いのちの重さ

こころ
02 /02 2015
いのちは重いのか、軽いのか。

突然の交通事故で命を失うこともある。
浴室で足を滑らせて、そのまま亡くなってしまうひともいる。
この季節、凍えて死亡するホームレスもいるだろう。
大半の死は、新聞の隅にすら載らず、日常のこととして収められてしまう。

死は確かに、日常性を伴うもの、あって当たり前のものだろう。
けれども死は、誕生と同様、特別な意味を人間にもたらすものだ。

遺された者にとって、死んでしまった人間の価値は二度とは得られぬほどの重さがある。
その死によって、自己の人生のあり方が変わってしまう人もあるだろう。

けれども、他者の死による打撃を実際的に己の心底に打ち込んだ経験のない者には、
死はあくまでも日常の一環であり、通過儀礼に、あるいは単なる出来事に過ぎない。

デヴィ夫人は今回の後藤健二さんの一件について、
彼の解放を願いつつも、彼が日本と世界にかけた迷惑について
はっきりと批判をし、いっそ自決をして欲しいと書いた。
そしてその考え方に賛同するコメントが700以上もあった。
母親としてわが子が同じ立場なら自決せよと言う、などというコメントも見かけた。

日本人の一部はいまだ武士の妻、武士の母でいるつもりらしい。
私にはこれらが、死を自分にかかわるものとして切実に感じたことがない人々の声に思えた。
あくまで「他人事」としてとらえているのだと。

ひとりふたりの人間の命のために、国家があたふたと走り回り
東西奔走する事態を、「大迷惑」と考えるなら
たかが数個の金メダルのために国家が何百億と言う金を使うことだって
迷惑のひとつだと考えていい。

これは数の問題ではなくて、国家がどう考え、動くかと言う行動と主義の問題なのだ。
ひとりのために頑張れない国家は
十人なら頑張るのか、百人なら頑張るのか?
この国はかつて百人だって千人だって「死んで来い」と教えた国だ。

そんな考え方はイスラム国や同類のイスラム系過激派と遠くない。


追記
昨日はツィッターに過去の後藤さんのツィートが何度も流れてきていた。
彼のツィッターからいくつかのツィートを。

後藤健二(@kenjigotoip)
2010年4月15日
何のために伝える仕事をしているのか?と思う人たちの多い中で、本当にヒューマンな人を認識すると心から嬉しいし、ほっとする。形は違っても、目的と想いは同じ。「無視しない者たち」。

2010年9月7日
目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。

2010年12月2日
そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人の愚かさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸が締め付けられる。声に出して、自分に言い聞かせないとやってられない。

2011年6月26日
世界市場では、待っていても何も起こらない。最初の一歩は自らが踏み出さないと。この日本国では、待っていたらこのザマなのですから。子どもを大事にしない政府や国に未来なし。

2012年8月15日
のんきに見せかけてずるい日本人。自分も含めて。



後藤健二さんは東京の日本基督教団、田園調布教会に通う、敬虔なクリスチャンだった。
クリスチャンたちには聖書系ツィートも複数から彼をしのんでたくさん送られてきていた。
その中でひとつ、ドキッとしたものをここに記しておく。

(@Maiko_bible)
捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。
もしあなたが「私たちはその事を知らなかった」と言っても、人の心を評価する方はそれを見抜いておられないだろうか。・・・この方はおのおの人の行ないに応じて報いないだろうか。-箴言24:11,12

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