救急外来

いろいろ感じたこと
10 /06 2013
凄まじいめまいと吐き気のために
朝の8時台に救急車で総合病院へ運ばれ、
すぐに脳外科医の診察を受け、CTをとり、めまい止めと脱水症状に対応した点滴を受けて
「良性発作性頭位めまい症」という診断名をもらって
半日でそこそこ元気になって帰って来たのが金曜日であった。

理想的にとんとん拍子でことが運び、
看護師は優しく、医師は丁寧に説明までしてくれ
ああ、いい病院だったなぁと帰って来て今日の日曜日、

その同じ病院に救急車で運ばれた知り合いが
同じ病院でひどい目に遭ったという話を聞いて、ちょっと驚いた。

半月ほど前、彼女は経験したことのない頭痛を感じて
夫君同乗の救急車で上述の病院に運ばれた。
時間も多分、私と同じくらいだった。
しかし、救急車から降りたとき、なにがあったのか、
救急隊員がものすごい勢いで医者に怒鳴りつけられていた。

ただでさえ経験のないほどの頭痛で参っている彼女は
意識を失いそうになったそうだ。
さらに、怒っている医師は、彼女を見ずにすぐに外来へ回した。
一般外来で普通の外来患者とともに1時間半待ち。

検査もなく「ただの頭痛」として彼女は痛み止めをもらって帰ってきたが
それは「ただの頭痛」ではなかった。

彼女のただならぬ様子に、夫君がつてを頼りに脳外科系の名医と連絡をとり
翌朝名医の病院に連れて行ったら・・・・・・


脳外科系の名医が最初の病院のひどい対応に激怒して
その病院への事細かな指図や申し入れを行ったことで、
彼女はその最初の「ひどい病院」に入院し
「パーフェクトな看護と医療」を受けることになった。

だが彼女の脳の損傷が、元に戻り、
普通の日常生活が送れるようになるかどうかはわからない。

同じ病院の、同じ救急で、同じ脳外科でこうも医療に違いがあるのか。
ただ日にちが違っただけで、こんなに。

彼女がもたらした転機で、あの病院の救急の脳外科系の対応が良くなったのだろうか。
それともただ、運不運という差なのか。

医療従事者を家族に持つ者、あるいは本人が医療従事者だった者は言った。
「何かしら手違いがあったのではなかろうか」
「医者だって休む時間もないくらい酷使されているから大変なのよ」
「所見で何も異常が見えなかったから一般外来に行かせたのでは」

医療従事者が過酷な現場に耐えていることは、私も知っている。
人手不足もあったろう。
確かに仕方のない出来事だったのかもしれないと思いもする。

だが。

だが、私たち患者になんの関係がある。
医者の疲労や病院の事情を救急患者が慮る必要があるのか。
それに対応し考慮すべきは患者側ではない。
特に救急の患者を受けながら、見もせずに一般外来に回し
検査もせずに「ただの頭痛」で帰らせたことをミスと認めない正当な理由があるのか。
医師が救急隊員を救急搬送患者の前で怒鳴りつけて怯えさせたその行為のどこに
医療従事者としての正当性があったのか。

その現場にいなかった私が、こんなところであれこれ言っても空論でしかない。

ただ、はじめて彼女と夫君の理性と知性と品格を恨めしく感じた。
最初のときに、夫君が「一般外来はおかしい」とか
「なぜ検査をしないか」と医者に迫るだけのごり押し的強さを持ち合わせていたら
経過は違っていたのかもしれない。

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親を悪く書くこと

いろいろ感じたこと
10 /08 2013
親を悪く書くことへのためらいがある人は、
とてもきちんと育てられた人なのではないかと思う。

日本の道徳観念は、儒教の教えもあって
「親孝行」は非常に大切な、人として持つべき重要な認識であった。

道徳的に大事なことをきちんと教えられ、身につけて育った人はきっと
大人になってもちゃんとしているのだろう。

そのような立派な人は
たとえば親が年をとってやや認知症が入り判断力が少しおかしくなったり
異様な方向に頑固になって、頑迷というところに達したとしても
じっとこらえ、「年を取ったからしょうがない」と耐えておられるに違いない。

そして私はその列にはいない。
私は「親孝行」どころか「親不孝」しかしてきていないし、これからもそうだ。
そしてこの親不孝娘は親不孝になった理由を親その人のせいにしている。

さらに私は
「年をとってもおとうさん大好き」
「老いたお母さんが心配」
「死んでしまったらどうしたら」
と純粋に書く同世代に向けて
「ほんとうに素晴らしい、理想的な親子関係の中にお育ちになったのですね」
と半ば揶揄しつつ書くことしか出来ない、
そういういじけた、ひねくれた見方しか出来ないほど、
親に対する感情がねじ曲がり腐りきっている。

ちなみにキリスト教でも聖書には「あなたの父と母とを敬え」とある。
ここが説教の題目となった折りには、礼拝堂のそこここに
たくさんの種類の涙が落ちた。

それはどんな涙かと問うて
「ああ親は立派だなぁ、ありがたいなぁと感じ入って泣いたのだろう」と答えた人は
どれくらいいるのだろうか。

否、その説教を聞いて涙をこぼさざるをえなかった人たちは
「親を敬うことがおよそ出来ない状況」の人々であった。

幼いころから実親に各種暴力(性的なものを含む)を受け続けてきた人に
「親を敬え」という言葉は重たすぎる。
親のギャンブルによる借金で、家族がバラバラになった人にも。
一見外部からは豊かに見えて、常に子を異常支配し続けてきた親の元に育っても。

そう、いわゆる「毒親」に育てられた子供には
「親を敬え」という観念、教えは、それ自体抱くことが非常に困難である。
それ以前に「親を憎まない」感情までに行きつくこと自体が
極めて厳しい道のりを持つのである。

こういう生々しいことを書くと、
「こんなにどす黒い人とは思わなかった」と感じる人が出てくるのだが
私はどす黒い。

この親に対するどす黒い感情と正面から向き合うことを余儀なくされるのが
私たちの世代なのだ。
このどす黒い感情を善意と習慣と常識冷静といったもろい武器でおおって
私たちは憎かった親のオシメを取り換え
病院へ通わせ、各種の手続きに奔走する。
あるいは自分の少ない貯金からなけなしの金さえ提供し
疲労して疲弊して寝込んで、亭主にむっとされる。

だから私は、日々の暮らしに必死に生きながら親を悪く書く人を、
とくに同世代を決して悪くは思えない。

ネット上にあらわすこと

いろいろ感じたこと
10 /11 2013
ネット上での表現について、少し思った。

ここ二日ほど、テレビは
女優という将来を思い描き実際にそのための努力をしていた、
すらりと美しい少女の写真を、
何度も茶の間に流すことによって
その命が無残に奪われたことに対する衝撃や悲しみ、
世間の犯人への怒りを日に日に増幅させている。

そんな昨日の朝、ある野球選手がツイッターに
この被害者少女に関して
『可哀想』とは1ミリも思わないし、
『かわいいふりしてやることやっている』、
だから『自業自得』、
という内容を投稿して物議をかもした。

世の中はもちろんこのつぶやきに怒り、この選手は球団から厳重注意を受け
ツイートは間もなく削除されたのだそうだ。

だが彼のツィートは原文そのままにきっちりと各所に残され晒されていて
こんなふうにネットの端っこに棲息する私などにすら利用されている。

人間はもともと愚かで軽率でスケベエで阿呆だから
裏ではいろいろやらかしてしまう。
これまでは裏でこそこそやれば、それを知るのは神様だけだったものの
ここにやっぱり阿呆な「人に見せたい、知らせたい」という欲求が湧き上がって
その「こそこそ」を「おおっぴら」にしてしまうのだろう。
(かつてはこれを「魔がさす」と言ったけどね)

書く、つぶやく、写真を撮る と言った行為は
その職業の人間以外にとっては、非常に個人的な行為でしかなかった。
書く、つぶやく、写真を撮って発表する、を職業にする
あるいはそれを志す人間は、
技術以外にもそれ相応の心構えを必要とされていたし、
その行為の恐ろしさを知っていた、あるいは知らねばならなかった。

けれど今現在は、自己の内面や思想、恥部を世に晒す行為を
いともあっけなく、なんの決意も覚悟もないままに、
クリックひとつで行えるようになった。

お金をもらって書くとき、
私程度のものでもそこには多くの制限があり、注文がつくことを知っている。
そしてその書いたものが印字されたりテレビの声に乗ったりするときには
普通は複数の人間がそれに目を通し
世に出せる形であるかどうかを何度もチェックする。

場合によっては、私が一番苦労して書いた部分をばっさり切られたり
妙な具合にはしょられたりして、苦笑いするが
狙いがスキャンダラスで刺激的なものではない場合には、
それが安全装置として作用していることは確実だ。

ツィッターにもブログにも、この安全装置がない。
安全装置のない場所で、思ったことをそのまま書き、つぶやくから
怖いことが起こっても全然不思議ではない。

大したことを書いていないから怖いことなど起こらないと思っているなら
きっとそこが油断だろう。
上述の野球選手も同じように思っていたに違いない。
あるいは「少しくらい波風を立てて話題になっちゃおう」と
茶目っ気を出したのかもしれない。

その程度と方向がネットをする世の中の多くの人々にとって不快に
もしくは揶揄中傷するに絶好と思われたとき
書いた側の予想もしなかったことが起こり得る。

洋品店「しまむら」で店員に土下座を強要した女性が
その写真をツィッターに投稿したことが発端で
本名、住所、車のナンバー、子どもの写真、趣味、勤め先、通勤路線など
なにからなにまですべてを追跡され、
すっぱり晒し上げられたことなど、記憶に古くない。

テレビの報道番組で、ある女性評論家が言っていた。
「ツィッターにしろブログにしろ、フェイスブックにしろ
自分の意見、思想をやたらに発表することの愚を
そろそろみんな考えなきゃいけない」。

同感しつつ、今日も無責任に記事を書く自分もまた、愚かである。
ちなみに、写真や動画の投稿も、また同じ、あるいはさらに
注意が必要と考えている。


毒親が過去になるとき

いろいろ感じたこと
10 /12 2013
先日の「親を悪く書くこと」の記事以降も、私は少し考えている。
文句を言うより、書くより、まず
「育ててもらったからこそ、ここに存在しているそのことを感謝せよ」
という至極正しいその内容について。

これに関して、過去に書いた自分の記事の一部をここに再度記しておこう。

『いま、私を産んで育ててくれた両親に言えることがあるとすれば
「産んでくれてありがとう」というきれいな言葉ではなく
「殺さないでくれてありがとう」だろう。

おなかの中で芽生えた命をあっさり殺せる現在
私なんか簡単殺すことができた。
しかし両親は私を世に産み、食べ物を与え、衣服を与え、住むところを与え、
命を永らえさせ続けてくれた。

私が今ここにいるのは父と母が、私を殺さずにいてくれたおかげである。
そうして私は今、笑ったりしゃべったりしている。
光を浴びて、風の香りをかぎ、花や緑を見つめることができる。』


これを書いたのは2011年10月、いまから2年前で、父の死後5年目であった。
上記は当然ながら、父が死んだから、
5年目にそう思うことが出来たから書けたのである。

もちろんいま身近にいる生きている親御さんその人に感謝できるなら
それが一番良いのは間違いないが
それがどうしても無理という場合には
親が死んで、ようやくこちらの心が落ち着いた時期、
それは10年後でも20年後でもいいのではないだろうか。

生死にかかわる虐待を受け続けてきたために、
生涯にわたってどうしても親に直接的な感謝が持てない状況であっても

自分の周囲にいる家族や友達などの人間が
「ああ、いてくれてよかった」としんから素直に思えるときがきたら
風や光や緑やせせらぎが、すんなりと人生の重荷を分解してくれるときがきたら

「いま、生きてて良かった」と生まれ変わったように思える時が来たら

そのとき「殺さないでいてくれた親」に
軽い気持ちで、肩の力がすうっと抜けて行くように

「うん、もういいよ」
と感じられるかもしれない。

(だからもしも、親のことで苦しんで苦しんで、苦しみの最中で
死ぬことを考えているひとがいたら、
生きていてください。お願いします。
風が変わるときは、必ず来ますから)

古い日記帳を捨てた

こころ
10 /16 2013
結婚したときも、この家への引っ越しのときも決して捨てず、
ずっと段ボールに入れて、押し入れの奥に大事に仕舞いこんできながら、
その存在を意識しつつも決してそのページを開くことなく
延々30年以上も眠り続けてきた数冊を捨てた。

数冊とは、日記帳では有名な高橋というメーカーの
美しいハードカバー仕立ての8冊、
8年分の私の日記のことだ。

これは十代末から8年間、病気がもっとも酷かったころ、
私にとってはほとんど冬眠の時代のものだ。

体の苦痛に対する呻きと叫びと涙
社会から離されてゆく孤独と疎外感
逃げ場にならない病んだ家庭
満たされない性欲や輝かしい世界への憧れと羨望など
これこそわが精神彷徨の記録と言えるのだろう。

だから私はこれをとても大事なものとして持ち続けてきた。
まるでこの日記が自分の芯でもあるかのごとく。

いつかこの日記を読み返す日が来るのだと、ずっと思っていた。
平安に身を置く私が、過去の私をああかわいそう、と身をよじり涙を流しながら読むと。
それが私の人生において、なにか非常に大事な段階だと思い込んでいた。

でももう読まないと気がついた。
読む必要を感じなかった。

自分の過去を振り返ったり懐かしんだり、そこから何かを感じたりするのは
もういい。
もう終わった。すべて。そう感じた。はっきりと。

だから私は8冊の日記帳を1ページも読み返すことなく
そっくりそのまま燃えるゴミに出すことにした。
いま捨てなかったらいつ捨てられるか分からない。

ついでに、卒業論文や大学時代に取ったノートの束も捨てた。
小中高の卒業文集もいらない。
犯罪者や偉い人物になったら、これらの文集や日記にも価値が出るだろうが
私はそんなものにはならないで済みそうだからいらない。

これらのものを残されてしまったら、家族こそいい迷惑だ。
父の書いた本や原稿や日記を無価値としてことごとく捨てたように
私自身も自己の過去遺物を無価値にしよう。

私の過去は、神様だけがご存じであればそれで良い。
神様以上に公平で正しく見てくれる人はいないから、
それだけで十分だ。
十分すぎるくらいだ。

編み物が好き♪

ハンドメイド
10 /17 2013
パッチワークでお稽古バッグを作るぞ!
とここに書いたのは春だったかな。

調べればすぐにわかるのに、調べたくないほど進んでいない。
いまだにまだモチーフをちまちま縫っている程度。

パッチワークモチーフ

遅々として一向に進まない理由は明白だ。
時間も暇も大量に余っていた入院中などは、
針と糸でちまちまパッチワークをやったこともあったけれど
この地道極まる縫い縫い作業に「おもしろさを感じない」のだ。

この地味な作業を通り抜けて、いよいよ作品が形になってきたら
断然面白くなりそうなことは想像できるのだけれど
そこまでの行程に、飽きやすい忍耐がもちそうにない。

だってこの作業、手元を見ないでは続けられないのだもの。
編み物みたいにテレビ見ながら惰性で手なんか動かしていたら
針ちっくんして、けっこう痛いんだもの。

でも作ると言った手前、時々のときどきくらいの弱々しさで
いじいじ縫い縫いしていたが
季節は10月秋深しとなって、もう我慢が出来なくなった。

だってだって私は今年もセーターが編みたいんだーっ!
編みたいんだーっ!
編みたいんだーっ!

・・・・と吠えて、お稽古バッグの方は
いつ終わるともしれぬ闇の中へしまい込まれたのであった。

わーいわーい、編んでやる編んでやる、とニコニコし
こんなに編みたいんだから、今回は高級な糸でシックな大人のセーターを
編んでやろうじゃないかあっ!

と思ったのはいいが、高級な毛糸で編むと
あっという間に数千円数万円が飛んでしまうわけで
愛はあるけど金がない我が家には無理なのだった。

で、思い出した。
うちで一番高級なセーターが手作りで、しかももう数年以上着られることなく
夫の冬服のなかにゆったりと眠っているではないかっ!

そうそう、愛も気合も十分で貯金も多少残っていた(独身)時代、
今から25年ほど前だが私は夫に(私にすれば)高級極まる毛糸で、
それはそれは上質でシックなセーターを編んだのだ。
夫にはほかに複数枚のセーターを編んでプレゼントしたが
彼が非常に気に入って大事に着て、持ち続けてくれたのはこの一枚だけだった。

パパのセーター
(段染め毛糸なので浮き上がるしましまの地色に全地模様編み込み)

久し振りに出してみると、我ながらほれぼれするほどいい出来だと思ったが
どう見てもバブリーなゆったりデザインの上、夫の体型も変わり
もう二度と日の目を見ることなく
ヒメマルカツオブシムシに食われていくのは悲しい。

しかも上等な毛糸は再生してもまだまだ使えるだろうし・・・

ということで、
夫には黙ったまま、いそいそとそのセーターをほどきにかかったのであった。

激しい愛情の証か、もう一目一目細かいこと細かいこと、
クソがつくほどで丁寧で、ここまで無駄に丁寧に作り込む必要はないというに
やっぱり愛がそうさせたのね、と思いつつ
「ああもう、くそっ!」と執拗な過去の私自身を罵倒しつつ
2日かかってほどいたのであった。
(かなりぐったりした)

しかし、25年もの長きにわたってしかと編み込まれたわが執拗な愛情は
糸を喜多方の縮れ麺のごとくに変化させていた。

ということで、分けた糸を輪にしてぬるま湯につけて伸ばし
物干しざおに干したのがこちら。

干している

ピントが合っていないのは、もはや疲労甚だしかったからとしか言えない。

しかし、しかしだ。
毛糸束を干す作業は意外に楽しい。
こんな糸の塊を物干しに並べている家なんかそうそう無いぞ。
なんだか染色家になったような気分がしてくる。

編まれていないおかげで、風通し良く、かなり早く乾いてくれるのもいい。

・・・・毛糸編みよりパッチワークを愛好する人は、
毛糸をほどいて束にして洗って伸ばして干してなどと
ずいぶん面倒に思えるのかもしれない。

でも、この面倒が楽しかったのだ。
部屋には干されて乾いた毛糸が、糸束になったまま積まれていて、
使用時には巻きなおす必要まであるけれども、これも全然苦にならない。

多少の手間はかかろうとも、
久しぶりに編める高級毛糸の編み心地はきっと、とても素敵に違いない。
私はやっぱり、パッチワークより、毛糸を編む方が好きだ。
断然、断然、編み物が好きだ。
好きだぁ、好きだぁ、好きだぁ・・・・・・・・!!!!

で、何を編むのかというと。
シンプルなタートルネックのセーターを。
誰にって、もちろん、私にだ。

「おしん」と「ごちそうさん」

いろいろ感じたこと
10 /25 2013
ああ恥ずかしい。
なにがあったのか昨夜ツィッターで、
私の10月20日のツィートが、突然リツィートやお気に入りをもらったのだが
そのツィートの一部が間違っているのだ。

10月20日の私のツィートはこれ。


これを書いたときからどうもすっきりしない感じがあったのだけれど
根がいい加減なのでそのまま放置していたら
昨日突然いろいろな人にリツィートをもらって焦った。

だってさ、1901年が明治33年で1905年が明治38年っておかしくないか?

そう、間違いなのだ。
1901年は明治33年ではなく、34年なのである。
まことにあいすみません。

この基本的な間違いに気付きつつも
お気に入りやリツィートしてくれている鷹揚な人もいるのかもしれないが
もしかするとあまり深く考えないままに読み流して
リツィしてしまった人もいるのかもしれない。
本当に申し訳ない。

・・・・・というわけで恥ずかしいので、忘れ去られたころに
このツィートを削除してしまおうかしらん。
と、姑息なことを考えている。

ところで、この「おしん」と「ごちそうさん」が同時代だという点は
なかなか興味深くないか?
私にはとても不思議に感じられたのだけれどもね。

先日などはめ以子ちゃん、ガスをつかってお釜でご飯を炊いていた。
お釜イコール薪のイメージがあった私には、これもまたけっこう新鮮だった。
そういえば、明治末大正の東京どまんなかを舞台にして
ご飯を炊くシーンを描くドラマっていままで見たことがなかったし。

(名探偵が怪人を追いかけたり、はかま姿の女学生が恋をしたりするものは
見たことがあると思うけれどね)

それにしても同じ時代での文化発達の地域差の大きさは、やはりすごい。

「ごちそうさん」の家庭は気さくな人ばかりだから、
一見普通の家庭に見えるけれど
あの家は、娘のめ以子ちゃんを良妻賢母型の女学校に通わせていて
め以子ちゃんの着ている通学用の着物はほとんどが綿でなく絹で
半襟なんかも相当に凝っていたりして、
あれはどう考えても豊かな家庭と思わざるを得ない。
文化程度がさすが東京帝大周辺とでも申すべきか。

かつて私の母(昭和4年生まれ)が50代の頃、
同じ職場で同世代の仲間に言われた言葉に大いに憤慨していたことがあった。

「ねぇ、あなたも子供の頃はハムやソーセージなんか食べたことなかったでしょう?」
とか言われたのだそうだった。

母の同僚は子供の頃着物に下駄で学校に通っていたそうで、
在所は北関東日光の方だったらしい。
一方母は関西であったが、同時期に
女学校に通い(しかも外人のシスターのいるカトリックの女学校に)
谷崎の「細雪」のごとくに中華料理だの西洋料理だのを普通に食べ
タクシーに乗って普通に外出していたのだから
「ハムソーセージ」は大人になってからなどと言われれば、それは憤慨もするわけだ。

さて、「おしん」と「ごちそうさん」とほぼ同じ時期だが
その頃の作家に夏目漱石と、少し遅れて長塚節がいる。

長塚節の「土」は、北関東の当時の貧しい農民の物語で、
一切の救いのなさはある意味「おしん」を上回っているのであるが、
ちなみにこの少し前に漱石は
ありもしない「孔雀の舌」や「トチメンボー」を所望して
洋食屋をからかったりする話さえ書いている。

その漱石が長塚節の「土」に、こんな言葉を書いた。
「余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募る時分になったら、余は是非この『土』を読ましたいと思っている」

己が棲む周囲の環境が、全世界と思ってはならぬという戒めを
漱石も常々感じていたのだろう。

ついでと言っちゃナンだが
「土」に寄せた漱石の序文があまりに深いのでいいところをここに上げておこう。
(そこそこの文系でないと読む気が起きないか?)

;;;;;

「土」を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」を讀ましたいと思つて居る。娘は屹度厭だといふに違ない。より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から射さして來るのだと余は固く信じて居るからである。

;;;;;;



で、まぁ地域差を知らないで語ることは、まことに注意を要することだと思った。
(ついでに誤りなくツィートすることも)





見捨てられること・悪循環

出来事から
10 /29 2013
田舎の田畑の中の大きな空き地に工場を移したころは
広くてのどかでいい場所に来たと、夫の身内はみな喜んでいたものだ。

工場の隣は茅葺屋根の大きな家で、
小さな男の子二人とその両親、おばあさんが、仲良く暮らしていて
ご近所さんだからとずいぶん親しく交流させてもらっていたときく。

戦争で死んだおじいさんの分と、おばあさんの年金が
あの家の経済を支えていたと知るのは
おばあさんが老いて亡くなったあたりだった。

隣には大工のお父さんと、専業主婦のお母さんがいたのだが
バブルの破たんやうち続いた不景気によって
お父さんに大工仕事はほとんど来なかったし
もともとあまり働くことが好きな家族ではなかったのかもしれない。

人のいいうちの義母は、何年にもわたってお数やお菓子を持って行ったり
留守の間に畑に水をやってもらったり、
木を切ってもらうなどの仕事も頼んだりしていたが
それで一家の経済が立ち行くはずはない。

隣家の茅葺屋根の家は次第にぼろぼろになって、
腐って、穴があき、家そのものも傾き始めた。
ガスも電気も止められて数年目には、大工のお父さんが亡くなった。
癌だったが、保険もなくて病院にかかることも難しかったのだろう。

その頃には隣家が親族にたくさんの借財をしていて
もはや一切の縁を切られているということは
地域の人には周知であり、
親族からの「あの家に金を貸さないように」と言う進言も
当たり前のように知られていた。
人がよかった義母も、貸したお金が返ってこないことが数回重なって
いつしか無視を決め込むようになっていた。

隣家はやがてなにもかも全部が全部支払が出来なくなって
(子供たちはとうに地域を出ていっている)
ついにぼろ屋の土地を売りに出した。

工場の隣だから、妙な買い手がつかないとよいがと案じていたが
どうも、最悪のパターンがやってきたようだ。

ぼろ屋であっても田舎だから、
庭に駐車場を造れば50台くらいは入る広さのその土地に
次々に大きなゴミたちが運び込まれてきている。

引っ越しの際に出るような大物家具類、自転車、
エアコン、冷蔵庫、植木鉢や物干しざおなど
それらが無造作に投げ入れられたように放置されている。

今日も大きなトラックが一台、何かを運び込んでいた。

田舎の田んぼの真ん中に突然、不法投棄の山が出来ていることがあるが
隣家はその場所として使用されているのかもしれない。
土地の名義はもう、元の隣家のものではなくなったそうだ。

しかし庭の一角に小さなプレハブが立てられていて
一人残された主婦は、そこにちんまりと暮らしている。
ガスや電気はどうしているのか知らない。
少なくとも、屋根から雨が降りこむことだけはなくなっただろう。

もしかすると主婦は、
これは不法投棄ではないと証言するために必要な役回りを得て
その地に住み続けるのを許されているのだろうか。

ああ、働かないこと、働けないことのツケは、こんなにも大きい。

それに加えて、地域の人たちの冷たさが、無視と嫌悪が
こんな状態を作り出したのかもしれない。
ゴミがあっという間に山となって
ブンブン蠅が飛び交うようになっても、
うちの工場にとってもそれは、仕方がない。