

このタイプは男女を問わず、特に高齢者に多いような気がする。
どんなに話をよそへ持って行こうと画策しても、その様な人は、内容の如何にかかわらず、
それに添っているとその人が考える「自分はそんなときこうだった」という話をする。
そしてそこから、その人が一番話したい「自分の経験」へ話を持って行くのである。

正直私はこの手の人と話し込むことに苦痛を感じる。
これは自分の経てきた経験や思考、苦労や褒章などを他者に語ることによって
自己のアイデンティティを確認しようとする行為にほかならない。

一人暮らしのご老人の話を聞く役割のボランティアさんなどは、
こういう話を聞きとるプロフェッショナルだと思う。
この仕事は誰にでも出来ることとわけが違う。
誠実で忍耐強くて、寛容で受容能力が高く、穏やかな性質でないといけない。
それらの能力はすべて全部私の持ち合わせぬものばかりである。

だから私はそれらのプロフェッショナルボランティアさんに言われるであろう。

あなたね、お年寄りの話って実はすごく深いものなんですよ。
その人の人生の数々の思い出や経験を聞かせてもらうことは、
私たち自身の人生に多くを教え、与えてくれるんですよ。

ああ、でも出来ない。
出来ないけれども、私も年老いたらきっと「聞いて聞いて」とやるのだろう。
このブログで書いているようにくだらない話をだらだらと。

誕生日

出来事から
12 /11 2012
朝9時 苺のショートケーキを買ってきてね、と夫にメールをする。

11時半まで洗濯だの掃除だのテレビだので過ごす。
11時半買い物。娘が食べたいと言ったものの材料ばかり買う。

12時帰宅、すぐにさといもの皮をむき、煮転がしを作り始める。
12時半、予約していたCSIというエグイ場面がよく出るドラマをほとんど見られず
さといもにかかっている。

1時半、さといも煮転がし出来上がり、夜まで味をしみ込ませる。
自分の昼御飯に焼き鮭の残り物と冷ご飯でおむすびを作って食べる。

2時、出来かけの帽子の続きを編み上げる。
犬のセーター二着目を編み始める。

4時、テレビで相棒(再放送)をつける。
4時半、米を洗う

5時、夫よりメールの返信「あい!!」とのみ。
娘のためならえっさかほいさの夫らしい「!!」つき。
この「あい」は「はい」ではなくて「愛」だ。
炊飯器のスイッチを入れる。
ほうれん草をゆでる。茄子とエリンギのガーリックバターしょうゆ炒めを作る。
玉ねぎのスライスを大量に水に放す。

5時半、娘帰宅
ほうれん草とウィンナーとコーンの炒め物を作る。
一部ほうれん草のナムルにする。
びんちょうまぐろとアボカド、玉ねぎスライスでサラダ。

6時夫帰宅、不二家の箱に娘が歓声をあげる。
箱が堅く四角い。もしやと思ったら、イチゴショートケーキではなく
苺のバースデーケーキ(ホール)だった。
ちゃんと娘の名前の書かれたウェハースも乗せてあった。
娘が喜んで食卓の料理の最前にケーキを並べて、何枚か写真に撮る。
夫が風呂に入っている間、娘はこたつでウキウキしながら食事を待つ。

7時、夫が風呂から出てきて食事の始まり。
「さすがにろうそく21本くださいとは言えなかった」と夫は笑いながら席に着く。
だれも歌わないので私が一人真剣にハッピーバースデーをうたう。
「なんか、申し訳ないです」と娘は照れつつ夕食の始まり。
今宵はすべて娘の好物。
夫は日本酒が進み、娘も今日はダイエットなど考えずによく食べる。

1時間半ほどの食卓のにぎわい。
ストーブの前には犬が二匹伏せをしておこぼれを待っている。

ああいいなぁ、と思う。
誕生日に家族がちゃんと準備をして好きなものばかり作ってくれて、
仕事帰りにケーキも買ってきてくれて、
楽しそうに嬉しそうに過ごす誕生日の夜。

なぜだろう私には誕生日を特別に祝ってもらった記憶がない。
少なくとも家族が揃って席に着き笑いあってケーキを食べた記憶はない。
生まれて半世紀の特別な誕生日には、こんなふうにして過ごせたらよかったなと
過ぎたことをちょっと悔しがる。
もっとも、そんなことを家族にしてもらえる主婦は、そう多くないだろう。
でも、そんなことはもういい、今夜は家族の心からの笑顔を見られたから。

今宵の記憶は、娘の心に残るだろうか。
この幸福な記憶、両親に愛された記憶は、いつか娘の自信となってくれる。

いつか娘も誰かのために、せっせと用意し料理を作り、
その人のためにハッピーバースデーを歌うのだろうか。

そのころには、娘も、与えられる幸せのほかに、
与えることの幸せを知っている人になっているだろうか。

与えることの幸せは、なかなかに味わいが深い。








認知症の親の施設の料金

いろいろ感じたこと
12 /12 2012
母の暮らすグループホームは2階建ての民家である。
立派な鉄筋コンクリート住宅や、美しいホテルのようなたたずまいもなく、
廊下をすれ違う時には肩が触れ合うような、普通の2階建て住宅である。

もちろん田舎なので家の広さは都会よりはかなり大きいが、
田んぼの真ん中にどーんと建てられた体育館並みの広さの豪華グループホームとは違う。
しかし狭いと職員の目が行きとどきやすいだけでなく、
入居者同士の距離も常に近くなるので、
ボケたじいさんばあさんが一人でぽつんと過ごしていることはほぼ無い。

入居者は昼寝や夜の睡眠時以外はほぼ1階のリビングに集合している。
自宅の居間に家族が集まっているのと類似した状況である。
集まって何をしているかというと、洗濯物を畳んだり、絵を書いたり、
歌を歌ったり、踊ったり体操をしたり、おしゃべりをしたりしている。

いまは寒いから散歩は短いが、気候のいい時期は1日2回散歩に連れ出され、
1回30分近く歩いてくる。(車いすの人もいるが)
年寄りが毎日それくらい歩くとなかなか疲れるもののようで、
全員夜はぐっすり眠り、徘徊する人はいない。
(昼寝時間以外は自室に戻さず、何かさせて起きているよう働きかけているし)

私はこのホームを非常に優れたところだと認識している。
入居者のほとんどの人は(といっても現在入居者は8人)入居始めの頃より元気になり、
精神的に落ち着いた状態になるからだ。
それでも半年に一人くらいは、このホームを出て行く人々もいる。

その理由はだいたい二つしかない。
認知症以外の病気(糖尿とか)が重症化して病院に入院してゆく人。
そして
経済的な問題で特別養護老人ホームや、老健に行く人、である。

先日グループホームから出て行ったお爺さんは、老健に移ったそうだ。
老健で毎月かかる費用は9万円ほどだという。
母のためにグループホームに支払う金額は、毎月13万ほどである。

これでも母のいるグループホームの費用は、
都内はもとより、埼玉県内のグループホームの中ではかなり安価な方だと思う。
少なくともうちの近辺では一番料金が安い。
安いと言ってもこの不景気であるから、
その値段を支払い続けるのは各家庭ともいろいろある。

うちのような貧乏人が母をグループホームに入れていられるのは
母がかつて大きな会社に勤めていて、ホーム代くらいはなんとか支払える程度に
年金がもらえているおかげだ。
先日ホームを出て行って老健に移ったお爺さんはT鉄道の社員だったので、
その人にも一人分のグループホーム代を支払える程度の年金は下りていることとは思う。

お爺さんのところには、息子さんや娘さんが複数面会に来てくれていたが、
あんなに子供がいても、親の施設の代金を払い続けるのが難しいこともあるのだ。

経済的な問題で別の施設に移った人たちの話はあまり詳しく聞いていないが、
大抵はベッドに寝たままの生活になり、トイレではなくておむつにされることから
認知症状の進みは早くなるそうだ。

老健に移って行ったあのお爺さんの娘や息子はいまごろ、
自分の父親がおむつをあてられ、
日に日に歩けなくなっていくのを見なければいけないのだろうか。

景気が良くなれば、こんなことも少しは減ったりするのか。
それとも。

親が老人になった日

出来事から
12 /12 2012
義父の肺がんは2年前で胃がんを切ったのが今年、そして先月は
皮膚がんかもしれないということで顔に出来たいぼ状突起を切除した。

住まいである東京下町の家にいる時、義父はたいてい着こんで
日がな一日横になって暮らしているのだそうであるが、
義父は体が復調してくると、茨城にある自分のつくった工場に来て、
自動車の関連部品である鉄を切ったり溶接をしたり曲げたりして以前のように働いて、
出来上がった品物を群馬のメッキ工場まで大型トラックで運びもする。
じき80代という高齢ドライバーであるが、
免許の更新時の高齢者に与えられるテストでは断然たるトップ成績なのだそうだ。

義父が茨城の工場に来るのはだいたい週初めの月曜で、
週末には東京の家に戻るのが常である。

東京では自転車で少し出ただけで呼吸に問題が出てくるらしいが、
義父は茨城では朝30分ほど散歩に行くのも日課である。
多分空気の汚染が少ないせいだろう。

そんな頑張り屋の義父が、今日
茨城の工場の敷地にある事務所兼家屋で、2階の部屋から下りて来なかった。
義母によると「首から肩にかけてがずきずき痛む」というのであった。
長年酷使してきた義父の筋肉や骨は、十年近く前からときどき具合が悪くなるのだが
今朝のそれはいつもと違った。

昼近くなっても義父は2階から下りず、義母は次第に心配の色を面にあらわして来た。
このところ義母は常に義父と一緒に行動するようにしていて、
たとえば義父が遠路はるばる群馬まで配達に行くときにも
その大型トラックの助手席に義母が座っている。
通院時も、もちろんついて行く。

肺がんが見つかって間もないころ、病院からの帰路で
義父はどうにも苦しくて動けなくなり、駅のデパートで倒れてしまったことがあるのだ。
だから義母はそれ以来、義父の単独行動を常に心配しているのである。
そのような義母のことであるから、
昼過ぎてなお水も飲まずに横になっている義父が案じられて案じられて
どうにも不安でたまらなくなった。

義母は古いタイプの女で、男の言うことに口答えをしない人であるので
義父が「食べたくない、飲みたくない」といえば
食べさせることも飲ませることも出来ない。
無理強いすることも出来ない人だし、水くらい飲まないと死ぬぞ、などの強気に出ることも無理だ。

とにかく義父の首や肩の苦痛はかなりひどいものらしかった。
しかも「痛みどめの薬」は東京の家に忘れてきていた。

義父はその薬を取りに帰りたい一心で、東京に帰ると言いだしたが、
今週茨城にやって来たときの車は、義母の運転できるセダンではなく
義父自身が運転して来た大きなワンボックスカーであった。

ならば義母に電車で東京に帰ってもらい、いつもの車でこっちに来てもらって
それで東京に帰りたいと、義父は言った。
だが義母はそれを呑まない。
一時でも義父を一人にしておくことは、特に今日のように不調の日に、
義父を一人にしておくことはなんであろうとも出来ないというのである。
「じゃあお父さん、一緒に電車に乗って帰ろうよ」と義母は持ちかけた。
2階から下りて来られないほど痛がっている人間が、電車に乗って帰れるはずがない。

義父は不機嫌極まりない乱暴な、怒りに満ちた口調で義母を叱りつける。
「なにもいらん、どこにも行かん!」

3時前ごろに義母は言った。
「もうどうしたらいいかわからない」
「もうどうしようもない」
「もうどうすればいいの」

私はこの「もうどうしたらいいの」という言葉に、実母を思い出さずにはいられなかった。
私の父の状態が悪化し、母が精神的にも肉体的にも限界点に達してついに精神を壊してしまったとき、
母は何十回もこの言葉を吐いた。
それは確か
「パパが倒れたら私は運べない」(母は腰の圧迫骨折を持っていた上、父は大柄だった)
から始まっていたと思う。

義母も同じだ。
義父が脱水になっても、熱を出しても、義母は義父を病院に連れて行くことが出来ない、
のどかな田舎に住まうことは車が無くてはなにも出来ないと言うことに等しい。
だれか頼れる人がいてほしい、助けてくれる人が欲しいという、切実な声だ。
もう自分には何もできない、どうすることも出来ない、助けてほしい、という声だ。
しかも幾分か絶望と悲嘆の響きを含んでいるのだ。

男に口ごたえをしない義母は、長男である私の夫にも何も言えない。
当然ながら私は、工場の中で働いている夫のところに頼みこみに行った。
夫は困惑も見せず、鬱陶しさも見せず、淡々と、分かったと言った。
午後3時の茨城から混雑する師走の道を通って東京の下町まで
夫は両親を連れて帰ることを当然のように受け入れた。

帰れると知って、義父はやっと2階から下りてきた。
顔が真っ青だった。
そして車に乗る直前に気分が悪くなり、何度も吐いた。
(珍しく機敏な動きで私がレジ袋を渡し、義父はそこに吐いた)

こんな調子で数時間、車に乗って東京の家に帰れるのかと思った。
そのとき義母がようやく言った言葉に、やっと義父が頷いた。
「東京帰ってもお父さん近所の医者はどこも通ってないから診察券ないんだよ、
ここなら何年も前から見てもらってる○○さん(医者の名前)がいるから、
まずその吐き気を診てもらおうよ」

そういう事情で夫は大きなワゴン車に義母義父を乗せて
車で10分ほどの町医者に連れて行ったのである。

私はまた思い出した。
病気で緊急事態のとき、そこに頼っていい医師の存在する事実が
どれほどに人の心を安堵させることか。
ああ医師という職業に対する尊敬とまぶしさ。

40分ほどして、夫と両親が戻って来た。
義母の打って変って安心した顔つき。
予想はしていたが医者は「ノロ」だろうと見立てたそうだ。
ただ、もらった薬を見たとき私は気が抜けた。
下痢止めも整腸剤も、胃腸薬も、
全部私が普段飲んでいるものよりずっと下のレベルのものだった。
(私が最高度の下痢止めを一日4回も飲んでいるのが異常なだけだ、
それでもほとんど水様便なんだけどwww)

個人的には義父はノロではなく、肩と首の痛みに加えて
寒さなどのストレスからお腹の風邪状態になったのだと思っている。
なぜなら免疫の非常に下がっている私がいまだノロ症状を呈していない。
ノロでないことを願う。
(明日か明後日に吐きはじめたら感染だから義父のノロは確実だ。
そして私が緊急入院になるのも確実だ)

帰りの車の中で夫に言った。
ついに来たんだね、親のこういう時期が、
助けてあげなければ、親は為すすべがなくなってしまう時期が。
もうこれからは、親を助けて行く時期にはいったんだね。

夫は無言で、何も言わなかった。
わかっているのだろう、それでも、うんそうだね、と
まだ言えないのだろう。認められないのだろう。
親を保護する側になったことを。

流星群で心を洗って眠ろう

いろいろ感じたこと
12 /14 2012
ここのところ宵っ張りでいけないが。


ちょうど今はふたご座流星群の見えるピークである。
夜空を見ると、南の空にオリオン座があり、その右上に一番明るく輝くのが木星。
そのオリオンの左下の青白く輝くのがシリウス。
ふたご座はオリオンの左上で、その方向から流れ星が飛んでくるのだそうだ。

なので私はだいたいオリオン座の方を10分ほど眺めていた。
細く短い絹針のような流星を二つほど見た。
絵のような尾を引く立派な流れ星は見られなかったので
1秒にも満たない、「まさに瞬間」に見ることができた、という感じだ。

寒空の下毛布などにくるまって、温かいコーヒーなどを飲みながら
好きな男と流れ星を待つ、そんな素敵な夜を経験してみたかったが、
私にはついぞそのようなときは回ってきそうにない。
夫はとっくのとうに夢の中である。
しかしまぁ、あと2時間ほどは相当な数見られるそうだから、可能な人はご覧になるとよい。
美しい夜空だ。

ところで尼崎のほうから始まった連続殺人事件の主犯格の60代女性が
県警の留置場で自殺したというニュース、
今日もテレビで何度も取り上げられていた。

私の見た番組では「真実が究明されなくなる」ことを焦点にしていたが、
世間一般のみなさんは、この事態をまずどう感じたのだろうか。

司法や警察は、事件の真相究明をせねば、その責務を為さないので
そういう意見は仕方のないところであるが
実際のところこんな風に考えたり思ったりした人はいまいか。

死刑にされればよかったのに自殺なんかしやがって。

これは普通の人間の報復感情だろうと思う。
自分の身内が犠牲者になったわけではないけれど、この事件のように
あまりにもその内容も規模もともに凄まじいと、
怒りや憎しみの思いを持ってしまうものである。

さて、主犯格の自殺のニュースを聞いたときの私の感情はというと、
ちょっと違ったかもしれない。

ああ、地獄行きが決まったんだ。であった。

だが細木なんとかさんのように他人に向かって「あんたは地獄行きよ」
などと裁くことは、聖書で禁止されている。
だから本当は私が上述の主犯格に「地獄に云々」などと言ってはいけないのである。
しかし今回ほど悪魔が喜んで引き取ったであろう人を、はっきり感じたことはなかったのだ。

昔の「ゴースト、ニューヨークの幻」という映画では、
善人が死ぬときにはいわゆるお迎え「空から降り注ぐ光」が現われ、
悪人が死ぬときには、地の底から湧き出てくる恐ろしく醜い何かが、
恐怖で抵抗する死人を深いところへ引きずり込んで行ったっけ。

こわいなぁ。
人の心の闇は、いったいどこまで深いのだろう。
それでもその深い闇は、落ちてゆく地獄よりは浅いのだろう。

こんな言葉を書いていると、それだけで、背筋が寒くなる。
もうやめた、やめた。

とりあえず昨日の今日、義父の嘔吐と下痢は激しくなってきたそうだ。
やはりノロウィルスなのだろうか。
いまのところ私は無事である。
夫もいまのところは症状が出ていない。
うつっていませんように。

荒んだことを書きすぎたので、夜空で流星を見つけてから、眠ろうっと。



2009年のものだけど。