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教会でちょっと衝撃的な実話を知ったのでここに書きたいのだけれど
名称を出すと、実際的な被害が起きかねない危うさがあるので
読む方が想像してくださったら幸いです。

この人たちはその地に聖書を送り届ける活動をしています。
その地は自由なところではなくて
宗教の自由は保障されていません。
それでもこの数十年、大きな革命の後は門が開かれ
その地の指導者によって
ある程度の宗教活動は大目に見てもらっていました。

世界中の宗教者たちは、信じるものに飢えた人々のもとに
手を差し伸べるために、伝道をはじめました。
キリスト教はもちろん、聖書にもあるイエスキリストによる「大宣教命令」に従うべく
その地にも多くの人材を投入し、精神的にも物理的にも貧しい人々を
助け続けてきました。
あれから数十年、キリスト教の超教派団体はその地に人材と聖書を送り続けています。

その地は今現在、表面上とても豊かになり
金持ちといわれる人々も多くなり、それらの人々が世界各国へ旅行に出て
その豊かさを印象付けているのですが
それらお金持ちの人々は人口の1割に満たず、大半の人々は貧しく、
豊かさとは無縁の暮らしを余儀なくされています。

たとえば働いて働いて、年をとって、体が壊れてもはや「無駄飯食い」となり、
誰にも愛され大事にされた記憶のないままに虚無と孤独を抱えて生きる人々は
「イエス様は自分の命を捨てるほど、あなたを愛している」という言葉に
己の存在の根底を揺るがされるほどに打たれるのだそうです。

それらの人々が、自分と同じような宿命を背負った隣人たちに
その話を広めていくうち、同じように魂を動かされた人々が
増えていくのだそうです。

それらの人々は飢え渇いていた心に水を得たように、
もっともっとと、神様を求めます。
だからどうぞ、神様の言葉を送ってください、と。

その地に聖書を送るために、日本の教会もずっと活動を続けてきました。
しかしこの地の指導者の考えが変わってきて
広がっていた門戸が再び狭くなってきました。
こうしてその地の人々の状況を国外で語るだけでも
スパイ行為とみなされ、逮捕されてしまうのです。

今年になって多くの宗教活動者が逮捕され帰国できずにいます。
それでも、聖書を送ろうとする超教派団体の活動は止まりはしません。

いったいどうやって数百冊の聖書を送るのか、
その方法はつまびらかにされてはいません。
ただまた近いうちに、ひとりの伝道者がその地に渡ることが決まっています。
どれだけ危険か、目に見えているのに、
もしかすると命さえ危ういかもしれないその伝道に
でてゆく日本人がいるのです。

受け取る側のかの地の人々はこう言ったそうです。
「門戸が広がるようにとか、
世の中が変わるようにとか
そんなことを祈ってほしいとは思いません。
神様は必要を満たしてくださるのですから。
ただ、私たちの信仰が弱まらないようにと祈ってください。
日本の人たちが私たちのために祈ってくれているという
それだけで、私たちは孤独ではないと思えるのです」

こういう話に、鼻白んでしまう人もいることは知っています。
けれども、いまこうして
私たちがぬくぬくと生ぬるい生活に浸っている間にも
神にすがり燃えるような思いでやっと生き続ける人たちもおり
そのために、己の命も家族も顧みずに旅立つ人もいるのだということを
知ってほしくて、これを書きました。

教会でこの話を聞いた人々は一様に
強い衝撃を受けていました。
こんなに強い信仰を、神を求める気持ちを
私たちは持ったことがあっただろうかと思いました。

命がけという言葉を人は簡単に使いますが
現実に命をかけても前に進もうとする人を知ると
私たちは驚きと感動に目を見張ります。

この地の人々のために、真剣に、強く祈ろうと思いました。
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コメント

まるで

本で読んだキリシタン迫害の時代の話のようです。

宗教に興味はあっても信仰には距離をおく私ですが
かつての日本における殉教者たちと重なって
白けてみせる余裕もなく 鳥肌が立ちます。

理解はできないけれど
「そういう世界はあるんだ」という事は
知っておかなくてはいけないなあと思います。

Re: さくらさん

たびたびご訪問いただいておりますが相互リンクはいたしておりませんのでお断り申し上げます

Re:ウロさん

映画やテレビや物語で、宗教のゆえに迫害されている人々を知識としては知っていても
現実世界にそのような状況の人々を身近にすることは、受け止め方がまったく違い
その印象は非常なものでした。
たとえば新約聖書の筆者であるイエスの弟子たちのほとんどは何度も拷問を受け、
最後は残酷な方法で処刑されているのですが、私はそれらをよほど軽く見ていたのだと思います。
あるいは実際にイエス様に会った人々ゆえに、何か特別な勇気の恵みがあったのではないかとか。

12弟子たちを見習うように死を覚悟して宣教に向かおうとも
人の心はやはり、どうしたって弱くなるのではないか、と私は思います。
けれども、そこに「恐れるな」という直接的な神様の声が響くのでしょうか。

牧師や宣教師になろうとすることを「献身する」と言います。
まさに字の通り身をささげるのです。
日ごろ冗談を言ったり、笑ったりしている国内の当たり前の神父や牧師にも
そのような一面があるのか知らん、などと不謹慎にも思ったりいたします。

ところでこの話をしてくれたのは、実際にその地に赴いたことのある女性でした。
ごく普通のおばさんに見えました。
しかし彼女も命がけの奉仕者なのです。
驚きでした。
私がそこに献金をしていることでつながっているのだと言う事実にも驚かずにはいられませんでした。

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