年を重ねてやはりバカ

こころ
01 /02 2014
あんまり馬鹿な愚痴ばかり書いてしまうので
ブログからあえて距離を置くようになってすこし経ち、
そうこうしているうちに年を越して、また正月になった。

今日は例年の親せき回りを終えて帰って来て、
久しぶりにブログに書いておこうと思った。
そして見つけた。

今日書きたいと思ったことを2012年の正月の記録に。

去年の秋口からずっと考えてきたが私と夫の間に「愛」はあるのかどうか
正直もう全然わからない。
ニコニコしていて何か買ってくれたりすれば夫のことが好きになり
ぶすっとふてくされていたり、私を無視したり貶めた言動をしたりすると夫が嫌いになる。
私の内部に存在している夫への感情など
そんな程度でしかない気がして、しょうがないのである。

夫が離婚に対して「否」と言わなかったのは、夫もまた
私に対して同様の感情を持つからであろうと察せられる。

いまこうしてともに暮らしているのは、お互いの利益を守るためというのが
目下最大の理由だろう。
私は夫の経済に頼り、夫は私の切りまわす家庭を支えにしているだけのことだ。
2012年1月3日


ああ、2年前からこう感じていたが
いま私は夫とともに暮らす理由を経済以外にまったく見失っていて
お互いの間に「愛」があるなどとは到底思えなくなった。
でもね、
この感情はまた揺らぎやすい一時的なもの。
私は自分の心に信頼を置かないことに決めたんだ。
私だって不機嫌にもなるし、夫にやさしくない言動も取ってるから
一方的に夫に責任を求めるのは間違いだから。
うんうん、きっとそうだ、そうに違いない。
ああ少し落ち着いた。
やっぱり書くということは大事だね。

そしてもうひとつ。
これもまたこの年末年始に感じている事。

この愚痴っぽさを今年こそは控えたいものだ。
夫が私になにも買ってくれないとか、かまってくれないとか、
どこにも連れて行ってくれないとか
娘が家事を手伝ってくれないとか、遊びまわっているとか、
父娘ばかり楽しそうで私はふてくされるばかりだとか
そんな幼稚な内容でいじけたりしたくはないものだ。

来年の今頃にはもっと実のある内容を書けるようになれたらいいと思うのが
年頭の所感である。
2012年1月1日



毎年毎年同じようなことを思って愚痴っているなんて
よっぽど成長していない。
これを実感できるから、
やっぱり書いておくということは大事だ。

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重ね重ねバカの記

こころ
01 /04 2014
とかなんとか言って、昨日ブチ切れてしまった。

すっかり残ったおせちをゴミ袋にぶちまけ
重箱を流しに投げつけ、腹の底から叫んでしまった。

もういやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

卑怯な私は立場も弱く優しい娘に八つ当たりして
娘を泣かせ、謝らせ、悩ませ

最終的に自分が熱を出して、8時ごろからベッドにもぐりこんで眠った。

久し振りに8度余りも熱を出したら、いつもより深く眠れた。

今日は朝からデートの予定だった娘は、
私の昨日のヒステリーによって心の痛手という実害を受け
めずらしく朝から掃除洗濯などを率先して行い
少し勉強をし、私のために買い物をしてから
午後になってから、ほっとしたように彼氏と初詣に行った。

要するに私は重ね重ねバカなのだ。
抑えきれないところまで貯め込んで爆発して熱まで出して
娘まで傷つけ、肝心の亭主には言葉も掛けていない。

ちなみに亭主は昨日今日とすでに朝の6時半から夜の7時近くまで仕事に出て行った。
給料が増えるわけでもなく
感謝されるでもなく
朝から晩まで働いて、去年は秋から休みがまったくなかった。

彼が精神的にも肉体的にも追い詰められると、行き場がなくて私に当たってくる。
けれど、私もとっくにパンパンに膨れていてそれを受け入れる余裕がない。

きっとどこの家庭も似たようなものなのだ。
亭主は仕事でめいっぱい。
女房は子育てや介護や雑事でめいっぱい。
互いに余裕はどこにもなし。

余裕がないから優しくなれない。

精神病になる一歩前に、体が疲労で壊れる一歩前に、
自分で何かを切り捨てるか
自分の間口を広げるかなにかしないと
夫婦も家族も、壊れてしまうのは簡単なことだ。
家族が相手のことを考えなくなったら、もう終わりだから。

出来るかどうかわからない。
わからないけれども、この症状にきく薬の名前ならば知っている。
それをふりかけると、かたくなな気持ちが和らいで
それにまぶされると、こころがふんわり柔らかくなって
それに包みこまれると、泣きたくなって、自分が恥ずかしくなって
いつの間にか素直に、優しくなろうと思っている。

その薬の名前は「愛」という。

一度でも「愛」に触れたことがあればそれは
自分の中にいつでも再生できるものだからきっと
私はそれを再生できる。

その万能薬を、私は常に身に帯びていたい。
自分のために、家族のために。

まず覚えておくこと2014

こころ
01 /05 2014
大事なことなので来年も再来年も、
なにより今年一年、大事に大事に忘れないためのメモとして記録。

とうちゃんが今日、ちょっと遠くのイトーヨーカドーまで連れて行ってくれて
とてもきれいな急須と
普段に履くにはちょっと高い気のするウォーキングシューズを買ってくれた。

ずいぶん時間を掛けたのに嫌な顔もせずにつきあってくれたよ。

ちゃんと覚えておこう。
とうちゃんは私のことを少しは気にかけてくれているんだよ。
無視してもいないし、邪険にも扱っていない。
父ちゃんは毎日ぎりぎりで疲れてたから
私に優しく出来なかっただけ。

私はそこを忘れちゃいけない。
今日のことを忘れちゃいけない。

だからいいものを買ってもらったね。
急須を使う度に思いだそう。
靴を履く度に思い出そう。

とうちゃん、ありがとう。
とても大事なこと、教えてくれて、神様ありがとう。

とうちゃんのこと大好きでいるように、がんばる。
神様、どうかよろしく。

緩慢ながら命令形のブログ

こころ
01 /09 2014
多分自分もやってきたことなのだろうけれど
生き方に関してすべての人を対象にして「こうせよ」「こうやってみよ」
という書き方をしているブログが嫌いだ。

なんの本で読んだのか、どういうセミナーで習って来たのか知らないが
「夫婦はこうありなさい」とか
「子育てはこうありなさい」とか
提案や発案、経験談ではなくて、緩慢ながら命令形で書かれているのが嫌いだ。

それを書く人は道徳系やスピリチュアル系が多いから
多分何かしらの本だか、集会だか、あるいは霊感だかによって書いているのだろうけれど
だいたいが「結果、答え」だけを書いてある。
まるで木で鼻をくくったようだ。

自分がこれこれこう悩んで来て
紆余曲折試した結果でこれが最も正しいと感じたので
これからはこうしたいものだ
というような書き方はまずしていない。

そもそも全人対象に「夫婦喧嘩はこうしておさめよ」的な書き方をしてあるのが嫌いだ。
その手の書き方をなさってもしっくりくるのは
「聖人」「賢人」「仏」「仙人」「神様」くらいだ。


実はこれ、半年くらい前からずっと心に溜まっていたこと。
とうとう我慢できずに書いちゃった。
げはは

旅犬(たびいぬ)君の相棒さん

いろいろ感じたこと
01 /15 2014
齢50を過ぎ、特に距離を置きたいと思っているのは
肉的にリアルな趣味世界を暴露するタイプの分野だ。

ネットで楽しく波乗りをやっていたら突然その手のサイトに行ってしまって
肉的猥雑な写真を目撃してしまったりすると
その後10分くらい不快になる。
下ネタ雑談大好きだった私を知る人が聞いたらびっくりするかもしれないが
これがいまの私の嗜好の現実だから仕方がない。

いや、別に楽しい下ネタ会話は今もそう嫌いではないし
乗れと言われればガンガン乗ってもよい。
本身(ほんみ)の動画だって写真だって見ろと言われれば見るけれども
その本身の扱い方にゲスな感じがまとわりつくと
一気に嫌悪感が走るのだ。

(このゲスな感じは個々それぞれなので深追いしないこと)

さて今日は何を書くかというと
関東地方で長く続いている、ある旅犬(たびいぬ)番組に出ている
旅犬まさ○る…ではなくその相棒さん、人間のほうについてである。

(旅犬番組と聞いてピンとくる人はどれだけいるのだろう?)

先日歯医者で女性週刊誌にその人間、相棒さんについての
リアルに肉的な記事、文言を見てしまった。
半ページ読んだだけで「読まなければよかった」と思った。

旅犬まさ○る君の相棒さんは、
日本のトレーナーの間では天才タレント犬と誉れ高い初代旅犬ま○お君をはじめ
二代目だ○すけ君、そして現在のまさ○る君まで
番組内でずっとともに旅をしてきた。
彼は単なる愛犬家の域を超えて、犬やその他愛玩動物の飼育や管理に関する
各種の専門資格を取り、
犬と人との良い関係のために尽力し、団体を確立し、
先の震災では犬のためのボランティアの取り組みを長く行ったりもしていて、
ちらっとこの文章だけ書いていても、とてもいい人そうなのである。

いや、きっと実際いい人なのだろうと思うのだ。
愛犬家としては、犬のために尽力する人に悪い人はいない、と
思い込みたい(あくまでも思い込みたい)。

けれども健康な下半身というものは
ときおり妙な趣味と欲望をむき出しにせずにはおかないようだ。

彼の肉的な趣味の片りんを妙な文言で知らされてしまった今
私はあの番組を以前の通りの気持ちでにこにこ見ていられるかどうかわからない。
あの人のよさそうな顔であんなことを求めちゃうのかと
脳内にイメージが湧くに決まっている。

もちろん彼の選択した相手が
もう少し穏やかな人だったら、暴露記事は出されなかっただろうから
そこは多分に気の毒ではある。
だがどちらにせよ彼は当時夫であり、父であった。
そして彼の行為には分別がなかった。

私はあの番組が好きなので、撮影隊が近所に来たら
犬のまさ○る君に会いに行くに違いない。
私はまさ○る君にキャーキャー言いながら、その連れの人間さんのほうには
どういう目を向けるだろうか。

ま、人間はおろかだからこんなもんさ、と。
で、あっさりと彼のことも応援したりするのだろうか。
とすれば軽薄で忘れやすい自分を、これも吉と容認してもよいかもしれない。

にしても、まこと秘め事とはよくいったものだ。
秘め事は秘めなければならぬと改めて思った次第。

時代小説を読んでいる

読んだ本の感想
01 /20 2014
今年のお正月は、家族そろって体調が良くなかった。
年末に娘が彼氏と強行軍のバス旅行でスキーに行き
胃腸系に響く風邪を土産に持って帰ってきたため、
それが夫と私にも感染したのだった。

そのような理由で、
せっかく用意した正月のおせちもご馳走もほとんど食べてもらえずに、
私は非常に残念無念で不快で腹立たしかったのであるが、
そんななかで、ひとつだけいいことがあった。

家族みんなが体調不良でひっそりしていた夜、
私と娘は一階のリビングでこたつに入って、
夫は二階でベッドに入って
テレビで「桜ほうさら」(原作 宮部みゆき)と言う時代劇を見たのであった。

年末年始のどんちゃん騒ぎ系の長時間番組ばかりが続いたあとで
いかにも年配者向きという丁寧な作りの時代劇は
90分弱と言うお手頃な長さもあって、見ていて大変心地が良かった。

風邪が耳にも来ていたのか、その頃わが一家は耳も遠くなっていて
私はそのとき初めて「文字放送」なるものも併用してみたのだが
そのおかげもあるのだろう、
時代劇に出てくる日本語のきちんとしていること、
美しい言い回し、熟語や漢語などを
目と耳の二つの感覚器で受け取ることが出来た。
丁寧な日本語が、非常に甘美で優れたものに感じられた。

きちんとした時代小説の原作をもとに作られた時代劇は
主人公や他の人物の心理や行動に筋が通っており、
見ている側の気持ちにすとんと無理なく添う。
脚本が原作の世界観を壊すまいと頑張ってくれた場合は
劇中でのセリフもまた、居ずまいの正しい美しい日本語となる。

そしていわゆる時代小説の最も大事な点はなにかというと、
それは多くの場合、そのテーマの正当性、明瞭さ、
「人が正しく生きようとする」苦しみや悩みであって、
世にひねた私などはそこに心打たれるわけである。
(ピカレスク系、エロ系、ライトノベル系の時代小説は別よ)

ああここ数年、ただでさえ少ない読書量に重ねて、
海外ミステリーやら読みやすいライトノベルばかり読んでいたことに
私はやっと気がついた。
そしてつくづくと思った。
「ああ、(良質な)時代小説を読もう!」

と、いうわけでそれ以降、良質な時代小説を読み続けている。
これがなんとも楽しくて、いい。
おかげさまで数年ぶりに読書の習慣がよみがえりつつある。

ところで時代小説は爺婆の読み物だと思っている人も多いだろう。
まぁ水戸黄門的な娯楽時代小説をイメージされるとそうなのかもしれないから
声高らかに異議を唱える気はない。
でも、時代小説だからと最初から本を手に取らない場合
(これが女子の読書好きに案外多いのだ)
これは非常な損だと言っておきたい。

最近読んで、とんでもなく感動した極めて良質な時代小説を上げておこう。
高田郁「銀二貫」。

これは山本一力の「あかね空」以来の驚きであった。
私は生まれて初めて、ラストで「うれし泣きの号泣」をした。
もう、おんおん声を上げて泣いた。
齢50を過ぎたからこその、
人生を重ねてきたからこその理解と感動だったのかもしれない。

ひとつよかったこと、「再び時代小説に出会ったこと」。
そして、そうだ。
50歳を過ぎてよかったと、これもまた思えた。




恵方巻きが食べたかったから

ハンドメイド
01 /24 2014
去年の夏の終わりから免疫抑制剤を服用しているので病気には感染しやすい。
というか、薬の性質上、感染した場合治癒までの時間が長くなる、
つまり治りにくい。

なのでいま巷で騒がれているノロウィルスに対しては
かつてなかったほどに神経質になっている。

治癒能力が異常に下がっている現在となれば
そもそも壊れている私の消化器のさらなる破壊も起こりえるので
これはさすがに勘弁だ。

だから出来合いのお惣菜を買わなくなった。
当然外食もNG。

この頃は、たいがいの物は自宅で作って食べるようにしている。
とても面倒くさい。
面倒くさいが、仕方がないからイチイチ作る。

唐揚げでもコロッケでも家で揚げたての方がおいしいから家族には好評だが
困るのが寿司、刺し身の類である。
私が生ものを出さなくなったので、夫はときどき自分で買ってきて食べているが、
今のところ無事な様子である。
(神様感謝します!!
2週間前近所の仕出しの寿司屋でノロが出たばかり!)

刺身は食べなくても全然平気だが、実はこの季節
私にはどうしても食べたいものがあった。
去年の今ごろ、娘がバイトしていた寿司店の恵方巻きである。

去年娘が店で残ったからとお土産用の恵方巻きを何度か持って帰ってきたが
それがとても美味だった。
(安物寿司屋ではないので、
1本ウン千円のものもあったが残りものなのでタダ!!)

娘はバイトを辞めたけれど、
今年もまたあの店の恵方巻きだけは買ってきたいと考えていたのだ。
だが、だが、だが・・・・・
県内の同じチェーン店からこの正月にノロが出て
そのうち一人に御不幸があったと新聞にも報じられた。
(判定ではこの方はノロに関しては陰性だったそうだ)

そうなのだ、他店とはいえ、
娘は去年の正月のあの店の大混雑ぶりと
ぶっ続けで働く人間の側の極限の疲労状態を目の当たりにし、
そこから派生する食品管理の問題点をつぶさに目撃して来ている。

その話を思い出すと、今の私にはあの店のすごく美味しい恵方巻きを
買う勇気があるか?
長いこと楽しみにして来ていたのに。

だから私は今日数年ぶりに自分で太巻きを作った。
自分でそこそこ美味しいものがつくれれば、ちょっとは慰められるかもしれない。

と、言うわけで作ったものがこれ。
ふとまきさん

当然だが、まぐろやほたてなんかの生ものは使わない。
生はキュウリとかにかまぼこくらい。
卵を焼いて、かんぴょうを煮て、しいたけを煮て、焼きちくわを煮て
買ってきたきゅうり、かにかま、そして桜でんぶ。

ちなみに直径が6センチくらいになっていたので、
恵方巻きにしたら、1本食べきるには相当大変そうな気がするぞ。
というわけで、うちではちゃんと切り分けて食べたのだった。

自分好みの甘めの太巻き寿司で、
これがなかなか美味しかった。
シンプルだから美味しいのかもしれない。
うふふん!!

また作ろう。

いや、ただこれだけの話を長々書いてごめんなさいっと。


不快と嫌悪を表現する言葉の最上級

いろいろ感じたこと
01 /25 2014
この歳になっても、私自身に新しいことが起こるものだ。
よそ様にとっては、きわめて小さな、なんのこともない小さな一事に過ぎないだろうが
私の自意識はそれに向けて大いに驚いた。

それは昨日、ほとんど発作的に書いたツィッターでのつぶやきにて起こった。




非常に強い不快感から「吐き気がする」という表現なら
きっとこれまで何度も使ったことがある。
けれども「反吐(へど)が出る」とまでの強い言葉を自然に用いたことは
なかったはずだ。

この事件記事を読んだ直後の私の感情は非常に険しく、
事件の起きた国とその加害者たちに対して、一切の容赦がない。

性犯罪に対しては同じ女として、娘を持つ母として
湧き立つ怒りと憎悪を抑えかねるのが常だが、
昨日発作的に用いた「反吐が出る」という表現は
私の嫌悪と怒りを表わす語彙としては最高位だと感じた。

「死刑になってしまえ」とか「同じ苦しみを味わえばいい」とか
そんな長い言葉であらわすことさえも惜しいがごとくに
「反吐が出る」という表現の持つ意味は深く思う。

嫌悪、憎悪、怒りに加えて、
そこには虫けらにも劣る人間への強烈な唾棄的軽蔑と
その言葉を使うことによる復讐心まで存在している。

この表現が自然に出てきて、
私はそこにはじめて気がついた。
恐ろしい言葉だと思った。

使うことすら罪深いかもしれぬと感じた。
けれども、経済成長おびただしいインドがずっと昔から抱えてきた
深すぎる闇は、こんな言葉すら呑み込んで嘲笑うのだろう。

反吐が出る。

なにか憑いてる?

いろいろ感じたこと
01 /27 2014
胡散臭く、怪しいことを書く。
アホが、とせせら笑って受け流していただくのが一番うれしい。


妖精や魔法使いがいるかどうか知らない。
まぁ多分いないんだろうと、なんとなくそう思っている。

だが、悪霊とか悪魔とか、そっちの方はいると思っている。
もちろんなんとなくそう感じているだけだ。
思っているのではなく、感じている、というところに違いがある。

オペラもうたう太った霊能者と、
シャンソンをうたう黄色い髪の性別不明の人とが
犯罪者の写真では「目」を見ればわかると言っていたが

それ本当かいな、と先入観を持ってニュースなどを見ていると
不思議不思議、ときどき犯罪者の顔が
タヌキやキツネや蛇なんかに見えてくる。

タヌキは詐欺や泥棒に多くて
キツネ、蛇は強盗、強姦、殺人などの凶悪なものに多いような気がする。

まったく先入観というのは恐ろしいもので、
私が「なんとなくいる悪霊」という場合
それらのことを想像していたりするから
実にいい加減で無責任だ。

そう言えばとある女性作家が亡くなったけれども
この人の写真を見ても、やっぱり「なんか悪霊いる?」と思ってしまった。

この作家さんは数年前に自分のところで生まれた子犬や子猫を
自分の手で殺したり、崖から落としたりして処分すると
堂々と新聞に書いて発表した人である。

記憶では彼女は、犬猫の雌の性を「生そのもの」であるとし、優先させて、
生まれた子猫を何匹も崖から投げ落としたと思う。
もちろん猫や動物を愛する人たちからの糾弾はすごかったし
私もそれ以降彼女の小説は一切読まず、無視してきた。

まだあの頃は彼女の顔はそれほどネットにも出ていなかったし
今現在もさほどたくさんの写真がネット上にあるわけではないが
改めて見てみるとやっぱり彼女の顔、怖いよ。
目がものすごく怖い。

何かある、なにか憑いてる、そんな感じがして仕方がない。

ふとした時、自分の顔の写っている写真を見てみるといい。
目がやけに吊り上って、意地悪そうになっていないか
残忍な恐ろしい口元をしていないか
死んだ腐った魚みたいな目をしていないか。

写真には意外と本性が写る。

(追記)
そういえば、私の母、父が倒れて亡くなって1年余りは
ものすごく怖い顔をしていた。
顔そのものもだけれど、彼女の口から出る父への罵詈雑言がものすごく
(というか、罵詈雑言以外のことを話さなくなった)
母の周囲にはどす黒い空気が立ち込めるかに思えた。

その母が今は認知症も進んで、笑う顔かぼんやりした無表情かしか
見せなくなった。

心の内側や精神の病でも顔は変わる。
これは確実に。

でもね母のあの黒い時代は、
やっぱり変なものがひっついていたのかもしれないなんて
いまさら思うなぁ。