チロルの5円玉チョコレート

出来事から
11 /07 2013
書かないでいると、それが習慣になって本当に書かなくなる。
実際書くべきこともさしてないと思うのだけれど。

ええと、ほんの少し前、スーパーのチーズ売り場で、
幼稚園に通う小さな子がおもちゃにして歯形をつけてしまったストリングチーズを
そのまま売り場に残して帰ってしまったという内容が
その若いお母さんによって、自己申告的にツィッターに投稿された。

この歯形チーズを買った人はかわいそーwww

と軽く書いてあり、
ツィッターや例の巨大掲示板ではちょっとした追跡騒ぎになっていた。

実はその同じ日、私もスーパーで似たような事例を目撃したばかりだった。

スーパーのお菓子売り場の陳列棚の角にぶら下がっていた
5円玉チョコレートのずらずらっとした長袋を
一つ一つ手にとっては感触で中身を確認して
パキパキと割り続ける女の子を見たのである。

5円玉型のチョコレートは一つ一つ包装され
それがいくつも連なっている長袋の形で販売されているのだが
女の子の手は執拗に割れていないものを探しては
気持ちよくパリパリ割る。

どうも割る作業が非常に楽しいらしい。

母親はと見ると、
割っている子の近くで背を向け、お友達とおしゃべりの最中であった。

本当は親に注意するのがベストなのだろうが
反発をくらっても不快になるだけなので
とりあえずチョコ割り中の当事者にだけ注意をすることにした。

出来る限り凄味をきかせ、鬼のような目になって
目的の女の子にだけ聞こえる声で「割るな」とひとこと。

女の子は人に見られていたことに気付いてびくっとし、
怯えるようにすぐに手をひっこめた。
どうもやってはいけないことだとは、うすうす気がついていたらしい。

親が振り返る前に私はとっとこその場を去ったのでどうなったか知らない。

それにしても、ツィッターではないけれど
「あのチョコレートを買う子はかわいそうだなぁ」と思った。
ずらっと連なった5円玉が全部割れていたら、さぞやショックだろう。

とてもいい子のところにあの割れチョコが行ったら気の毒過ぎていやだが
世は因果応報というから、
5円玉チョコを割ったり、チーズをかじったりするような子には
似たようなものがちゃんと回って来てトントンになる、
(と思いたい、)そうでないといかん。

ああ、久しぶりに書いたが、内容がないよう。おそまつ。ちょん


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朝ドラから思った親

いろいろ感じたこと
11 /16 2013
親のことについて書くと嫌な感じになるので、
あっさり済ませたいんだけれどもできるかな。

どちらも朝のドラマを見て感じたこと。

BSの再放送「ちりとてちん」にて
飲んだくれのオヤジなんか死んでしまえと言った息子に
知り合いの仏壇屋のおばちゃんが、ほっぺたを張り飛ばして一喝。

「親の悪口言うもんはうんぬん!(詳細は覚えていないが激しい非難)」

そういえば山本周五郎の「かあちゃん」という有名な短編でも
「実の親にだってこんなによくしてもらったことはねぇ」
と泣き崩れたはぐれ者にむかって、やさしくて強気のおばちゃんは言い放つ。
「親の悪口を言う子は嫌いだよ!」

周五郎も仏壇屋のおばちゃんも、もちろん知っているし
普通に世の中を渡って、いい年になればみんな本当は知っていることだ、
「悪くしか表現しようのない親」が存在していることも
「人でなしの親」が実際にいるということも。

それでも「言うな!」と教えるのはなぜだろう。

「言葉にする」ことで憎悪が増大し
その憎悪そのものが言う側自身を貶め、
かつ苦痛を増幅させる悪循環を良しとしないからなのだろうか。

しかし、言うことでしか、表現することでしか
自己を解放することができないほどに深刻な場合もあるわけで、
そういう人が当たり前のように「親の悪口とは何事!」
とやられたら、これは尋常の心理状態でいられようはずもない。
私にはその弊害の方が大きく思えてしまう。

と、書く一方で、
片親に上述のごとき対象が存在したにせよ
もう片親には、「親の愛」の深さと悲しさを
泣いて泣いて心の汚れが全部落ちるほどまで知らされた過去もあるワタクシ。

で、また朝ドラの話。
今度は「ごちそうさん」。

好きな男のもとに嫁いだ主人公が
小姑の執拗ないじめに耐えているという事実を察してなお
主人公の両親は「夫婦が仲良くしているならしばらく見守ろう」と決めた。

これはほんと、大変な事だ。
自分が年頃の娘を持つ立場になってみると
嫁いだ子の苦労を知りつつあえて援助の手を差し伸べず、
見守り続ける親の心の苦しさはパネェ。

いっそおしかけて娘をさらって家に引き戻すほうが
何十倍も楽チンに違いないし
借金してでも、夫婦だけで暮らせと
家の一軒でも買ってやる方が気持ちとしては楽。

けれどもここで手をさしのべたら
娘夫婦が子どものままになってしまい、
そうなったら先々苦労するのは本人たちなのだ。
苦労を乗り越えてこそ夫婦のきずなが生まれるのだから。

大変な貧しさだったゲゲゲの女房ときも思ったが、
昔の親は手を差し伸べたい気持ちをぐっとこらえて忍耐を守り抜くのだな。
この忍耐ができる親はいったい今どれくらいいるだろうか。
親としては相当な苦しさだろうが。

私にはきっと出来ないだろうなぁ。
深い愛ゆえの忍耐は、親としてのレベルが高すぎるよな。

たかがドラマなのだけれども、朝からいろいろ考えてしまったのであった。

自分の一方の親を死ぬほど嫌悪し、
もう一方の親にすべて頼りきってきた時期もあったけれども、
私自身が人の親として
色々と考える時期になったと見える。


「もう死んでもいいやw」と口に出す愚

いろいろ感じたこと
11 /22 2013
「もうくたびれたし、そろそろ死んでもいいや」
と、度々へろへろ言っていた高齢の人物が癌になった。

死んでもいいのだから、放置するかと思っていたら、
家族が振り回されるほど真面目に病院に通い、入院し、手術し、
退院後も医者の指示に従って治療に一生懸命になっている。

さらに、島倉千代子の死因が癌だと知ると
「そんな番組見せるな」と不機嫌になり
あるアニメが癌で亡くなった地井武男さんの生前の吹き替え云々とテレビが言うと
「あんなに元気だったのに」
といまさら絶望的な顔をして、一気にふさぎこむ。

ふさぎこもうが、落ち込もうが、それが人間というものだから仕方がないのだが、
いい年をして、現実の重さも認識しないで
「もう年だから死んでもいいや」と、軽々と吹かしていたのかと思うと
その愚かさに呆れずにはおかれない気がする。

まことに下らん理由で「死んでもいいや」と口にする愚は、
老いも若きもやらかすが、
私は高齢者のそれが特に嫌いである。

これまで健康に自信があったからこそ、高齢でかかった大病に絶望的になるのだろう。
十代から病弱な私なんかが語る資格はなかろうが。

いや、なにね、だからどうだということはない。
「もう死んでもいい」とか、
そういう言葉を気楽に書いたり、言ったりするまい、と思っているだけ。




おばあさんとチャウチャウ犬

こころ
11 /26 2013
うちの横の路地を、チャウチャウを連れたおばあさんがよく散歩していた。

大きなチャウチャウ犬は気性が荒くて、
他人がその見た目に誤魔化されて手を出すとひどい目にあうから
飼い主のお婆さんは、子供らがホイホイと犬を触りに来ないよう
いつも周囲に気を気を配って歩いた。

おばあさんを見かけなくなったころ、チャウチャウ犬が死んだらしいと噂を聞いた。
しばらくして、おばあさんの家の前に、24時間介護サービスの車がときどき止まるようになった。
そうして屋外ではおばあさんを全然見かけなくなった。

ある日、おばあさんの家に重機がやってきた。

家が壊されていく様子を、町の人何人かが立ち止まって見ていた。
残酷な鉄の腕の向こうに、
おばあさんが暮らした和室の壁が見えた。
チャウチャウ犬の写真が、たくさんたくさん貼られていた。

「ああ、チヨちゃんの写真も持って行かなかったんだねぇ」と、誰かが言った。
「あんなにかわいがっていたのに、わからなくなったんだねぇ」と誰かが相づちを打った。

おばあさんはチャウチャウ犬チヨちゃんの写真をたくさん家においたまま
とある介護施設に入ったのだそうだ。

おばあさんには20年前にはちゃんとご主人がいた。
船乗りのご主人を待ちながら、おばあさんは子供さんをふたり育てた。
だが定年退職したご主人はおばあさんを捨て、
若い女性のところへ出奔してしまった。
とっくに子供も自立していたので、
おばあさんの家族はチャウチャウのチヨちゃんだけになった。

古い質素な家具と、チャウチャウ犬チヨちゃんのたくさんの写真を
重機が踏みにじり、
おばあさんの家はあっという間に平らにされた。

物は消えても思い出は残る、なんてロマンチックなことを本気で信じるには
私も年をとりすぎた。
これが現実で、現実は虚しいものだ。
虚しさだけを見ていたら、生きるのも嫌になるから、
ただ今を大切に、着実に生きるしかなかろう。
可能なら、周囲に愛を降らせ、ちいさなことにも喜んで、笑いながら。


家のあった土地は駐車場になったが、まだだれも借り手がいない。