おばさんなので「いじけたタイプ」は面倒臭い

冗談もどき
12 /02 2013
れ~~~~~~~い~~~~~こ~~~
みちがえるようになってぇ~~~~
ほれられると おんなは かわるぅ~~~~~~もんだね~~~

なんていう歌がかなり昔にあったのだ。
(1番と2番の歌詞を混合してあります)

歌は
寂しそうな、ひっこみじあんなレイコさんが、
やっぱり同じような寂しそうな男に本気で愛されて
なんだかいい女になっちゃってて
お前の幸せぶりが、いまのおいらの胸に痛いんだぜ、
という感じの内容。

で、そういうキャラが娘の友達にいる。
いや、まさかあの子がそういうキャラだったとは私も知らなかったのだが
彼女のとある一面を聞いて、おお、寂しげキャラがこんな身近に!
と、感じ入った次第。

何でも彼女は一般女子と同様
彼氏募集のために各種各場のコンパに参加していたわけであるが
あるコンパでとても明るくて優しくて楽しい、誠実で素敵な男性に出会い
(なんだこの満点さは!!)
「お付き合いしてください」と申し込まれたのであった。

普通なら「よっしゃ、きたぁ!」となるはずなのに
彼女は「少し待って」と考えた挙句に断ってしまった。
理由がすごかった。

「彼みたいな素敵なヒトには会ったことがない。
こんなに優しくて明るくて楽しいヒトには
私ではなくて、もっとふさわしい人がいるはず。
私なんかでは彼を幸せにすることなんて絶対にできない。
だから私なんかは身を引くの」

マジですか?
全部「私なんか」なのですか?
彼に100点満点の好感を抱きつつ、
お付き合いしたいと言ってくれているのに、
恐れ多いと身を引くなんて、いまの時代にありなんですか?

だが、彼女にとっては「あり」らしい。

これが娘にも理解不能だった模様で
娘は彼女にいろいろ聞いてみたのだそうだ。

で、娘が理解しえたことはこうであった。

「彼女は自分をきれいだともかわいいとも思っていない」
「かわいいと言われたら、嘘だごまかしだと思ってしまう」
「そっくりそのままの自分など無価値だと思い込んでいる」

なんだかよくわからんが、
生まれ持った性格が「いじけて」いるのか
それとも「条件付き」でしか愛されない環境下で育ったのか
要するに現段階では、かなり「卑屈」になってしまっているらしい。

「ええ、○○ちゃん、かわいいじゃん!
すごいかわいいと思うよ! みんなにも聞いてごらんよ!」
娘はがんばったが、彼女は心底嫌そうな顔をして
もうやめてくれと頼み込んできたそうだ。

きれい、かわいい、を言われるのがいやなら
男になんて言われればうれしいの? と娘は質問した。
「一緒にいると落ち着くとか?」
と例をあげたら、彼女はちょっとだけいい顔をしたという。

なんだかなぁ!!!!!!
22やそこらでこの哀愁ただよう感じは何だい!!!!!

きっとあれだな、こういう男女が互いに惹かれあって
優しい気持ちで寄り添って、
冷たい世間の風の中を渡って行くんだわねぇ・・・・・
ロマンだわねぇ・・・・・

と、昭和枯れすすき的な、上村一夫的なイメージを抱いてみたが、
俄然ダメであった。

おばさんだから(正確にはおばさんになる前からだけれど)
ずうずうしさがもはや当然当たり前のへのかっぱのぷっぷくぷー。

この前も、薬師丸ひろ子のコンサートをじっと見つめている亭主が
「薬師丸さんしわがない、まだかわいいし、きれいだよねぇ!」と言ったのを受けて
「そりゃそうよ、年も私と同じくらいだもん! まだきれいよ!」
と堂々と返したくらいのずうずうしさが日常なのだ。

(「はぁ??????」という返事は聞かない、聞こえない。
ふんふん♪と胸を張った状態で退場するのであった)

まぁ寂しい同士が温め合う恋は文学的な感じで素敵ではある。

でも私個人としては、「ごちそうさん」の桜子ちゃん(主人公め以子の友達)のように
根拠もなく常に自信たっぷりで、
度下手な歌を度胸で朗々と歌って見せるようなタイプの
まっすぐ育った天真爛漫なほうが好きだねぇ。

何より、面倒臭くないところがいいんだもん。

(過去の暗い自分のことは忘れ去ったのであった。
いや、なにせ厚顔だからww)



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自分を信じない

こころ
12 /09 2013
自分の心に正直であれ、とか
自分自身に嘘をつくな、とか
自分を信じろ、とか

そういう言葉がとても軽く聞こえる。

「自分に素直であるべきよ!」なんて偉そうに
滔々と人様にしゃべくったこともあるのに。

実際当時は「自分であること」が一番大事だと思っていた。
実存主義というか、主知主義というか
とにかく理性や意識と言ったものに、非常に高い信を置いていた。

昨日、目からうろこの言葉を聞いて、びっくりしてどっきりして
ううむと唸って、ストンと納得してしまった。

それは言ってみれば「自分を信じるな」ということであった。

確かに。
たかが自分の感覚、たかが自分の思考、たかが自分の決定、である。
自分に素直に従うというのは、自分に都合の悪いことは受け入れ難く、
猛然と拒否したり排除したりもすることでもある。
その都合の悪いことが、自分を一回り大きくする試金石だったとしても、だ。

さらに、私自身の心を見てみると、これがまことに脆く、
どうしようもなく不安定であった。
すぐに腹は立てる、すぐに泣く、ちょっとしたことで転げまわって喜ぶし
大好きだった人に一瞬で嫌悪を抱くことだってある。
こんなにくるくる変わるわが心、この感情に正直に、素直に従われては
周囲の人間はえらい迷惑に遭わねばならない。

基本がこんなチャラい人間だから
真面目な思考や決断も深遠慎重に欠けていることは言うまでもない。
「ああ物事はこうなのね」と
感動のうちに悟った如き錯覚に陥っても同じだ。

ネルソン・マンデラ氏は常に心が安定していたというが
氏こそ大変な苦難のなかで則天去私に至った希有な大人物だろう。
「自分を信じろ」と言えるのは、あのくらいになってからのような気がする。

ああ、自分を信じられもしないのに、また偉そうにゴタクを並べてしまった。
バカだねぇ。





シンプルセーター出来た(年をとるのも悪くないね)

ハンドメイド
12 /15 2013
10月半ば過ぎに、昔むかしに編んだとーちゃんのセーターをほどき
編み始めてから2か月。

しょつちゅう放置し、さぼりながらも、ようやくセーターが完成したのでご報告。

ちなみにこれが前回も載せたとーちゃんのセーター。
パパのセーター

で、これをほどいて今回編み上がったのが、とーちゃんのではなく、私のセーター。
セーター1  セーター2
色見が異なって映っているけど、同じ毛糸。
ついでに右の写真に写り込んだのは私のスリッパと体重計とチビ犬で、
雑然とした我が家を象徴する感じがしたのでそのまんま修正なし。だはは

本当はタートルネックにする予定だったのだけれど
毛糸がメンズ用なのでやたらに厚く、首にその厚ぼったさが来たら
ちょっとナニかなぁと思って丸首で終えた。

糸が余ったからそれでスヌード作れば、首もともばっちりだろう。
根気があれば作ろうかと思うが、
実は数年前に作ったセーターの裾の一目ゴム編みがだらしなく広がってきたので
そこだけ編み直すべくほどいたところなのだ。
手編みセーター
(これが裾の編み直しをするセーター、写真は2年前のもの)

ほどいてみてよくわかった。
最上段の写真の20年以上前に丹精込めて作ったとーちゃんのセーターこそが、
私の編み物能力の最高レベルだと思っていたが、それは間違いだった。

数年前に余り毛糸をかき集めて編み上げた日常着のセーターの方が
はるかにほどきやすかったのだ。
それはつまり、編み物という幾何学的作業を、
一切ごまかしやいい加減さを加えずに行ったからこそであり、
これがほどいてみる際に実にはっきり感じ取れた。

さて、今回のセーターは実にのんびりのんびり、
出来上がるのかしら? と思うほどにゆっくり編んだ。
派手さもないし、編み目もスタイルもシンプルこの上ないけれど
その重たさも、包み込む感じも、とても気に入っている。

いつかこのセーターがくたびれたら、またほどいて編み直そう。
今度はもっと簡単にほどけるに違いない。
編み物がちょっと上手になった気がする。

こんな風にのんびりした気持ちで編むようになれたのは
年を取ったからなのだろう。
年をとるのも、悪くない。