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ポケットからこぼれ落ちた種

未分類
11 /05 2011
6歳くらいの女の子と、その妹が商店街を手をつないで歩いていた。
時間は午後7時前。
妹と見える子の手にはミルキーの袋が握られていて
姉の方の手にはお豆腐が袋に入れられていた。

商店街の人混みのなか1匹の犬がふらふら向かってくるのが見えた。
野良犬か、どこかから逃げた犬か。
お使いに出されていた女の子たちは、ぎょっとした顔つきになったと思うと
姉の方が手を離して車道に飛び出した。
姉は上手く通りを渡り、反対側の歩道に走り抜けた。
そして妹に「早く早く」と向こうから呼んだ。

妹はミルキーの袋を握ったまま戸惑っていたが
近づいてくる犬を見てから、思い切って車道に飛び出した。

そうしてはねられた。

妹の意識はそこからしばらく消えている。
気が付いたら、救急車の中にいた。
救急車の中は、回るライトで真っ赤に見える。

妹は目を覚まし、うとうとし、また意識をなくし病院に着いたときに起こされて、
それからまた意識をなくした。


姉は目の前で妹が車にはねられるのを見た。

妹をはねた車からおじさんが慌てて降りてきて
妹を抱き上げてすぐそこにある出来たばかりの病院に駆け込んでいくとき
姉も必死になって付いて行った。

若い先生は妹の手がまだ握っているミルキーの袋を離し、
姉に手渡そうとしたが
姉の方は気が狂ったように叫び、暴れていた。
いま目の前で起きている現実をまだ6歳の姉は理解できずにいた。

母が来た。
父が来た。

父は最初にこう言った。
「なんだこれは!」
姉はそのとき初めて、妹のポケットからたくさんのヒマワリの種が
こぼれ落ちているのに気がついた。
妹はきっとヒマワリの種を昼に集めてポケットに詰め込んでいたのだ、と姉は思った。


ラインはっぱ


と、いう話をおとといの文化の日に私の姉が話してくれた。
私はそれは違うよと訂正しなかった。

あれは秋の終りの事故だった。
私はその日、トッポジージョの絵のプリントされたズボンをはいていた。
トッポジージョの絵のあるポケットに私が沢山詰めたのは
ヒマワリの種ではない。
だいいち5歳ではヒマワリの種まで背は届かない。
私が摘んでポケットに入れたのはコスモスの種だ。

姉は今もそのときのことをまざまざと思いだせるという。
ほとんどトラウマになっているそうだ。
トラウマになって、再三繰り返し思い出してしまっているうちに
私のポケットからたくさんこぼれ落ちたのが
絵にならないコスモスの種より、ヒマワリの種に代わってしまったようだ。

ヒマワリの種の取れる頃だったら、私は多分足の骨くらいはやられていただろう。
冬に近い頃だったから、私のトッポジージョのズボンは厚手だった。
だから私の足は折れなかった。

それにしても、ヒマワリの種をポケットからこぼれさせながら
小さな女の子がそのまま動かなくならなくてよかった。

娘にそれを話したら「ヒマワリの種がいつかどんぐりになったかもしれない」
と言った。
うん、どんぐりもなかなか絵になりそうである。


    


父のこと母のこと

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10 /25 2011
父と母の話をしよう。

父は親に愛されずに育った、という。
しかし捨てられたわけでもなく、学校にも行かせてもらい
食事も食べさせてもらい、幼いころから奉公に出されたわけでもない。
私が聞いた限りでは親に殴られ、愛犬を知らぬうちに軍に献上され
寮制の学校に入れられ迎えにも来てもらえなかったのだそうだ。
しかも親は父が入った学校が優秀だったために自慢して回ったらしい。

「親に愛されなかった」から、と母は父の理不尽を全てそのせいに帰した。

父が給料を家に入れないでよその女に入れ上げたのも
父が私と母を田舎の家に預けて1カ月も帰らせず女と我が家で暮らしていたのも
父が裏口入学をさせるという犯罪の片棒を担いで親族に迷惑をかけたのも
父が危ない金融機関から金を借りて借金取りが毎晩ドアを蹴りつづけたのも
父が団地の自治会の役員になってお金を使いこんだのも
父が私の高校の役員になってお金を使い込んだのも
割ったビール瓶を向けて殺してやると姉に迫ったのも
母の顔を変形するほど殴り蹴り家から出られなくさせたのも
嘘を平気でついたのも
誇大妄想狂だったのも

どれもが全部「親に愛されなかったから」だなんて私は断じて思わない。

だったら私とて、そんな親に育てられたから性格が歪んだのだと
いろいろ言うことができるはずだ。

父が老いて母にすがりつくようになると
父の毒気にあてられて、母が頭と心の調子をおかしくした。
父が倒れて病院に運ばれるときも
母はそれを断固拒絶して「このまま殺せ」と叫んだくらいである。
父が病院に運ばれて、すぐに死ぬかと思いきやまだまだ死なないと知ると
「なんで死なないんだ」
「殺してくれと病院に頼む」
「早く死んでしまえ」
「いい加減に行け」などと凄まじい罵詈雑言を吐きだすようになった。
私は母を病院に行かせなかったが、
そうなると母は電話を日に20回もかけてきては
「いつまで生きるつもりだ」「私が殺しに行く」「地獄に堕ちろ」と
えんえん繰り返し、ののしるのであった。

父が死ぬことを母があまりに強く願うし、
正直生きていられてもまた迷惑をかけられるだけだと思ったので
私も父が死ぬのを待っていたと言ってよい。
ようやく父が死んだが、葬式はしなかった。
親族にも伝えなかった。
父の骨は半年余り田舎の墓にも入らなかった。
母は父の骨をごみに捨てようとしたが、それをしたら捕まるぞと私が教えた。
母の父への憎悪は母を食いつくし、母を内側から完全に壊した。
母の口からはその後3年間ほど、父の悪口しか出なくなった。

そういう両親に私は育てられた。
若いころの父は怒鳴る人で殴る人で恫喝し、子供を震え上がらせては満足する人であった。
我が家にはいつも金がなく、私は習い事をしたこともないし
塾に行かせてもらったこともない。
高卒当時は家に金がないから姉妹ともに二部に行ったが、
私の入学金は親でなく姉が出してくれた。
だが姉のおかげで行けた大学の二部も病気で中退せねばならなくなった。
長期入院は18歳から25歳までの間に合計で数年間にわたった。
あの当時は私の病気に金がかからなかったので入院が出来たのだが
父は2度見舞いに来ただけであった。

その後私は自分の貯金を使いはたして大学に入り
特待生になって卒業した。
父にも母にも金は出してもらってはいない。

どうであろうと二人は私の父で私の母だ。
父の血が自分に流れているのを呪ったこともあったが
病気を負って生涯戦うことになったおかげで
自分の親や血の問題など、24時間抱える肉体の苦痛に比較すれば
頭から払いのけるのが簡単であるのを知った。

いま、私を産んで育てた両親に言えることがあるとすれば
「産んでくれてありがとう」と言うきれいな言葉ではなく
「殺さないでくれてありがとう」だろう。

おなかの中で芽生えた命をあっさり殺せる現在
私なんか簡単に殺すことができた。
しかし両親は私を世に産み、食べ物を与え、衣服を与え、住むところを与え
命を永らえさせ続けてくれた。

私が今ここにいるのは父と母が、私を殺さずにいてくれたおかげである。
そうして私はいま、笑ったり、しゃべったりしている。
光を浴びて、風の香りをかぎ、花や緑を見つめることができる。

世は汚れ、人も優しいだけではない。
けれども世界はまだ美しい。
私には神様がいる。

お財布にいくらあれば?

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06 /07 2011
行く場所にもよるが、
近所のスーパーなら財布の中に2000円あれば全然心配なく出ていける。
とにかく不景気な昨今、1日の買い物を800円くらいで済ませることもあるくらいだから
2000円あれば、まず平気ではある。

むしろ家の中にいるときの方が5000円くらいは持っていたいときもある。
新聞屋の集金が突然来たりするからだ。
新聞代集金は引き落としも出来るらしいが
とんでもないと、私は思っている。

なぜって、新聞社の本社に口座を知らせるわけではないからである。
新聞販売店を信用しないわけではないが
かつて新聞販売店とケンカしたこともあったし、(解約を拒まれたのだった・・・)
直接的に縁がないと言われても新聞勧誘員の柄の悪さにぎょっとしたこともある身にすれば
新聞販売店を完璧に信用して口座を教えるというのは、
なかなかに難しい。

話がそれた。
私の財布に一番現金が入っているときは、主に病院に行く時である。
最低でも2万円は入っていてほしい。
電車代と診察代こみでだいたい15000円は使うことになるのだ。

もちろん財布の中に現金は多ければ多いほど素敵だと思う。

しかし持ちつけない身には、大金はきっと不安だろうな。
落としたり置き忘れたり掏られたりせぬ様、緊張してしまうに違いない。

というわけで私の財布はいつもちょっとしかお金が入っていない。
が、なぜか財布はいつもパンパンである。
キャッシュカードか?

いや違う。
家計簿に付けていないままの貯め込んだレシートと
おつりの小銭もだいたいじゃらじゃらしている。
クリーニング伝票にドーナツ屋のポイントカードなど、あまり重要でないカード類で
財布がおデブになっているのである。

というわけで私の財布はけっこう重く、分厚いのだった。
(持ち金の札が2枚で2000円の割には財布がでかいのだった)
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