ブログからあれこれ

いろいろ感じたこと
02 /03 2014
ああ今日読みに行ったブログはいろいろ面白かったなぁ。

まず真面目な話から行くと

ほとんどの法律は国民の権利の制限や規定、
義務を守らせるために存在しているけれど
憲法だけは国民が国に守らせるための法律である

という内容を教えてくれたブログ。

これを立憲主義というのだけれど、
ワタシ、これでも憲法をそこそこ勉強したので実は知っていたはず。
教授は2人ともそれなりにメジャーな護憲派だったから
このあたり非常にきっちり教わったはずなのに
個々の条文や細目の記憶ばかりで最も大事な立憲主義を
きれいさっぱり、まるでなかったみたいに、すっかり忘れていたのだった。

ああ、太巻きは上手に作れるようになり、
セーターはプロ級に編め、
苦手な帳簿ととりあえず向き合えるようになっても
主婦になってから憲法とは一切かかわってこなかったものなぁ。
偉い先生に上野駅でサンドイッチとコーヒーを御馳走になったあの日よ、
あの思い出も大事な憲法に関するわが意識の向上には
ひとつもつながらなかったということなのか(涙

もうちょっと脳みその別の場所を啓発しないと
どんどんバカになる。

ええとそれから、「うつ病になりにくいカテゴリーの人間」
という内容について書かれたブログがあって
その言い回しがなんともユーモラスで面白かった。

彼女の抱える現実は、
私などにはとても厳しく重いものに感じられるのだけれど
彼女はその厳しさに自己を見失ったり、いたずらに嘆いたりせずに、
ただ淡々と動きつつ、そうするうちに予想外の強さを身につけて
ぐいんと乗り切っていく感じがする。
(乗り越えるのではなく、乗り切る)

彼女はたいがいユーモラスで、なんでも笑いに紛らせて書くが
それが天性のものであったにせよ、
その能力が彼女自身を悲嘆や鬱から守っているところがあるのかもしれない。
強い意思や目的を持たないという彼女は、自身をぐうたらだというが、
ぐうたらも人生においては心と体を防御するための重要な能力だろう。
ちなみに私もぐうたらなので鬱にはならないかもしれない。
(ヒステリーには、なる)

それからほかのブログで
「男に劣等感を抱かせる部類の女」というのがあってこれも興味深い表現だと思った。
それは容姿端麗とか、そういうことのみではなく
育ちや学歴や各種能力や技術、生活などといったあたりで
いわゆる「女房が出来過ぎて男がいじける」タイプなのだろうと思われる。

「おしん」というドラマを子どものころ見ていて覚えているのだが
田中裕子演ずるおしんに甲斐性がありすぎて
旦那になった相手が働かなくて困るので
誰かの助言で、おしんが「出来ない妻」を演じ、
旦那は困って働きだした・・・というのがあった。
昔も今も出来る女房はいろいろと大変そうだ。

その点私なんかは、亭主に劣等感を抱かせたことがついぞない。
多少の美醜においては、私が絶対優位だと(勝手に)思っているけれど
ほかはどっこいどっこい、割れ鍋に綴じ蓋というところだろう。
そもそも徹底的に文系の私に理系の亭主、
家の中が活動範囲の私と、家の外が活動範囲の亭主、
守備範囲がまったく違うのだから、同じ土俵にはまず乗らないのだ。

にしてもだ、
夫婦がいろいろな意味で同列に存在しないというのは
なんやかんやとやりにくいことだろう。
別に劣等感云々がなくても夫婦なんて難しい時期があるものだし。

若ければ、性の魅力をバンバン利用できるのならば、
それを徹底的に使いこなして
劣等感を抱かせる相手を完璧に溺れさせてしまえばいいじゃん!
楽生楽勝!
と書いちゃうことだろうが、きっとそんなに簡単ではないだろうな。
はっはっは。

ところで、今日は2月3日。
実は会社に仕事に来ている。
予定では今日は銀行に行く日だったのであるが
ああ、地方の悲しさ。
1月31日付の約束手形が、いまだ口座に現金化されていない。
現金化され入金するのはなんと明日午後だという。

従業員の給与や各種支払いが5日だというに、
ああ、まったく、この余裕のなさったら、
いったいどこにアベノミクスとやらが隠れているんだか。

ああ、自転車操業から早く抜けたいっ!

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文学全集廃棄記録1

本にまつわる
02 /10 2014
私の部屋の2重本棚に幅を利かせている150冊程度の文学全集、
それらの処分をはじめた。

売ることも考えたが神保町まで持って行くのが骨であるし
調べたところ150冊全部でも7000円程度にしかならない。
1冊持って歩くのも重たい本を150冊持って行って7000円は虚しい。

ということで廃品回収に出すつもりだ。
一気に全冊だすのもなんだか悔しいので、
少しずつ目を通して徐々に捨てようと考えた。

最初に手に取られたのは、本棚の隅っこにいた「サルトル集」であった。
一昨年初めて本書の「水いらず」を読んだとき、
心理表現のうまさにえらく感激したっけな。
で、今回は未読のものを数作、1週間ほどかけてだらだらと読み通した。

サルトルは哲学的な深い内容をありがちな日常に潜ませて
じわじわじとじとと読者を窮屈な箱に押し込める感じのする作品が複数あり、
これに共感したり感応したりする人々も多い。

「他人は地獄だ」という台詞で有名な戯曲「出口なし」を読んでみると、
わがベッドサイドでは聖書で申命記を読み進めていたために、
ちょうど天の父なる神、主が「俺を本気で怒らせたら怖いよ」とイスラエルの人々に
モーセを通して語っていたところにぶちあたり、
その内容がこれまで読んだどんな小説より凄まじかったので
(とにかくなにからなにまで呪うんだ、これが非常にしつこくて、
徹底的に容赦がないんだ)、
サルトルの「地獄」がもう楽そうで、楽そうで、
なにが地獄だよというレベルにさえ思えてしまったのだった。

こんな状態の私にサルトルの精神性の苦しみが理解できるはずもない。
サルトルの文学性の高さはとりあえずわかっている気がするが、
聖書が私の傍らにある限り、サルトルを再読することはなかろうと思えた。
(老い先もそう長くないだろうしね、読みものなら楽しいのがいいしね)
ごめんなさい、サルトルさん。


それともう1冊廃品回収ボックスに運ぶのは「唐詩選」。
はっきり言って、これはほぼ未読である。
なので今回2日ほどかけて
「白髪三千丈」とか「人生意気に感ず」とか「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」とかの
熟語やことわざ、日本古典文学に垣間見る中国詩の有名どころを見つけつつ
さらさらっと散策してみた。

だが漢文なんて2日でさらっと読みとばして「読んだ」という顔をしておくものではない。
優れた唐詩選は、持つべき教養として暗唱できるくらいでないと
その美しい音に訳された意味がない。

そして一冊全部読了済のシェイクスピアも廃棄。
これには4大悲劇の他、有名な喜劇も詩も収録されているが。

上記2冊はなにかの折りに必要になるかもという「断捨離」的懊悩を感じつつも
「それはない」と無理やり抑え込んで捨てることにした。

重い本は次第に整理整頓すらもが面倒になるその前に
少しずでも片付けておかないと、残されたものが迷惑をする。

その点キンドルなどの電子書籍は気楽でいい。
最近、あの手の書籍に所有権がないということを知って驚いたのだが、
来たる老いの日を思えば、それもまた短所だけではないかもしれない。


(ほとんどの電子書籍は買い求めた書店が閉鎖すると読めなくなる。
つまり電子書籍を買った側は、
書店の本棚にあるその本を取り出して良い権利を買うだけなのだ。
ローソンが電子書籍を扱わなくなるそうで、
そこで本を買った気分でいた人にはお気の毒だ)




サムラゴウチさん

出来事から
02 /17 2014
ゆき雪ゆきと・・・・ソチソチソチオリンピックばっかりで
しばし忘れられた感じのサムラゴウチさんだと思っていたら
さすが民放の朝ワイドショー、しっかり取り上げられていた。

なんでも弁護士とたもとを分かったとのことで、まぁそうだろうて。
なにせ弁護士は「耳が聞こえないと認識している」と
マスコミのマイクに向かって堂々と言っちゃったのだ。

サムラゴウチさん本人に「3年前からちょっと聞こえる時がある」
なんて発表されたら、弁護士は立場も面目もあったものではなく、
「私は騙されてたんだ」と言わんばかりに弁護を辞退するしかなかろう。

今回の件で私はこの珍しい苗字のお方を初めて知ったわけだが
この人は「耳の聞こえない作曲家」として
NHKや民放でドキュメンタリーとして取り上げられ
コンサートも満員、CDもクラシック界で驚異の1位になったりして
人々の感動と賞賛と尊敬を受けていたのだそうだ。

この報道がはじめて流されたとき、私が最初に思ったのは、

「おお、えらいなぁ、名誉をかなぐり捨てて真実を告白するとは
大した勇気じゃないか、立派立派」

という、逆方向への賞賛で、どうもサムラゴウチさんを
小説「緋文字」に登場する自己の重罪を世に告白した牧師のごとき人物と
勝手に思い込んでしまったようで、
いまとなってはまことお恥ずかしい限りだ。

初報道から一日二日のうちに、私の思い込みはどんどん修正されて行き
サムラゴウチさんが若いころに第二の矢沢栄吉として売り出そうとしていたとか
石原軍団に入ったとかいうフカシを周囲に撒いていたとか報道されたあたりで
この人は、ただとてもとても目立ちたい人だったのだと理解した。
どんなかたちでも、世の中から一目置かれ、賞賛されたかったのだ。

目立ちたい人というのは、世間にもザラにいるが、おおかたの場合は
テストでいい点をとったり、かけっこで一番になったり、
絵や書道が展覧会に入選したり、
いい学校や会社に入ったりするくらいで甘んじているものだが
サムラゴウチさんの場合はこの欲求が人一倍強く
目立つためにはなんでもやるし、そのエネルギーも旺盛だったのだろう。

(だいたい途中で頑張るのに飽きたり、
どうでもよくなったりするのが普通で
これを一般に「身の程をわきまえる」とか「身の丈に合った」とかいうww)

それにしても、この人は虚偽がいつか白日のもとに晒される恐怖に
思い至ったことはなかったのだろうか。
嘘に嘘を塗り固めて、巨大化する嘘像から
逃げ出したくなることはなかったのだろうか。

もしもその恐怖を感じたことがあったなら
いま、サムラゴウチさんは少しだけほっとしているかもしれない。

詐欺罪に問われることや、
莫大な各種損害賠償請求という新たな恐怖に取り囲まれていても
それでも、巨大化した「嘘」をさらに大きくせずに済むのだという
わずかな安ど感。

それを感じていてくれるといいのだが。



言えないけれども

出来事から
02 /21 2014
いくら興味がないとはいえ、
今朝の浅田真央ちゃんの演技にある種の感動を覚えないはずもなく
そうなるとさらに森元総理の酷い発言にムカつくのであった・・・・

というのを書こうと思ったが、そうすると元々嫌いだったあの元総理の
過去の失言どころか、インテリジェンスに対する疑念や
あの厚ぼったい顔つきや体、声、喋り方、
存在そのものまでも徹底的にこきおろしてしまいそうなのでやめた。

で、なにを書こうかと思っていたら、材料は向こうからやってきた。
4時半過ぎだったか、小学生の女の子が3人、ピンポーンと来たのである。

そのうち2人は見たことのある顔だった。
以前娘が教育実習で受け持ったクラスの女の子たちで
実習終了から勝手にうちの家に何度か来たことがあるのだ。

あのときは、留守ばかりでごめんねと娘が女の子たちの家に電話を入れたのだが
結果それが女の子たちの親に伝わり
あの子たちの訪問はそれ以降なくなり、もう全部終わったと思ったのだが、
あれから半年、まさかまた来るとは想像もしなかった。

「転入生が来たから」と見知った女の子は言った。
見覚えのないもう1人が、恐らくその転入生なのだろう。
しかし数週間いただけの教育実習生になぜに転入生を紹介しに来るのやら。

うちの娘が小学生女子に好かれているらしいのはありがたいけれども
こういうことが起こると、
クールな都会で育った私はちょっと困る。

(二十四の瞳の大石先生だったら、生徒が卒業して何年過ぎようとも
「ああよく来てくれたねぇ!」とニコニコと歓迎するのだろう。
あと、ごくせんのヤンクミ先生もきっとそうねww)

この埼玉の田舎に引っ越して22年が過ぎようとも
地域の子らのうちの娘に対する当たり前のような親しさ、慕い方に対して
私は強い戸惑いを覚えてしまう。

だから私は娘がもうすぐ社会人になること
学校の先生にはならないことなどを子供らに伝えた。
子供たちは「じゃあ手紙を書いてくる!」と引き返して行った。
先ほどばたばた足音がしたので、
うちのポストには娘に宛てたあの子たちの手紙が入っているのだろう。

本当は「もう来ないでね」と言ってしまいたかった。
言えないけれども。