自分のブログのあり方について

こころ
01 /04 2015
さて、新しい一年が始まって4日目。
何から書こうかな。

年末から、自分のブログのあり方について、少し考えている。
書けといわれれば、あるいは書こうと思えば、その意思があれば
(雑文なら)毎日でも何本でもたぶん書くことができると
そんなふうに過剰な自負心がどこかにあるのだけれど

それでいいのかな、と強く感じるようになっていた。

(書くことで脳を動かして、少しでも老化を食い止めようという
気持ちもまだ残ってはいるのだけれど)

私は自分自身の欠点をある程度認識している。

まず「知ったかチャン」であること。
こんなこと知っているんだよ、どうよどうよ、と
やりたがるということだ。

ここから派生して「知ってる私ってすごいでしょ」と
周囲に認識させたがる。
たとえば学歴とか職歴とか、その方面を
それとなくにおわせたり、さも自然に装いつつ話に混ぜ込んだりする。

これが自分自身の一番嫌いな点であり
一番治り難い点でもある。
なぜならこれは、コンプレックスの裏返しだからだ。

私は自分に自信がない、だから得意な方面で武装する。

だが私は武装をやめてしまいたい。
ありのままが一番、なんてそこまで純粋にはなれないけれども
なんでもない自分自身を
そのまま受けいれて、卑下することなく、
「私って実はあほです」と平然と笑えるようになりたい。

語りすぎて大げさになるのも、知ったかになるのも
人を批判するのも、やめたい、やめなければならない。

・・・・と、考えてくると書くことがなくなってしまう。

「なぜあんなうそを書いた」
「なぜあんな自慢げなことをことを言った」
終わりの日に神さまの前でそう尋ねられたら
私はただただ恥じ入るしかない。

そう考えると、もう、何を書いたらいいのかわからない。

それでも、ブログを消そうという気はまだ持っていない。

きっとなにか、書くのだろう。
もし書くなら、明るいことを。
人様の毒にはならないことを、書けるといい。
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そこにいた子

わんこ
01 /05 2015
ブログに何を書いたらいいんだろう、と昨日書いたら
今日、書きたいことが、ちゃんと起きていた。
出来る限り淡々と書こう。

夫の働く工場がこの北関東に引っ越してきた当時、
工場の横手にある民家は、茅葺屋根だった。
東京からの工場移転なので、地元の方々に迷惑をかけないよう
義母も義父もそれはそれは心配りを尽くした。

茅葺屋根のお宅にはおばあさんとご夫婦と小さな男の子が2人いて
そこの子供たちなどは、しょっちゅう工場の事務所に来ては
義父母の孫たちと遊んだり、ファミリーレストランに行ったりしたものだ。

気が付いたら、小さな男の子たちはどんどん大きくなり
おばあさんはどんどん老いて、亡くなった。
おばあさんは、自分の年金や、戦争遺族年金などで、この家の家計の柱だった。
それが一切なくなった。
茅葺屋根には穴があき、そこにトタン板が貼りつけられた。
大工のお父さんは、ほとんど家にいて、ときどき義母の畑の水やりをしたり
義父の飼っていた金魚の水槽にえさをやったりし
義父母から「御礼」と称していくらか包まれたりしていたが
いつしか、電気もガスも止められていたらしい。

大工のお父さんは四年前に突然亡くなった。
肝臓癌だったそうだ。
2人の息子は既にほとんど家に戻らないが
2人が小さかったころ拾ってきた茶色い雑種犬は、昔のまんま
大工のお父さんが立てた、やけに大きなトタンの犬小屋に
残されていた。

犬の面倒(えさやり)は体の弱いお母さんが見ていたが
2人の子どもらが小さいころからずっと、この犬がまともに散歩していた様子はない。
犬は長い鎖に繋がれて、もう十何年間も犬小屋の周囲から先へ移動したことがなかった。

よく吠える犬だった、それが、あの犬の存在証明だった。
犬はいつも犬小屋から数歩のところにいて
何を思い、何を喜び、何を見ていたのだろう。
健康な子だったに違いない、もう十八歳近かったはずだ。

今朝事務所の二階から犬小屋を見ると
犬の使っていた敷物が外され、鎖も消えていた。
えさ入れもなかった。

あの子はついに命の日を終えたのだろう。
ほとんどだれにも声をかけられず、なでてもらえず
散歩にも行かれず、嵐の日も炎天下も雪の日も
犬小屋で淡々と生き抜いたあの犬。
名前すら知らないあの犬。

まれに戻る息子たちは、犬の死をどう受け止めたのだろう。
それともまだ知らないか。
ガスも電気もない暮らしのまま、えさだけは与えていたお母さんは
どんなふうに思ったのだろう。


犬は、全部、いい犬だと、思っている。
あの子もきっと、すごくいい子だったと、思っている。
あんまり吠えるから、近づくことも出来なかったけれど。

そして、いい子は、犬だって、天国に
あるいはそれに近い素敵な場所に行けるに決まっていると、思っている。

この前行ったうちの犬とも、天国の野っぱらで、遊べ、遊べ遊べ。


おばちゃんたちの花の時期

いろいろ感じたこと
01 /13 2015
細々と2週間に一度、
近所のおばちゃんたちと一緒にお習字を習っているのであるが
そろそろ6年になるだろうか。
6年もやれば多少はうまくなっても差支えがないと思うのだが
一向に進歩が見られないところは
やはりそのお稽古が、「お習字しながらおしゃべりしてお茶を飲む」集まり
と言い換えてもいい性質を持っているからだろう。

犬の散歩で知り合ったお習字の先生の家に、私が通い始めたころ
メンバーにはまだ、誰にも孫はいなかった。
どころか、結婚している子供がいるのも1人しかいなかった。
それが今現在、気がつけば全員、2人以上の孫を持つ身の上となって
なにかにつけては、半紙を広げた机の上に孫の写メが飛び交う。

正月があけて最初のお稽古だった今日も
さぞや孫談義が広がるであろうと思っていたら、
今日のメインは孫ではなく「老親の葬儀」であった。
メンバーの年齢はほぼ60代から後半あたりであって
その老親だから、みな80代90代の長命な方々ではあるが
90代で死んでも、60代の娘は「突然だった」というのだなと
不思議に感じ入った。

厳しい寒さが続いているこの冬、特に年末にお年寄りがバタバタなくなった模様である。
90代でも農家をやっていたお父上が、
80代で長く施設に入られていたお母上が、
近所の○○さんの家が、年始にご主人がなくなってお葬式の朝に奥さんが続けて、
など、どうもこの寒さの中、葬儀屋さん火葬場さんお寺さん、その他関係業務の方々は
正月返上で大忙しだったかもしれない。

それにしても、孫が複数いる年齢になっても
自分の親の葬儀が普通にある時代になったのか。
幼いころ、私自身が孫だった時代には、「おばあちゃん」「おじいちゃん」には
その上の「親」なんぞあることすら想像できなかった。

それが存命であるということは、ナンだ、世知辛い考えで申し訳がないが
「おばあちゃん」はがんばって娘や息子を育てるために働き
孫ができたら孫にできる限りの愛と経済援助を与えちゃうぞとうれしがり、
それと同時に
とっくに年金生活になりつつ自分の親のホームの費用やら葬式代まで
背負わされるということなのだ。

果たして自分がよいよいの高齢者になったとき、自分の身をまかなえるだけの
生活の費用が残っているかどうか、きわめて不安ではなかろうか。

お習字のおばちゃんたちも、そのあたりは多少不安に思うところがあるらしいが
今のところまだあちらこちらに頼られていて、
それどころではない模様である。

まぁ頼られるうちはまだいい。
自分の親の例を思い出すと、それはある時期急にふいっと起きていて、
気がつけば子は親を頼らなくなり、いつ倒れるかわからなくなり始める親の周囲へは
子はなるべく寄らないようになって来るのだ。
(自分自身の家庭の安全のために!!!)

私もあと数十年もしないうちに、そんな時期がやってくるのだろう。
お習字のおばちゃんたちもそれを知りながら、
それでもせっせ、せっせと子の家庭のために心を砕き、
かわいいかわいい孫を愛し、
田舎の親が心配だと案じつつ、
あっちが痛い、こっちが痛いと言いながら、
人生の最後のきれいな花を咲かせている。
きっとそれでいい。

絶望について

こころ
01 /23 2015
「絶望」について、昨日の真夜中少し考える機会があった。
その言葉はよく目にし、耳にする。
人生に絶望した、絶望のあまり命を絶った、など内容が重い割には
世の中では使用頻度が低くない。

しかし本物の「絶望」を知っている人
経験した人というのは、意外に少ないのではないか、と
相手はつぶやいた。

私は絶望したことがあるだろうか、と自分を振り返ってみた。

あるのかもしれない。
健康だった体がみるみる病に蝕まれていった苦しみのころや
何をどうしても病状が進み続ける時期には
極めて過酷な精神状態を過ごしてきている。

けれども今思い返すと、あのころも私は
常に痛みを感じ40度近い体温を有しながら
見舞いに来てくれた男の子を誘惑してキスさせたり、
テレビを見、漫画を読んで笑ったり、
看護師や患者とふざけたり笑いあったり、
病室の人に編み物を教わったり、
刺繍に精を出したり、
源氏物語を読破したりしてやしなかったか。

当時の日記には痛みと泣き言しか書かれてはいないが、
それだけではなかったはずだ。
飲食を一切禁じられて数年あまり、
痛みや熱よりそれが辛くて何千回も泣いたけれども
その同じ時期に笑ったり、けろりとして音楽を聴いたり
本を読んだりできたのだ。

絶望した人間が笑ったり、音楽をうっとり聞きほれたり
本を読んで感動したり、せっせと編み物を作り上げたりは
出来るはずがないような気がする。

少なくとも私の考える絶望とは、そういうものである。
絶望しているくせにお腹がすいてケンタを買いに行ったり、
絶望しているくせに東野圭吾の新刊をわくわくしながら手に取ったりするのは
どうも私の思う絶望らしさから外れている。

だから自分の過去を思い返すと、絶望したことがないと思えるのだ。
そもそも自己中心的な人間は絶望しない。
スカーレット・オハラを知っていればそれがよくわかる。
私もその傾向が人一倍強い。
自己中心はいいことではないが、保身には強い威力を持つ。

さらに、私が病んで以降、周囲には必ず私のことを案ずる人たちがいた。
医師も看護師もみんな親身だった。
まわりの患者さんたちもみんな優しかった。
母は献身的に、私を支え、かばい続けてくれた。
父は私に怒りを見せなくなった。

こんな恵まれた条件を与えられて、絶望するはずがない。
そして発病して数年後、私は姉からもらった新約聖書に
神様を見出すことになったのだ。

そこから先は、絶望とはなおさら縁遠くなった。
心の中に消えない光が灯ったのだから当然だろう。

病気はさらに重くなり、要求される忍耐はさらに量を増したけれども
私に絶望は訪れなかった。
あまりに苦しいとき、私は先を考えなかった。
明日のことすら思うのをよした。
やっぱり泣き、痛みに転げ、叫び声も素直に上げたけれど
絶望することはなかった。

前述の人は絶望について
それは現実逃避ができない環境が必須だと教えてくれた。
四面楚歌逃げ場がない、前にも後ろにも動けない、と。

恐ろしい状況だ。
閉塞が現実に迫り、心と脳内まで自由を失うことの恐怖。

その人はそんな中にいたことがあるのに、
再出発し、また歩き出すことができた。
恐れるものはもう何もないのではなかろうか、
そう思った。