神様なぜですか

いろいろ感じたこと
02 /01 2015
朝、何気なくパソコンをつけて、いつものようにツィッターに行ったら
最初に後藤健二さん殺害画像(写真二枚)が目に飛び込んできて
思わず「うっ」と声が出て、逃れるように顔を背けていた。
(以下8行、画像内容について書いてあります。
白文字に変更してあるので読まないほうがよい方はクリックせず下へ降りてください)

ここから白文字↓
テレビの中に何度も見たあの穏やかで優しそうな男の人の首が
突っ伏した背中に乗せられていた。
閉じた目、ぱかっと開いた口は何を物語るのだろう。
斬首された人の顔を、私は生まれてはじめて見た。
処刑行為中の静止画は、さらに痛ましさを感じるものだった。
決して大きくないナイフで、あごを押さえられながら
あんなふうにじわじわと首を切られたのかと思うと鳥肌がたった。
後藤さんの顔は痛みと恐怖にゆがんでいるのだ。

ここまで白文字↑

今日は日曜礼拝だったが、礼拝説教の最中にも
私の頭の中には今朝方見てしまった画像が浮かんできて、
「ああ神様なぜですか」という思いを抱かずにいるのは難しい状態だった。
そんな疑問を打ち消すように
神を賛美する歌を繰り返し歌うのだが、それでも心にわだかまる思いは消えては行かない。

ただ、人間の限りない汚らしさを深く知ると同時に
そんな人間のために
凄まじい痛みと侮辱の中で磔になったキリストがいるということだけは
疑いようがなく、
だからなんとか私は保たれている。

礼拝後、例の画像を偶然目にしてしまったことを、近くの席の信者に話した。
私はその信者の言葉に、愕然としてしまった。

「あんなところへ生まれたばかりの子供がいるのに飛んでいった
あの人が悪いんですよ、自己責任でしょう、仕方がないですよ」
「戦争屋になろうって人間を追いかけて行ったんだから
(湯川さんのことだと思う)あっちも同じような種類なんでしょう、
自業自得ですね」

こう語った人は70代の元大学教授であり、間違いなく洗礼を受けた
クリスチャンなのだ。
さも軽蔑の色をこめた自業自得だとか、自己責任だとか言う言葉が、
まさか知り合いのクリスチャンの口から、すらすらと出てくるとは考えたことがなかった。

確かに自業自得ではあるかもしれない、
自己責任という言葉も、日本的な側面からすると使えるではあろう。
けれども、だからといって、その悲惨な死を、強い軽蔑の色をこめながら
「仕方がない」と言い切ってしまってよいのか。

自業自得でも因果応報でも、逆に処刑する側の人間でさえも
「彼らをお赦しください、彼らは何も知らないのです」と神に祈って
十字架の上で息絶えたのがキリストではなかったのか。

こういう「つまづき」を知ることによって、人は容易に信仰から離れる。
数年前なら私もそうなっただろう。
神を信じたくても、神の周囲に集まる人間の不寛容や優しさのなさに
多くの人間は、それをあきらめてしまうのだ。
「やっぱりな」。

・・・・教会は善人の集まりではないかと思われているのだけれど
実は教会こそ「罪びと」の集まりである。
「健康なものに医者は要らない、要るのは病人たちだ」とキリストは言ったが
まさにそのとおりで
私も含め教会に集うものは、おのおの自己の罪を強く意識しているからこそ
神の前に清くなろうと、そうなりたいと願うのだ。

他人を裁くなと、神様は言った。
自分が裁かれないために裁くな、と。
自分が裁くそのはかりで、自分もさばかれるのだと。

実を言うと、今回の事件、私も湯川さんのことは「自業自得だ」と
思う部分が少なくなかった。
けれども、世界中に戦争の悲惨さを訴えてきた後藤さんに対する考え方は
そうではなかった。
どちらも同じ人間なのに。
どちらにも案ずる人、悲しむ人はたくさんいるのに。

「自業自得だ」と言った教会の仲間も、いずれ
自分の思い込みが、神に喜ばれるか否か、はっきり気づくはずだ。
断罪をするのは神であり、私たちではない。

それにしても、もうこんな悲劇は起こってほしくない。
イスラム国には遅かれ早かれ、終わりが来る、そう思っている。
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いのちの重さ

こころ
02 /02 2015
いのちは重いのか、軽いのか。

突然の交通事故で命を失うこともある。
浴室で足を滑らせて、そのまま亡くなってしまうひともいる。
この季節、凍えて死亡するホームレスもいるだろう。
大半の死は、新聞の隅にすら載らず、日常のこととして収められてしまう。

死は確かに、日常性を伴うもの、あって当たり前のものだろう。
けれども死は、誕生と同様、特別な意味を人間にもたらすものだ。

遺された者にとって、死んでしまった人間の価値は二度とは得られぬほどの重さがある。
その死によって、自己の人生のあり方が変わってしまう人もあるだろう。

けれども、他者の死による打撃を実際的に己の心底に打ち込んだ経験のない者には、
死はあくまでも日常の一環であり、通過儀礼に、あるいは単なる出来事に過ぎない。

デヴィ夫人は今回の後藤健二さんの一件について、
彼の解放を願いつつも、彼が日本と世界にかけた迷惑について
はっきりと批判をし、いっそ自決をして欲しいと書いた。
そしてその考え方に賛同するコメントが700以上もあった。
母親としてわが子が同じ立場なら自決せよと言う、などというコメントも見かけた。

日本人の一部はいまだ武士の妻、武士の母でいるつもりらしい。
私にはこれらが、死を自分にかかわるものとして切実に感じたことがない人々の声に思えた。
あくまで「他人事」としてとらえているのだと。

ひとりふたりの人間の命のために、国家があたふたと走り回り
東西奔走する事態を、「大迷惑」と考えるなら
たかが数個の金メダルのために国家が何百億と言う金を使うことだって
迷惑のひとつだと考えていい。

これは数の問題ではなくて、国家がどう考え、動くかと言う行動と主義の問題なのだ。
ひとりのために頑張れない国家は
十人なら頑張るのか、百人なら頑張るのか?
この国はかつて百人だって千人だって「死んで来い」と教えた国だ。

そんな考え方はイスラム国や同類のイスラム系過激派と遠くない。


追記
昨日はツィッターに過去の後藤さんのツィートが何度も流れてきていた。
彼のツィッターからいくつかのツィートを。

後藤健二(@kenjigotoip)
2010年4月15日
何のために伝える仕事をしているのか?と思う人たちの多い中で、本当にヒューマンな人を認識すると心から嬉しいし、ほっとする。形は違っても、目的と想いは同じ。「無視しない者たち」。

2010年9月7日
目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。

2010年12月2日
そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人の愚かさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸が締め付けられる。声に出して、自分に言い聞かせないとやってられない。

2011年6月26日
世界市場では、待っていても何も起こらない。最初の一歩は自らが踏み出さないと。この日本国では、待っていたらこのザマなのですから。子どもを大事にしない政府や国に未来なし。

2012年8月15日
のんきに見せかけてずるい日本人。自分も含めて。



後藤健二さんは東京の日本基督教団、田園調布教会に通う、敬虔なクリスチャンだった。
クリスチャンたちには聖書系ツィートも複数から彼をしのんでたくさん送られてきていた。
その中でひとつ、ドキッとしたものをここに記しておく。

(@Maiko_bible)
捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。
もしあなたが「私たちはその事を知らなかった」と言っても、人の心を評価する方はそれを見抜いておられないだろうか。・・・この方はおのおの人の行ないに応じて報いないだろうか。-箴言24:11,12

しんみりうれしい

こころ
02 /15 2015
ごく少ないけれども、ブログを書いていてよかったなぁと思うことがある。

その人がとても苦しい胸のうちを少しだけ開いて、
自分の辛い経験を静かに書いて行ってくれたりするとき。

そういうコメントはたいがい他の人には読めないように送られてくるのだけれども
だからこそ、
ああ、この人ずっとこれを胸に抱えてきたんだ、
どれほど辛いことだっただろう、
どんなに重かったことだろうって、
どーんどーんと、その孤独が心に響きこんでくる。

ときどきそういうコメントをもらって、私は夜に眠れなくなり
うーんうーんと寝返りばかり打っていたりする。
他人の私が突然聞かされても胸に迫るくらいだから
対面して話されたら、こりゃあ泣くな、泣かずに聞けるものか、と思う。
大体においてそういう夜は、お祈りしている状態のまま、眠りに入ってしまう。
トイレに目が覚めると、しまったと、また祈ったりするのだけれども
トイレからベッドに戻るとまたいつの間にかお祈りの途中で寝入ってしまう。

結局人のこころの真の悲しみは、
私などいい加減な人間には近づくことも出来ないんだろうなぁ
と思う。

それなのに、辛いこころのうちを打ち明けてもらえると
なぜか、しんみりと、うれしい。
髪の毛1本ほどでも、力になれたらもっとよいけれども、
それはきっと分不相応な思いなのだろう。

子離れについて考えた朝

こころ
02 /17 2015
子離れについて考えざるを得ない朝だった。
今日、娘はいつもより1時間あまり遅い、遅番出勤の日だったので
通常の6時半よりものんびり起きる予定であった。

彼女は7時には起きる計画であった。
しかし遅番の日は9割がた計画どおりに起きてきたことがなく
そのたびに出勤まであわただしい状況に陥る。

娘は今週末に男とスキー旅行に行くのであるが
そういう日は100パーセント寝すぎることもなく、むしろ予定時刻より早く起き出してくる。

今朝は私自身も通院で時間に押されていることもあって
娘にはちゃんと7時起床を願いたかった。
6時45分に小さな声で穏やかに声をかけると、娘は7時には起きると布団の中でむにゃむにゃ言い
6時58分に階段下から二階を見上げて「もうすぐ7時だよ」と促した。
7時になった。
2階の娘のスマホが音楽を鳴らし始めたが、一向起きてくる気配はない。
おおよそ5分のち。
娘はやはり起きてくる気もない。

下腹にうんと力を入れ、階下から、思い切り怒鳴りつけたのはこのときである。
この手の声を出したのはまことに久しぶりであった。

娘はぶつくさ起きてきた。
時間のある日に遅く起きるのが何でそんなにいけないのよ、などという。

お前はいつまで学生気分が抜けないんだ、と怒った。
就職してからもうじき1年、いろいろ大変だろうからとたくさん遠慮し、気遣いもしてきたが
娘は、それを親の好意と受けとらず、当然のように思っているのだ。

大学を出て国家資格まで得て、お前はもう立派な大人で社会人なのだ。
来年には住民税だって払う身の上になる。
仕事をしているからなんだと言うのだ、もう1年目が終わりかけてる、
洗濯もゴミだしも、風呂の掃除さえも全部免除して、
食事も家で食べるものは全部私がやっている、後始末も私じゃないか、
お前はそれでも大人のつもりか、
お前は何一つ自分の世話は出来てないじゃないか!
満足に朝起きてくることも出来ないのか、
男と遊びに行くときだけ言われなくても早起きしやがって、
お前はいったいどういうつもりでこの家に居るんだ、お姫様か!

・・・・・とひとこと出ると次から次に出るわ出るわ。

もともと叱られたり怒鳴られたりするとすぐ泣く娘は例のごとく涙を出して
「もうこの家、出るしかないってことね」と
絶対返してくるだろうと思っていたせりふを返球してきた。

わかっておったわ、それはあんたの年頃にみんな考えることなんだから。
親がうるさい、もう好きに暮らしたい、その程度の理由で一人暮らしがずっと続くほど
世の中そんなに甘くはないわい。
朝寝したけりゃすればいい、でもひとり暮らしになれば
そんなことをしていると収集車に間に合わずに、たちまちゴミが溜まって行くんだ。
そういうリスクも覚悟して朝寝するならすればいい。
ひとり暮らしというのは、特に学生でもなく、
社会人になってから自己の意思で一本立ちするとなれば、そう甘いものじゃない。
周囲の大人をちゃんと納得させて、学生みたいな○年後に帰るなどという気持ちを捨て、
一切合財の荷物を整理しきちんと片付けて
きっちり親を安心させてからきっぱり出て行って見せろ。
逃げるように出る、飛び出すのは、ガキの甘えだ。

などと私自身なら出来ないような難しい自立を娘に要求してやった。
そしてこれが出来たなら、娘を見直すし、拍手し、喜んで手放そうと思った。

私は母親過ぎた。
食事の支度をし、家を片付け、棲みやすくしすぎた。
娘は男とセックスを楽しむ年齢なのだ。
いつまでも飯をよそい、パンツを洗ってやるようであってはいけない。

娘がこの家を去ったら、それはもちろんさびしいだろう。
しかし、もともとは夫婦ふたりからはじめたのだ。
子供は親の所有物ではない。
このさびしさをまっとうしなければ、親業を履行したとは言い切れない。

幸運なことに、私の周囲には子を手放して独り立ちさせ、それでも明るいご婦人方が多い。
私も彼女たちを見習って、そろそろ子供の母親を卒業しよう。