体重

こころ
12 /01 2014
切実なおしゃべり(吐き出し日記)

16歳のころの体重は57キロだったのよ。
ボーイフレンドと千鳥が淵のボートに乗ると、
私のほうが男の子より重くて、みっともなかったんだよね。

授業サボって近所のパン屋でパン食べてると
「ちやこアゴ、やばい!」とか友達に言われちゃったりして
あわててあごを前に出したりね。

鏡台の前に立つときは正面よりも、少しでも細く見えるように横に向いて
スカートからでてる太い足と、セーターで隠されてる胴まわりに
いつもため息ついていたのよね。

若くてアホウだったから、病気で痩せても、それがうれしくてさ
これ見よがしに、腰の締まったフレアースカートを履いたっけ。
保健係で体調の悪い子を連れて保健室に行くのだけど
「あなたのほうが顔色が悪い」って無理やり休まされたりして、
それまでいつでもバンバンの元気で、
学校に心配されたことなかったから、
か弱いっていうのも悪くないね、なんてちょっと悦にいってた。
アホウでしょう。

ねぇ、モデルさんとかで、175センチ45キロとか、あれ、本当だろうか。
私が現実に知る限りでは
50キロ以下の人って、十代後半以降から中年期ぐらいにかけてだと
かなり少ないほうだと思うのよ。
身長がすごく低いとかそういう場合は除いてだけれども。

それなのになんだかさ、芸能人とかのプロフィールには
50キロ台って言う文字を見た覚えがないわけよ。
(とりあえずスポーツや格闘技系は別ね)
で、それって絶対うそだと思うのね。
48キロってさ、十代の女の子の標準的身長からいうとかなり細いよ。

たとえばアイドルグループでがんがん踊ってたりしたら
160センチ48キロの場合、結構からだきついんじゃないかな。
ものすごく燃焼するだろうから、すぐ45キロくらいになっちゃうよ。
ニコニコなんか笑ってられないんじゃないかな。
性格も歪まずにいられるだろうか、疲れきっちゃうよ。

結婚するときは48キロだったんだ。
ずっとこのままでいたいと思ったけど、それは無理だった。
この5年間くらいは45キロを何とかキープしようと必死だった。
ここ一年、体重の減り方が早くて、正直すごく困ってる。
40キロキープにいま、必死。

あのさ、宮沢りえってすごく細いんだけど、いまあの人何キロだろう。
40キロなくてあれだけ元気だとすれば、それはすごい。
どうやったらあんなに元気でいられるんだろう、
子育ても家事も仕事もこなせるなんて。
やっぱりベースが違うのかしら。
病気じゃない「痩せ」は大丈夫なものなのかしら。

だとしたらずるいなぁ。
ああ、マジでマジで、太りたいんだよ、
もう健康になる望みや夢は持っていないからさ
せめて元気でいたいわけですよ、わたしは。




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預言にお金はかかりません

神様
12 /02 2014
別に名前を挙げたりしないが、とある新興宗教の最高地位の人は
死んだ偉人さんたちに憑依してもらうんだかなんだかをして
日本経済とか、憲法とか、この国のあり方とか、隣国との関係とかを
ああだこうだと語って、こうするべきだああするべきだと
山のように提言し、本にしたりしている。

これに関してナンダカンダと言い立てる気はないのだが
諸葛孔明や卑弥呼まで登場して、
胸襟を開いて語ってくださるのであれば、ぜひとも
ドストエフスキーに降りていただいて
未完に終わった「カラマーゾフの兄弟」の続きを、
しっかりと最後まで書いていただきたい。ぜひとも。

預言カフェなるものを最近知ったので、それに関して
ナンダカンダいう気はないのだが
あれが「わけわからんちん新興宗教」系列ではなく
「うちはキリスト教です」と看板を上げているから
「それなら」と安心しちゃう方々に向けて
一応これだけは書いておこうかな、と思う。

韓国で修学旅行生を置いて逃げたあの船のオーナーは
キリスト教系新興宗教の創設者だったぞ。

いまも合同結婚式を行っている統一教会は
自称キリスト教系の宗教なのだぞ。

輸血拒否や地獄の説明にやたら詳しいエホバの証人もキリスト教系だぞ。

キリスト教と名乗っていても、
日本人一般が知っていて安心できるキリスト教系ばかりではないのだぞ。
お金大好きの搾り取り系もあれば
世界を我が物にせよというのもある。
どれもそれぞれ恐ろしいものであるけれど
なにが一番怖いのかというと、何も知らない人間が、それを信じて従うのを
高らかに喜んでいるのが、神とは真逆の存在であるということだ。

ちなみに預言者は金を取らない。
神の言葉は無料だからな。
ここでまず、おかしいと気付いたほうがいい。





ダウンちゃんちゃんこ

いろいろ感じたこと
12 /03 2014
数年前から、そでぐりの狭い
腕の付け根に余裕のない衣類は窮屈で避けてきたのだけれど
この冬はそれに輪をかけてぴっちりした衣類が嫌いになってきた。

だってさ、肩凝るんだもん。

今朝の関東はこの冬一番の寒さで、
埼玉のうちのあたりでは、気温一度というから
今シーズンで一番の厚着をしてみたわけよ。

ノースリーブの綿下着の上に、ヒートテックのタートルネックを着て
ワイシャツを重ねて、さらに毛糸のセーター。
(家にいる常として綿入れ半纏も着てるw)

これが、とにかく窮屈で窮屈で。
去年はこれを着ても、ちっとも窮屈に感じなかったのだが
今年はもうなんだかイヤでイヤで仕方が無い。
腕にも肩にも首にも、余計な圧迫が加わっていて
変に力が入り、首の周囲や肩がどんどん張ってきて、
しまいには首と肩の痛みで、吐き気が起きそうになり
寒い中全部脱いで着替えてしまった。

とにかくワイシャツとセーターがだめだ。
ワイシャツは突っ張り、100パーセントウールの手編みセーターは
ものすごく重い!

そして改めて上に着たのは、
サイズ的には2ランクも大きいユニクロのXLのフリースだが
(ユニクロはジャストサイズだと腕の付け根が細いから大き目がいい)
つくづく思った。

ゆったりして軽くて暖かいのが一番いいっ!

そういえばこのごろは外套も軽い化繊のジャンパーばかり羽織っていて
重たいウールコートは箪笥から出してもいない。
ちゃんとした場には簡便なジャンパーでは少々礼儀知らずだし
正月にはやはり重たいコートを着なければいけない。
そう思ったら急にまた首と肩が凝りだした。
重いのはいやだなぁ・・・・

どんなに質がよくて上等で、暖かくても
もう私は英国製の純毛毛布みたいに重たい衣料品はイヤだ。
私の肩にも首にも、
もはやそんな重量を支えて苦にしない筋肉量は残っちゃいない。

ふん、要するに私の体は老けたっていうことだ!
世のバァさんがたが、かぁるい寝具を愛し
敬老の日にふわふわダウンのちゃんちゃんこみたいなのを贈られて喜ぶごとく
私もふわふわダウンの肩当とか、ちゃんちゃんことかが欲しいじゃないかっ!

うん、ちゃんちゃんこ、欲しいぞ。

半纏は重量がそこそこないと暖かくないし、なんといっても
脱ぎ気が楽で体を締め付けないでいられるので
大好きで、いまのところ重さも大丈夫なのではあるが
家事のときはやや面倒なところがある。

何年か前に綿入れ半纏を着て家事をしたおばあさん女優が
半纏の紐だか、袂だがから火がついて、焼死したこともあった。
いくら楽でもこのあたりは要注意に違いない。
やっぱりちゃんちゃんこがいいのかしらん・・・

ちゃんちゃんこ、悪くないわよねぇ・・などと思い至ってふとそれを着た自分の姿を思ってみた。
ガラの身体にだぼっとした緩めフリース、そしてダウンちゃんちゃんこ。

なんかものすごく老けた婆さんに思えた。
とても50代とは思えない。
介護施設にいる認知症母の格好みたいではないか。

ううむ・・・・・ちゃんちゃんこはもう少し待つことにしよう。

本当に読み返すもの

本にまつわる
12 /04 2014
若い頃は自分を読書家の文学少女だと思い込んでいたが
思い出してみようとしても、愛読書の文章がすらりすらりと出て来る訳でもない。

とにかく、中学時代くらい、ばかばかしい本の読み方をした時期はない。
文学全集が家にやたらに多かったから、
その背表紙を眺めるだけで作家と時代と作品名にかけては
文学史を習わずに済むくらいの知識があったせいだろう、
大人に褒められたい欲望から私が選んで読んだ本は
どれもみな超有名どころで、名著で、名作傑作名翻訳ばかりであった。

恐るべき集中力をもってそれをがんがん読みすすめる私は
当時は幸運にも与えられていた高い記憶能力のおかげで
膨大な語彙と言い回しとを身につけ、それをして作文や感想文を書き
またしても大人に驚かれ喜ばれては、悦に入っていた訳である。

しかし、だ。
13歳14歳の少女が、小林秀雄なんぞを読んで、どれだけ理解できる。
漱石の猫には大笑いできても
同じ漱石の「行人(こうじん)」のどこに感慨を覚えることができる。
鴎外の「澁江抽齋 (しぶえちゅうさい)」のように淡々とした記述に
なにを読み取ることができる。

あの時期学校で借りた文庫本の中で私が本当に面白いなぁと思ったのは
山本有三「真実一路」くらいな、
中学生以上の全年齢層向けの、ドラマにも映画にもなった
わかりやすい、読みやすい、ごく当たり前の小説だけだったような気がする。

まったくもってそうだ。
噛めもできず、飲み込みもできないものを、口に放り込んだところで
おいしくもないし、栄養にもならない。
それが口に合うし、栄養になるなら、人は何でも読めばいいのだ。
漫画だろうと、ライトノベルだろうと、同人誌だろうと。

そのように、すっぱりさっぱり割り切れるようになったのは
真実のところは50歳を過ぎたあたりからかもしれない。

アホウだったけれども本だけは読んでいた父が
60を過ぎたあたりから、柴田錬三郎や山田風太郎などの
いかにもといった時代小説ばかりを読む姿に
私は「成長しないもの=安寧=老い」を見ていたものだが
いまの私がまぁなんと、
ずっぽり同じ状態にいて、それが少しもイヤではないのだ。

ついひと月ほど前に読み終えている「みをつくし料理帖」シリーズを
ほとんど間を置かないでまた最初から読み直しているのである。
まったく同じ話なのに。

中身を忘れているわけでもないし、新たな感動を覚えるわけでもない。
ただ、しみじみするので、読み返す。
体の痛みで眠ることが許されない夜、
綿入れ半纏を羽織ってコタツの中で足を暖め
生理的食塩水をちびちび飲みながら二度目、三度目と読み直す。

料理の才能を持って生まれた主人公や、
周囲の優しい人たちが、運命とも宿命とも言える苦労や涙を
ただただ誠実に、必死になって毎日を生きてゆくことで乗り越える
そんな当たり前の、浪花節はなしを
ああ、いいなぁ、
私もこう生きなくちゃいけないんだ、と教えられながら読み直す。

さっき再再読して、またしても心に残った言葉をここに記しておこう。

苦労の連続にも負けずに頑張る主人公が
駒繋ぎという雑草に例えられるくだり。

「その花は、いかなるときも天を目指し、踏まれても、また抜かれても、自らを諦めることがない」
(高田郁「想い雲 みをつくし料理帖」 角川 ハルキ文庫 より抜粋)

密かに慕うお武家さんに、そういわれて
その足音が遠くなってから
主人公はうずくまり声を殺して泣くのである。



喪中はがきから

いろいろ感じたこと
12 /05 2014
なにせ高校時代だったから
父親が大好きなんて娘は本当に少なかったが、
その子はいつも言ってた。
「お父さんね~、大好き」
「お父さんみたいな人と結婚したいなぁ」

そんな夢みたいなお父さんはどんな人かと言うと
当時で言うところのマルサにお勤めをしている
ぎちぎちのお役人で、ごく普通のおじさんだったそうだ。

その子のお母さんがときどき情緒不安定になるようで
家庭内でお母さんが泣いたとか
ヒステリー起こしたとか
突然庭の大木をお母さんが切ったとかいう話にも必ず

「お父さんと2人でえっほえっほ木をかついで片づけたんだよ」
となんだか楽しそうに語っていて
ああ、きっといい家庭なんだろうなぁ、いいお父さんなんだろうなぁと
私は彼女と父親の関係をうらやましいと思っていた。

数年後高校を卒業して、彼女に結婚話が持ち上がったとき
彼女は断然強気で言い放った。
「お父さんみたいな人大っきらい」。

結婚問題に関して彼女とその父親は、正面から対立したらしく
他人の存在によって家庭内が変わるというのを私は
現実に知ったのであった。

その1年後だったか、彼女は結納し、式まで決めながら、
別の男性を好きになり、破談となった。
彼女にそれを言い出す勇気はなかったが
ここで彼女の母親が本気を出して娘のために乗り出してことを成し
幾多の紆余曲折を経たのちにそうなったのである。
このときの立役者はお母さんで、お父さんではなかったらしい。

数年もしないうちに彼女は、その新しい人と結婚し
そのまま彼女とは会っていないが
私はどうしてかいまでも彼女の家族について
特別な親しみを覚えている。

堅物で優しいお父さんと、変わり者だが娘のために必死になれる母、
互いに完全じゃないところが、いい関係だよねぇ。

・・・・・そのお父さんがこの春亡くなったからと
喪中はがきが届いたのは3日前のことだ。

あんなにもお父さんが大好きだったことのある彼女だから
いまでも思い出してはひんひん泣いているのではなかろうかと思う。
侠気はあれど、基本情緒不安定なお母さんのことも
よそながら心配になってくる。

喪中はがきをもらったけれども
年末前に、彼女に手紙の一枚でも書こうと思う。

なにをどう書いたらいいのか、わからないのだけれど。

私にはそう見える

こころ
12 /06 2014
いままで自分はなにをしてきたんだろう。
ただ毎日毎日働いて、他になんの成し遂げたこともない。
家族のため、会社のためって、自分の本当にやりたいこともやらず
毎日毎日ありんこみたいにこまねずみみたいに。

楽しいこともしないで来る日も来る日も家事ばかり、
やるのが当たり前で、褒められることなんかまずなくて
日曜も祭日も早朝も深夜も区別なくて、無給で
いつでもどこでも何時でも対応させられて、愚痴でも言えば
いいご身分だって。

・・・・なんてことをときどき耳にしたり
文字で読んだりするのだが、
あのさぁ、なにかいけないことなのかな、人のために、誰かのために生きたことって。

お父さんが来る日も来る日も、疲れていても悲しくても仕事して
そりゃあ、おなかも出るし、はげるし、みっともなくなるし、
お父さんはちっともきらきら生き生きなんかしてないかもしれない。
いつも疲れた顔をして、不機嫌で、邪魔くさいかもしれない。
誰のために仕事してると思ってるんだ! って
恩着せがましくいうことだってある。

で、それのどこがいけないんだろうね。
夢や理想があってさ、それにまっしぐらに突き進むかっこいい男はさ
確かにかっこいいと思うけれどもさ

毎日地味に、ただただこつこつ、忍耐を積み重ねて
家族のために生きてきたお父さんって、かなりすごいんじゃないかな。
な~んにも卑下することもない。
だってさ、家族のために頑張ってきたんだよ、
何十年も、嫌なことも、悲しいこともあったし、プライドだってずたずたになったこと
何度もあったと思うよ。
でもお父さんは、少しも変わらなかった。

お母さんもそうだよ。
きれいで輝くきらきら母さんでなくても、毎日毎日
亭主と子供のために、ずいぶんいっぱい我慢して節約して
褒められもせず給料もないのに、頑張ってるよ。

華やかな仕事場や成功者や野心家は、それはもちろんえらいと思うよ、
憧れるのは当たり前だよね。
でもさ、自分の夢だけ追いかけた人よりも
自分を抑えて、誰かのために、なにかのために生きてきた人はさ、
ものすごくかっこいい。
私にはそうしか見えないよ。

誰がなんと言おうと、かっこいいよ、すごいんだよ。
胸張っていいんだ。

私らみたいな普通の人間はさ
本当に頑張らなきゃならないときにはさ
守るべき人、守るべきものがなきゃならない。
そうでなきゃ頑張れないんだから。
力なんて入らない、腰砕けになって、逃げちゃうのが落ち。

自分のために生きるのは、そりゃあ理想なんだろうね。
でもさ、私はさ、誰かのために役に立てるなら
そういう人生って、とってもいいと思うんだよねぇ。

ああ、また甘いことを。
きれいごとを、って思われるんだろうけど、
私そういう考えで、今、生きております。



はふはふ麦茶の沸かしたて

いろいろ感じたこと
12 /08 2014
やかんにあつあつの麦茶を出している最中で、
いま家の中は麦茶のいいにおいでいっぱい。
うふ~ん、この香り好きだわ~

緑茶も紅茶も好きだけれど、麦茶もやっぱり無性に恋しくなるときがある。
夏の暑い日の冷たい麦茶もさることながら
寒い日の午後あたりに、あつあつの薫り高い麦茶もまた格別。

濃い目に出した麦茶をいわゆるポットに入れて
飲みたいときにちょこちょこ飲む。
今日など関東は空気がからからに乾いて
室内干の洗濯物さえ半日で乾くくらいだから
喉もやっぱり潤すのがよろしい。

紅茶には砂糖が欲しくなるけれど
麦茶はこのまんまで飲む。

沸かしたてをさっそくパソコン脇に持ってきたぞ。
あち、あち、あちち、ふぅ~(一気どころか一口も飲めない)

あのねぇ、麦の収穫はいつだか知ってます?
真夏なの、早くて5月から7月8月の一番暑い時期。
炎天下にあれを刈り込むから大変なんだと
農家出身の友達が教えてくれた。

麦の秋と書いて麦秋(ばくしゅう)、
麦の収穫の時期だからこれはだから夏の季語。
黄金色の麦畑の美しさって、それはもうきれい。

思い出してくれる人いるかな、星の王子様に出てくるキツネ。
これまでいつもと変わらない思いで見ていた麦畑が
王子様の髪の色と同じだって言って、
麦畑を渡る風の音まで好きになるって語るんだよ。

だけどキツネと王子様は別れを告げる。
お互いとても大事な存在になったことを知りながら。
(ここで有名な
「大切なことは目に見えない」
L'essentiel est invisible pour les yeux.
って言葉がプレゼントされるんだったね)

十代だったか、星の王子様のミュージカル映画を一人でさ
日比谷スカラ座(なつかし~)に観に行ったんだよね、
お小遣いためてさ。

あの頃はまだそれほど大物ではなかった振付師のボブ・フォッシーが
砂漠のヘビの役をしてて、それはもう圧巻のダンスを見せるんだけど
私には麦畑の中で去ってゆく王子様を見つめるキツネの役をしていた
ジーン・ワイルダーがただただかわいそうでね、
さびしそうでね、
よくわからないんだけど、すごく記憶に残っているんだ。

最近で麦というと、やっぱりマッサンの「麦の歌」かなぁ。
全曲聴いたことがないんだよね、本人の声では。
みゆきさん、あいも変わらず感動的な歌詞だから
あの歌を聴きたいだけで、今年の紅白見ようかなぁと思っている。
(2画面でねwもちろんメインは「ガキ使」、
みゆきさん出たらそのときだけNHKに変えてさ)

あ、ねぇねぇ、田んぼがある人はわかるだろうけどさ
いまって関東圏の田んぼは丸坊主なんだよ。
真冬は田んぼって大体どこも丸坊主なんじゃないかな。

でもねぇ、麦畑って違うんだよ。
雪の下でも麦は育ってるんだよ。
ただただ耐えて育ってるの。
残念ながら、中島みゆきの歌詞にそこは表現されてないんだけどね。
「ただ寒中の麦を思へ」という言葉を最近知ったんだけど
深くてねぇ、じんとしちゃったんだわよ。

とまぁへらへらと、ここらで麦茶二杯目いきます。
あっちっち。ふぅふぅ。



胸キュンってなんだ

冗談もどき
12 /09 2014
「胸キュン」ってなんだ。

アイドル系、青春系映画の試写会コメントで、女の子たちが連発して使っている
「もぅ、あそこ、胸キュンすごい!」とか
「胸キュン、きたっ!」とか。

いや、別に最近はじめて耳にしたわけじゃない、
多分私が少女のころから、この言葉はすでに使われていたように思う。
そしてそのころ使われていた意味も、いまとほとんど変わらないのだろうと察する。

しかし、私は13や14のあの当時から「胸キュン」の意味がわからない。
「胸がきゅんとした」と聞くと、当時から私は「心臓に何か異常が?」とか
「肺が気胸になった?」とか「狭心症の始まりか?」とか
そっちの方向に考えが行った。

だってさ、恋しいからって動悸息切れ眩暈などの亢進があるなんて
あの当時から私にはおよそありえなかったんですもの~~~~!!!
だから、胸に弾を打ち込まれたかのような
ずきゅうううううん! 
なんて表現は漫画の中にだけ使われるものと思い込んでいた。

でも、それって本当にあるのだそうだ。
恋心で動悸や脈拍の亢進が起こるなんてすごいわねぇ、
それってもしかしてさ、
血圧上昇や発熱や感染やアレルギーまで起こりえたりするのかしらん。

seiyokuの亢進や、体温上昇は経験していると思うのだが
どうもその前の段階に違いない胸キュンを、私は一切経験することなく
50の坂を越してしまった。
べつに悲しくはないが、あえて書くとなんだか女として
大事な瞬間を経験してこなかった気がして、
いまさらもったいなくなってきた。

少々前に韓ドラでヨンさまに「キュンキュンした」多くの熟女さんたちや
氷川きよしを追いかけまくって「キュンキュン」している
大先輩方を見習って、私も誰かにキュンキュンしたい。

老いも若きも「キュンキュン」には「きゃーきゃー」言うのだから
あれはきっと楽しいしのだ。
ああ、私にも遅ればせながら「アイドルさん」が登場すればいいのに。

でもさ~、ちょっと待って。
流行の壁ドンを、たとえば美形クールな男性にやられているのが
このオバサンだったとしたらさ、
これ、絶対地下鉄とかで「ババァ金出せよ」とか脅されてるに違いないじゃん。

「ちょ、ちょっと、やめてください、人を呼びますよ」
「呼んで見ろよ、このババァ!」
「ひぇえええっ! ご、ごめんなさいっ!」
そして私は震えながら痩せた財布を出してお金を渡す・・・
「ちっ、こんだけかよ、貧乏人がっ!」

・・・・・このシチュエーションのどこに胸キュンが想像できようか。
恐怖でその後私が床にへたり込むとか、
心臓が口から飛び出しそうになってるとか、
そういうのは簡単に想像できるんだけども。
(動悸息切れ眩暈血圧上昇、ありえるな~)

だめだなぁ~、自分がきれいだとか、若いとか、
異性との恋愛とか、その手のものからすっぱり離れてしまって
想像力さえ働かない。
このオバサン、人生にくたびれてるわ~

仕方が無いので、今宵もくたびれたとうちゃんのご飯を用意するとしますか。
では手短に、ちゃんちゃん。

ツイッターもどきしゃべり

いろいろ感じたこと
12 /14 2014
ええとね~、昨日見た映画の話をちょっと最初に。

あんまりにも科学が高次元になると、
その科学的思考に関して、話を聞く側の脳みその知識や容量が不足している場合
あるいはその不足を認めまいとして
それは科学でなくスピリチュアルあるいはファンタジーではないかと
己の理解不能を「ありえないおとぎばなし」「ひどいつくりばなし」として
断罪してしまうものなのだな・・・

ということを、昨日見た「インターステラー」という映画の
素人批評のいくつかから感じたの。
私は相対性理論を標準装備しているわけでもないし、
量子学や5次元空間なんてものにはほぼ無縁ではあったけれども
まだ空き地だった脳みその部分が異様な回転数で回りだして
そこに論理がガスンドスンとはまり込んで
もはや脳内新天地が開けそうだったわよ。
毎作品とも評価、好き嫌いの分かれる監督の作品らしいけど
私は・・・・好きかな、
ただ、体調のいいときに、家で転がりながら、休み休み
トイレに行ったり、お茶飲んだりしながら見ないと
また頭がパニックになりそうな気がするのでございました。
これはおわり。

で、次、今日牧師が話した説教の中で印象的だったこと。
キリスト教はストレートに関係はないんだけどもね、
牧師はコーヒーを淹れるのが趣味なので
おいしいコーヒーの淹れかた研究のために、
各所に珈琲を飲みに出かけるのだそう。
で、そこで恐ろしい光景に出会った。

4人家族が、まだ小学生くらいの子供2人と夫婦が
店のテーブルに向かいあって座り
ランチを食べていたそうなのだけれど
4人ともそれぞれスマホをいじっていて
お互い顔も上げず、声も出さず、当然会話もなく
黙々と食べてスマホをいじっていたのだって。

家族が向かい合って食卓についているのに
一人ひとり自分の世界に閉じこもっている・・・
牧師にはそれがかなり不気味で恐ろしい光景に見えたと。

ああ、わかるなぁ、と思った。
レストランでも、おいしいねおいしいねと笑いあっている家族もいれば
一言も口を利かず、顔さえ見ることなく
ただえさを食べているだけの家族がときどきいるものね。

あれ、当人たちは慣れて気付かなくなっているのだろうけれど
けっこう異常な行動だと思う。
子供が反抗期だとか、けんかのあととか、そうじゃなく
日常的にあれが普通だったら
そんな家族、私だってイヤだなぁ。
犬の散歩中にスマホいじっている人見てもイヤなくらいだから
ベビーカーを押すママの手元にスマホとかも当然イヤ。
乳乳中のママがスマホをしてるのを目撃したときには
うちの嫁、うちの娘なら、後頭部を思い切りひっぱたきそうなほど
イヤ~な気分がしたよ。

スマホって便利だけどさ、嫌いだなぁ。
機能が多い分、ゲーム機よりたちが悪いと思うんだよね・・・

家から出たくない・・・けど、楽しいなら出たい

いろいろ感じたこと
12 /18 2014
夏の暑いときも、「脱水になる」とか「熱中症になる」とかいって家から出たくなかったが
いま、この冬の寒さの厳しいときにも、「インフルエンザ怖い」とか「体力消耗が激しい」とか
たくさんの理由を作って、家から出たくない。

そうです、どう考えても私は「全日本もう帰りたい協会」に所属するべき人間。

でもこれじゃあいけないんだって、自分でもわかってる。
引きこもって、あったかいこたつで、あったかいお布団で、ぬくぬくして
だらだらして、なんにもしないでいたら、
だんだん飽きて、つまらなくなって、なにかやりたくなって、
だれかとつながりたくなって、おいしいものが食べたくなって、
おしゃべりがしたくなって・・・・

だけど相手がいなくって、結局いじけてちまちますることになるんだ。

娘は今夜は仕事で泊まり、
明日は遠距離恋愛中の恋人のところに新幹線で向かい
山陰の温泉地で一晩ともに過ごすのだそうだ。
で帰宅しても早朝から仕事で夜には忘年会とかの予定がびっしり入っている。
「私も、全日本もう家に帰りたい協会会員だよ」だなんてほざかれたって
そんなもん信用できるかあほんだら。

そういえばとうちゃんも土曜日はスポ少があって、
夜にはその忘年会で飲み会があるそうな。
当然翌日日曜日もスポ少でテニスだろうね。
あるいはパチンコに行くのか。

こんな風にみんながいろいろ楽しそうで活動的で
一人で家で留守番の私は、「家にいたい」けれども
楽しいことならば、やっぱりいろいろしたいわけで、
仕方が無いので、一人ふてくされる。

私が家を出なきゃいけないのはいつも「銀行」とか「仕事」とか「病院」とか
そういう「楽しみ、娯楽」とは縁のないことばっかりだから
だから余計に「家にいたくなる」だけなんだろうな。
外に楽しいことがたくさんあったら、
・・娘にみたいに恋しい男に会いに行くとかさ・・
私だって多少は「今日は家に帰りたくない」なんて言える様になるんだろうにな。

今日も結局「銀行」行って振り込みやってこなきゃなりません。
ネットバンクは信用しないというのが零細企業のポリシーですからね、
面倒でも銀行まで行きます。
ああ、寒いのになぁ、家にいたい。