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書く習慣をなくすと、ほんと書かなくても平気になってしまうので
脳内はいよいよもってヤバい感じになりつつある。

実は書かなくっちゃなぁ~と思ったことがあったが
つい面倒で書かずにきた。
書かなくっちゃなぁ~の内容が、そこそこしち面倒くさいにもかかわらず
読み手によっては全然読まない方面のものになること請け合いだし、
そもそもしち面倒くさいことを、なぜに私ごときが書かなくっちゃと思うのかが
自分自身でもよくわからんのだった。

だが、面倒くささにかまけていたために
自身の脳内が加速度的に加重的に溶け始めてきたような心持なので
仕方がないので今日は書いてみることにした。
会社にはデスクがあってPCも打ちやすいしね。
(今日のノルマ仕事は済ませました、一応)

ええとね、お友達のウロさんが先日ブログに書いていたのよ。

「なんのため」

これを読んで、まず思い出した。

娘がボーイスカウトに入っていたころの話。
ボーイスカウトの制服を着て行動している時には周囲の目が
「あの子たちはいい子で礼儀正しくて、決して電車のなかで騒いだりしない」
と思い込んでいるので、引率の大人たちは非常に苦労するらしい。
だって制服の下は普通の子だから、周囲とそれほど差異はないにきまってる。
宗教ってこれとよく似た受け止め方をされがちなのよね。


私は多分、生まれた時の宗教は仏教だったのだと思うんだ、
家にはよくわからない仏壇もあったし
お坊さんのお経も何度か聞いたことあるから、きっとそうだろう。
日本にはその昔、宗門人別改帳っていうのがあって
私の父の先祖も母の先祖も、
たぶんなんとか宗のなんとか寺の檀家だったと記載されていたに違いないので
無宿人でもない限り日本人の大半は仏教徒だったのではなかろうか。

むかしむかしは、適当に近所のお寺に所属させられて、
どこかしらに所属してないと無宿人とか非人とかにされてしまったからさ
なんてったって仏教徒でないといけなかったけどもさ
それこそボーイスカウトの制服と同じでさ
宗門改め帳に名前があるからって、全員が真面目に信仰心をもつわけもないし。

なんでもテキトウ、その位が一番手頃だし、楽ちんだ。
成田山やら浅草寺やら清水寺やら法隆寺やら観光したり
観光すればきちんと手を合わせてお参りしてくるんだしね。

道祖神とかお地蔵さんとか、お稲荷さんとかそこらじゅうにあるし
正月は神社に初もうでに行くし、山に登ればそこにも神社があるし
お参りしてたらどこかしらで御利益あるんじゃないかとか思ったりね。

でもさでもさ、そんな感じに宗教が大好きなくせにさ
ひとつの宗教がっつりいってると、どことな~く奇異な目でみられたりするのが
日本なんだよね。

まぁわからなくもないです。
大昔にやってきた正統的な各仏教やイザナギイザナミをはじめとする神道以外の
なんだかよくわからない新仏教や謎神様や
神や仏を洋の東西を問わずにごちゃまぜにした宗教や
あげくの果てに誰それの生まれ変わりが云々とか
そんなのだーれだって奇異な目で見ますよ、はい。


幸運なことに私の周囲にはその手の新興宗教系の人がいないので
いろいろな人を比較することが出来ない。
というか、私はキリスト教ですっていうと
勧誘の方々速やかに去られますです、エホバさんさえも。


ええと~個人的には宗教を「御利益系」と「哲学系」に分けているんだ。
御利益系ってのは読んだ通りの意味でね
馬券が当たったり、家内安全商売繁盛夫婦円満だったりするやつね。
哲学系は、そうね、「禅宗」とかだとわかりやすいかな。
哲学系は世の中の悲劇や苦しみを「在るもの、決してなくならないもの」として生きるわけよ。
ハッピーを目指して信仰したりはしないんだわね、
知ってます? 誤解されてる場合が多いけどキリスト教はこっちです。

この苦しみにまみれた世界の中になにか一片の安らぎを、悟りを
得ようとする人々がいて、
あるいはどれほど汚れた世界の中にも、
花のように咲き出でる愛のあることを信じる人もいて、
それが宗教の存在意義なんだと私なんかは思うわけであります。

世界の貧困や戦争や飢えといった大きな問題にも
あるいは家庭内の不和や悲劇にも
立ち向かってゆかない信仰の姿勢に憤懣を覚える人もいるのはよく理解できるけれど

人が宗教に入ってゆくのは
圧倒的すぎて自分の力ではどうにもならないなにかに行く手をふさがれた時
というのが多いので、
つまり完全に自分の無力を理解したときなわけだから
もう一度立ち上がって戦えっていうのは、
けっこう難しい注文の場合もありますわなぁ。
ま、好戦的な人もおります。
ちなみに宗教とこれが絡むとかなり恐ろしい相手になりますぜ。
私は当然穏健好みです。

で現在、ある程度確信しているのは
武力であろうと言葉であろうと、
魂での勝利に勝るものはないのだろうということかな。
私自身にそれが出来るかどうかと言えば
絶対に「できません!」と答えるけれどね。

なんか話が広がってまとまらなかったなぁ。
やっぱり書きなれてない~

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コメント

なんだよねー

こういう話って書いているうちにぐるぐるで
何を言いたかったか どうまとめたかったか 分からなくなるうえに
熱心に読む人は限られてくる

はい。

ごめんね。くしゃみして。
あ あくびの方かな。

よき宗教人が よき人間 というのは
私の勝手な思い込みでしょう。
哲学系とご利益系のどちらにも
よき行い は必要じゃありませんものね。
ただ何となく 神様って人を量るものだから
そのお心に背かないよう よき行いをする って思っちゃうわけさ。

最後に縋るもの としての宗教を否定するつもりはありません。

でもなんか面倒な問題を棚上げするための信心
ってのがムカつくのよ。
山積する現世の厄介事を袋に詰めて
お賽銭ならぬお布施と一緒に差し出して
あとは享楽的に生きてる
ってのがね!

哲学と呼べるほどのものがあるなら いいんだけどさ。
そういうのが全く感じられないから 苛々するんだろうな。

ご利益 哲学 の他に 娯楽系 の枠もあるかもね。
集団に属するための さ。

Re: ウロさん

キリスト教の場合、その手の享楽的な信者のことを「つまづかせる人」といいます。
その人を見てると「そんな人間が入るくらいだから、ろくな宗教じゃねぇ~」ってみんなが思うでしょ。
で、その人のおかげで誰かがその宗教を否定するようになるのね。
聖書ではそういう人は「首に石臼をかけられて海に沈められたほうがまし」とかひどい言われようをします。
そのくらい最悪なんですよ、信者なのに宗教を侮るような態度で生きる人たちは。
だから、ウロさんの指摘は一理あるのです。
私も気をつけなければいけないです。

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