惣菜売り場でかきあげを引きちぎったじいさん

こころ
03 /02 2015
銀行の帰りに、いつもと違うスーパーに寄った。
そこはうちの近所のスーパーより流行っていて、昼間と言うのにお客さんもそこそこ来ていたんだ。

カートを押しながら、ちょうどお惣菜売り場の前にさしかかって、
特に意識もしないでコロッケやてんぷらの並ぶ売り場に近づいたら
偶然目にしてしまったわけよ。

並んだかきあげてんぷらに指を伸ばして、
受け皿に落ちたかきあげのカケラ、揚げ玉もどきをほじくって自分の口に入れているおじいさんをね。
あらら、とびっくりして数歩離れた場所からそのまんま凝視していたら
おじいさん、今度はちゃんとつながっている立派なかきあげの端っこを指で引きちぎって
口の中に放り込んじゃった。

うはぁ、と思った瞬間、私の近くに居たらしいおばさんの
「うぷぷ、すごいことするのね」と小さく笑うのが聞こえた。

汚いな、ああいう天ぷら知らずに買ったら気持ち悪いな、とそんな風に考えながら
とりあえず菜売り場を回ろうとしていると、
先ほど小さく笑っていたおばさんが、通りかかった店員を捕まえて
惣菜売り場を後にした例のおじいさんを指差し、今しがた見たことを報告していた。

店員は少し驚いた様子で、他にそれを見た人はいませんか?とおばさんに尋ね、
おばさんは当然のように、私を指してきちゃった。
私は遠巻きに「見ましたよ」と一言答えた。
だってそうするよりほかになかった。
店員はそれ以上私に確認することもなく、
急いで不潔になった天ぷらを廃棄しはじめたので、私はさっさと野菜売り場に向かった。
ちょっとほっとした。

野菜の前を歩きながら、さっきのおじいさんの行為がもやもやと忘れられないでいると
りんごの試食皿の前にあのおじいさんが立っているじゃないの。
皿に並んだ試食のりんごを、おじいさんはひとつ残らず食べきっていたところだった。

あちゃあ、と変な感じを受けながらとことこ歩いていくと試食用の皿と言う皿、
白菜の漬物も、ぬかづけも、菓子パンもスナック菓子も、
すべての中身がきれいに無くなっていたから、
おじいさんが食べんだと思った。

つい興味を感じておじいさんの後をついていってみた。
おじいさんは再び惣菜の並んだ売り場の前にきたけれど
売り場の前にはパートの店員さんが張り付くようにしながら
品物を整頓しているところだった。
見張りに違いない。
おじいさんはその存在を店側にすでに知られているもののようだ。

もしもし、あなた、もうお店の人にマークされてますよ、と
教えてあげるほうがいいのかな、と思った。
でもそれでは「他の店に行ったほうがいい」と言う意味にもなるわけで
試食品だけならともかく、売り物のコロッケや天ぷらを指でほじくられては
買う側としても嬉しくないし
犯罪を奨励してしまいかねないじゃないさ。

・・・おじいさんは、そう豊かな環境に暮らしている風采には見えなかった。
本当にお金がないのかもしれない。
おなかが本当に空いているのかもしれない。

おなかを空かせた人間に食べ物を与えるのではなく
警告を与え、戒めることに、意義を見出せるのかね?この私が?
わたしなんかがぁ?

ならばなにか買ってあげたらよかったのかしらん?
そのおじいさんの境遇が本当に貧困なのかどうかわからないのにかい?
よくあるじゃない、孤独からものを盗むこととかさ。
もしここで食べ物をあげたりしたら、このおじいさんは図に乗ってしまうかもしれないよ。

頭がぐるぐる巡って、自分がどうするべきかわからなくなったので
私は逃げるみたいに店を出て行ったが、
十数分歩いて家に近づいたころにふっと思った。

あのおじいさんが実は貧乏でないとしても、
私はなにか声をかけて、お惣菜の一つでも買ってあげたらよかったのではないかな。
おじいさんは私を騙すかもしれないけど
欺かれたり騙されたりすることを恐れていたら
人に手を差し伸べる行為なんか何一つ出来ないじゃないのよ。

世の中がどんどん貧しくなって、年寄りの孤独死は増えるでしょう?
お金が入らず食べるものもなくて、年寄りの万引きも窃盗もぐんぐん増えるでしょう?
自堕落な生活をしたわけでもないのに、貯金がまったくない、そんな老人が
世の中にあふれてくるかもしれないよ。

あのおじいさんは、どうしているのかなぁ、
今日はどう過ごすのかなぁ。
今日も埼玉には強風が吹き荒れているよ。



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死を祝す思い

いろいろ感じたこと
03 /09 2015
先日、教会の大先輩が天に召されたんだ。
たぶん80代で、信仰生活70数年と言う筋金入りのクリスチャン。

清貧をそのまんま体現したような人だったのだけれど
あのね、清貧ってね、場合によってはそんなにきれいじゃないものなのよ。
その人は貧しくて何年もお風呂に入らなかったから、
全身のあかで黒ずんで見えたの。

もうお年寄りだったけれど、さすがに夏場はにおいが強かった。
数年前まではわりと元気で、日がな一日街を延々と歩いていたので
日に焼けて真っ黒でもあったし、
一見するとホームレスさんみたいに見えた。

妊娠中の人が、臭いで気持ち悪くなったりするので、
みんな何とかお風呂に連れて行って入れようとするんだけれど
う~ん、少しぼけも入って居たのか、
お風呂は風邪を引くから入らないんだと、言うことを聞かなかったっけ。

その人は数年前まで、自分の持ち家に住んではいたんだ。
年金はバカ息子に横取りされて、
教会有志が衣類を送るほど着るものにさえ不自由をしていたし、
暖房の類は持てなかったけれども、
それでも帰って寝る場所だけはあった。

でもね、その家も息子の借金のカタに取り上げられて、
その人は生活の場さえ失ってしまった。
仕方がなく、妹さんの暮らす遠いアパートに移っていったのだけれど
距離がありすぎて、そのころから、教会には来られなくなった。

去年のイースターにその人は久しぶりに教会にみえたのだけれど
わずか1年半ほどの間に、あれほどの健脚ががっくりと衰えて、
ほとんどひとりじゃ歩けないほどになっていて、正直びっくりした。

倒れたのは今年の初めで、教会では入院中のその人のために祈りましょうって
毎週言っていたよ。
でもあれ、「助かりますように」って祈った人はどれくらいいたんだろうか。

私はそうは祈らなかったの。
むしろ穏やかな最期であってほしいと、思ったりした。

あの人が天に召されたよと連絡があったとき、
私は思わず言っちゃったんだよね。
「ああ、やっと・・・・・」って。
非難されるかなと思ったら、電話口の向こうの役員さんも
「そうなのよ、やっとね」。

すごく大変な後半生だったから、やっとおしまいになって、
やっと天国に行けて、ハレルヤだね、
ほんとうによかったねってみんな喜んでいるよ、って言った。

そう、喜んでいいことなんだ。
筋金入りの、バッキバキのクリスチャンだったんだもの、
本当に少ないお金でも食べ物さえ惜しんで、献金に出してしまうような人だったんだもの、
天国に行けないで、どこへ行くと言うの。

体調が悪くて、お葬式には行けなかったけれど
むしろ行かないでよかったかもしれない。
親を食い物にして食い尽くしてしまったバカ息子の顔を見たら
なんともいえない複雑な感情を抱かざるを得なかっただろうから。

ねぇ、でもさ、あんなに信仰心の強かった人の息子が
どうしてそんな風な人間に育ってしまったのかな。
なぜかな、なぜなんだろうな、
私たちの見えないところで、どうにもならない事情が存在していたのかな、
いくら立派な人に見えても、
すべて知ってるわけじゃないから、そんな理由、わかりっこないよね。

辛かったと思うよ、何十回も泣いたと思うよ、
子供のために必死に祈ったこともあったんだろうにな
神様はお聞きにならなかったのかな。
それとも私たちには見えないところで、
神様はあの人を満たしていたのかしら。

そうであってくれたらいいな、そうであってほしいな。

でももう、いいか。
その人は天国で再び健脚に戻っているんだもの。




泥を吐く

こころ
03 /29 2015
ちょっとしたことがあっても、すぐにブログに書かなくなった。
書かないでもいられるようになった。
もう何年も前になるけれど、とにかく書きたくて書きたくて仕方がなかった一時期がある。
毎日毎日パソコンの前に6時間近く座って、
あっちに手をつけ、こっちに広がり、そっちもやって、
見知らぬネットの中の人々と会話したり、競争したり、慰めあったり、相談したりして
孤独だった自分を悦ばせていたような気がする。

ブログなどの自己発表に耽溺する人みながみな孤独だとは考えていないが、
少なくともその一部の人々は、実世界での自己の境遇、待遇、
あるいは評価といったものに甘んじてはいないように思える。

子供がいても、家族がいても、優しい夫がいてさえも
家庭の主婦の心の奥底には、自己実現への憧憬と焦燥が存在しており、
同時に穏やかで悲観的な諦観が、川底の汚泥のように沈んでいる。

ブログやホームページといった自己を発信する場を得て、
私はそれら汚泥を吐いて吐いて、吐きまくった。
もう10年も前になるか、最初のブログのころは
読み手を誘うための誇大表現も、ええかっこしいの理想の自己に関する創作も、
わずかで情けない現実の事も、ごちゃごちゃのごちゃまぜになって、
ついには書いている自分が嫌になったほどだった。

それでもまだ書きたいことがあって数年間、あっちのブログを作っては消え
作っては消えを繰り返したが、
このブログを作ったころから、吐き続けた泥もようやく薄まりはじめてくれた。

そしてもうこの数ヶ月は泥らしい泥も吐かなくなった。
私の中の汚泥はいま、ほとんど自己消化できる程度の量になったのだろう。
これは私が年を取ったせいかもしれない。
汚泥の量はきっと、捨てきれない夢や、抑えがたい欲求や、噴出す怒りに比例するのだ。

私はこれからもときどきブログを書くだろうか。
実のところよくわからない。
あまり書かずにいるのも脳機能的に不安を覚える。

ああそうだ。
今はまだ、枯れていく自分に関して切迫した心情を感じていないが
いずれ「老い」に伴うさまざまな感情が惹起されるはず。
そのとき私の心の中の汚泥は再びその層を厚くするだろう。
すると私はまた川の底で、どろどろと汚れた泥を吐きはじめ
そうしてまた、このブログは必要になるのだ。